「鑑賞後の気分は最低」なのに傑作!少女の心の傷を描き出す『MELT メルト』濃厚レビュー&インタビュー
映画『MELT メルト』が突きつける「語ること」の暴力と救済
心の傷は外から見ることができない。 もし見ることができたなら、その深さや大きさは一目瞭然だろう。だが、それは叶わない。 それを“診る”ために精神医学があるのだろうが、本当の意味での心の傷の程度は、本人にしか分からない。いや、もしかすると本人ですら分からないかもしれない。
だから人は、嫌な思い出や人間関係を忘れようとする。忘れることで、自分の心を守っているのだ。 しかし、人は思い出してしまう。あの日、あの時に負った、心の傷を。 7月25日(金)より公開の映画『MELT メルト』(監督:フィーラ・バーテンス)は、そんな“思い出してしまった人”の物語である。
厄災をもたらした“謎かけ”とは
エヴァはカメラマンの助手として働いている。幸せそうな人々を撮る仕事は賑やかだが、彼女の生活は空虚だ。 友人も恋人もおらず、両親との関係は冷え切っている。唯一の理解者だった妹もパートナーを見つけ、距離ができてしまった。
そんな彼女の元に、ある日メッセージが届く。“幼い日に事故死した少年・ヤンの追悼式を行う”という知らせだ。 それは、彼女に“あの夏”の記憶を呼び起こさせる。アル中の母、癇癪持ちの父に翻弄される生活だったが、 それでも、幼なじみのティムやローレンスとふざけていれば、日々はどうにか楽しかった。 だが、彼らの“悪ふざけ”を唯一止めていたティムの兄・ヤンが死んだことで、三人の関係は少しずつ軋み始める。
折しも13歳、思春期の只中。彼らが考案したのは、「女の子に“謎かけ”を出し、間違えるたびに服を脱がせていく」というゲームだった。 その問題のひとつは、エヴァの父がネットで見つけてきたものだ。
「何もない部屋で男が首を吊っている。足元には水たまりがある。どうやって吊った?」
答えは「氷の上に立っていた」――こんな謎かけに答えられる女の子はそういない。そしてこの遊びは、エヴァに取り返しのつかない災厄をもたらすことになる。
迷いながらも追悼式への参加を決めたエヴァは、自宅の冷凍庫で、静かに氷を作り始める。それは、語られることのなかった記憶を“語らせる”ための準備だった。
「逃避」「無関心」という加害
記憶とは、必ずしも整理できるものではない。思い出すたびに疼く傷があり、その痛みとどう共存するかは誰にも決められない。だが、あまりに深い傷は、癒す/癒されるという語りそのものを拒む。劇中、エヴァの母はこう言う。
「私たちは傷つきやすい。たまに発散することが必要なの。それに耐えられない人がいるならそれは、その人の問題。そのままでいい」
エヴァの母親は、酒に逃げた。「自分は傷ついている。だから他人に迷惑をかけても仕方がない」という態度は、被害者を装った加害そのものだ。痛みを免罪符にして他人を踏みつける――それは誰もが一度は内面に抱える、もっとも醜い自己中心性だ。
その構図は、エヴァにも受け継がれている。彼女は語らない。癒やされようともしない。ただ黙って、復讐の準備を進める。冷凍庫で凍らせたのは氷ではなく、怒りと羞恥と沈黙を固めた塊だ。
そして彼女は、それを持って故郷に帰る。何かを叫ぶでも、訴えるでもない。ただ氷を置き、時間がそれを溶かすのを待つ。それは“発散”というより、他人の無関心に対する冷酷な回答だ。
復讐とは、往々にして他人の痛みに無関心であるという点で、加害と同質だ。エヴァはそれをわかっている。だが、それでもやるのだ。それが彼女の選んだ方法だから。
原作の“沈黙”と、映画の“声”
『メルト』は、広く開かれた画角で撮られた幼少期と、陰鬱でタイトな構図の成人期が明確な対比構造になっている。 この視覚的コントラストが、物語全体に圧倒的な陰影を与えている。
光に満ちた記憶は、無垢の時間ではなく、むしろ悲劇の予兆として機能し、狭く息苦しい現在は、すでに回復不可能な感情の残骸が積み重なった空間だ。そして物語が進むにつれて、両方の時間軸が揃って最悪の結末へと収束する。この作品を、気軽な気持ちで観ることはおそらくできない。 精神がまともなときに観なければ、その陰惨さに魂ごと引きずり込まれる危険がある。
