「東京建築祭2025」。上野・本郷・湯島エリアで「ひとを感じる、まちを知る」建築を見てきた
待望の2回目が開催された「東京建築祭」
「建築から、ひとを感じる、まちを知る」をキャッチフレーズにした「東京建築祭2025」が2025年5月17日~25日に開催された。同建築祭は2024年に初開催され、延べ約6万5,000人の来場者でにぎわい、今回は待望の2回目。建築の所有者や建築家などが案内する「ガイドツアー」、書店フェアやワークショップなどの多彩な「イベント・連携企画」、そして通常は非公開の建築や場所が無料で公開される「特別公開・特別展示」と、合わせて150以上のプログラムが用意された2025年は約11万人が来場。さらなる盛り上がりを見せた。
今回、筆者は前回から拡大されたエリアの一つ