これ以上のネタバレを避けたいので、本作を語るには原作小説との比較をしてみよう。 原作「Het smelt」において、エヴァは最後まで真相を語ることはない。幼き日の悪夢を抱えたまま、言葉にすることもなく、ただ氷が静かに溶けていくのを見つめている。
氷こそが彼女の沈黙を代弁する象徴であり、“語られなかったこと”が読者にもっとも重くのしかかる。この作品は、語られない記憶、封じ込められた痛みが、いかに時間の中で圧を持ち続けるかを描いた、まさに“沈黙の美学”とでも呼ぶべき小説である。
一方、映画版のエヴァは言葉を放つ。自らの言葉で「過去のすべて」を明らかにする。彼女の告白は復讐ではない。語ることで誰かが謝るわけでも、赦しが得られるわけでもない。それでも彼女は語る。「誰もが忘れている」その記憶を、思い出す責任を引き受けてでも。
本作は「語らせることで、語られないものの輪郭を際立たせている」のだ。原作の沈黙が、読む者の想像力を引き出す「空白」として機能していたのに対し、映画の“声”は、観る者の倫理観を試す「問い」そのものになる。
語れば癒される、とは限らない。語れば理解される、とはなおさら限らない。だが、それでも語らねばならない時がある。その瞬間がエヴァに与えられた、唯一の自由だったのかもしれない。
原作は、氷が溶けるだけの終わり方をする。語られないことで、記憶の暴力をむしろ強く伝える構造だ。 だが映画は、語ることを選び、語った先にも癒しなどないことを描いている。だからこそ、この作品は“沈黙の文学”の映像化ではなく、“沈黙を打ち破る映画”として、非常に稀有な強度を持っている。
「観客にホッとしてほしい。すべての想いが折り重なってたどり着く結末に」
――本作、楽しんで拝見しました……と言ったら語弊がありますが、これまで経験したことのないほど“くらい”ました。原作はありますが、映画『MELT メルト』には映像独特の、心の傷が膿んでいく様が描かれていましたね。
フィーラ・バーテンス監督:瓶に閉じ込めていた幽霊は、蓋を開けたことで元には戻せない。パンドラの箱もそうですよね? 本作での幽霊は過去のトラウマなんですが、人はそれを“語る”ことで折り合いをつけると、私は考えています。
しかし、エヴァにはそれができるような強さはなく、ただ黙って耐えることしかできない。そこで私は考えたんです。「トラウマの解放はパズルではないか?」と。つまり、彼女が閉じこもっている檻を開けるピース……それがヤンの追悼式の招待状です。これがピタリと、パズルの最後の一片としてはまってしまい、後戻りができなくなってしまう。そしてエヴァは、自分の心に突き刺された短剣を、過去に関わったすべての人に突き刺していく。
――過去のエヴァを知る人々は、彼女に起こったことを“なかったこと”にしていますよね?
はい。だからエヴァは、自分がそうであったように、過去の傷を自分とともに皆にも刻みたいと考えています。劇中の歌にもありますよね。「自分の体がなくなっても、“遺る”」と。復讐劇としては、とても美しいと私は考えています。
――結局、関係者全員の瓶に“幽霊”を閉じ込めた形ですね。具体的な復讐場面は原作では描かれていません。映像化に踏み切ったのはなぜでしょうか?
エヴァのように言葉を持たない人々に、声を与えたかったんです。過去に傷を抱えた人々は、その傷に追われ、抗い、葛藤する日々を過ごし、社会的機能不全に陥っています。エヴァはその中で、内側から自分を食い潰していってしまう。そして中身がない、虚ろな人になってしまうんです。エヴァのような人たちは少なくはないのに、私たちは彼らのことを本当に理解していないと思いませんか?
――語ることで、何かが得られると?
はい。誰かが言っていたのですが、“痛みや悲しみは、沈黙するよりも人に語り、知ってもらうことが大切”なんだそうです。黙っていては誰の目にもとまることなく、自分で自分を追い込んでいくことになりますからね。でも、声を上げることは大変勇気のいることだと思います。だから、内側で起きていることを外側に出す。それが『MELT メルト』で、私が挑戦したかったことの一つです。
――エヴァは語ることで、痛みにまみれた儚い存在へと変わっていきますが、彼女が解放されていく様がとても美しく感じました。監督はエヴァを客観的に見て描いたのでしょうか? それとも思い入れがありましたか?
彼女には共感しかないです! 現代社会は“成功”とか“成長”とか、困難や危機を前提とし、そこで求められる“耐える力”や“立ち直りの姿勢”(Resilience)がしばしば理想像とされます。でも、エヴァはそういった力を持ち合わせていない。もしかしたら、彼女のような人の方が多いかもしれない。そんな中で本作をどう終わらせていくのか、かなり模索しました。結末は決めていましたが、「どう見せるか?」ですよね。幼少時代と現代とをモンタージュで重ねていく中で、エヴァが解き放たれていく(redeem herself)ような見せ方をしました。
――しかし、彼女の最後の行為は……
そう。彼女の選択は、いつの時代も是とはされません。でも、私は彼女の最後の行為を見て、観客にホッとしてほしいんです。すべての思いが折り重なってたどり着く、ほろ苦い終わり方として。私たちはエヴァと邂逅できた。彼女の思いを知った。それが美しいと思ってくれたなら嬉しいです。
――結局、私も瓶に幽霊を詰めてしまったわけですが……
それでいいと思います。後半、踊っている幼き日のエヴァと、涙を浮かべた現在のエヴァが目を合わせるようなトリックを使っています。お互いに起こったこと、これからすること。それをわかり合えたことを表現しています。何かが許されたりするわけじゃない。何かが解決するわけじゃない。ただ、エヴァ自身も観客も、過去とわかり合えた。それだけで十分だと思います。
「夢中で脚本を書き上げ、ふと思った。“これ、撮らないといけないんだ…”」
――暖かい少女時代は冷たく、冷たい現在は熱くなっていくクロスフェードが素晴らしいですね。映像の温度感もフレーミングもまったく違うのですが、とてもシームレスです。
おっしゃるとおり、クロスフェードのように制作しました。少女時代は夏、現代は冬という設定でもあります。夏ってとても開放的ですし、希望を感じますよね。それに合わせてフレーミングもワイドにしていて、エヴァだけでなく、周囲の景観や人々も映り込むようにしています。一方、現在はエヴァのクローズショットをメインに据えました。つまり、現在のエヴァは視野が狭く、希望がない状態を表現しました。しかし、それが後半に従って逆になっていく。でも、あまり強いコントラストはつけないように努めました。
――たしかに、季節感も物語の雰囲気に役立っていますね。
ええ。そして、冬の後には春がきます。氷が溶けて……エヴァにも春が来るんです。この物語は決して暗いだけではないんです。
――さて、最後に伺いたいのは、幼少期のエヴァを演じたローザ・マーチャントさんについてです。かなりセンシティブな描写がありますが、どのように演技指導されたのでしょうか?
自分で夢中になって脚本を書き上げて、ふと思ったんです。「これ、撮らないといけないんだ……」って(笑)。原作者のリゼ・スピットも何回か現場に来てくれたのですが、彼女自身も「私、こんなこと書いたっけ?」と言ってました。エヴァは13歳の役ですが、ローザの実年齢は16歳だったんです。だから少し大人びていて。しかも、元々原作の大ファンで、リゼとも面識があったんですよ。オーディションの前の話ですよ? さらに心臓の持病があって、若いながらも苦労している子で、自己表現に長けていました。
――とても16歳には見えませんでした……。
そうなんです。本人には失礼なんですが、精神的に成熟しつつも幼く見えるローザは、エヴァ役にピッタリでした。もちろんティムもラウレンスもそうです。演技指導については、オーディションの段階から心理セラピストに参加してもらいました。子供たちには一緒の家で生活してもらい、互いを知る時間を十分に設けて、ハードな撮影の後は一緒にゲームをしたり、おしゃべりしたりするクールダウンの時間を作りました。演技の記憶よりも、皆と楽しく遊んだ記憶が残るようにね。
――撮影そのものはいかがでしたか?
暴力シーンはファイトコーディネーターにお願いしていて、当然、物理的な衝撃は与えず、足を揺らしたり、体を揺すったりして撮影しています。また、イヤモニをずっとつけて、「今どんな状態を撮影しているのか?」をディレクションしました。ローザは原作のファンなので、セクシャルな場面があることは知っていましたが、彼女の中で現実と撮影で行ったことを結びつけてほしくなかったんです。
――皆さん、撮影を通じて精神的に成熟されたのでは?
大事なのはアフターケアですよね。いまだにみんな仲良しみたいで、お泊まり会とかしているみたいですよ。人にもよると思いますが、やはり表現するという行為は、成長につながると思います。ラウレンス役のマティエスは、最初は少し頼りなかったのですが、中盤からは堂々とした態度になりました。演技は、人とどうつながっていくのかが大事ですからね。次作では14歳の俳優と撮影したんです。楽しみに待っていてください。
『MELTメルト』は7月25日(金)より新宿武蔵野館ほか全国公開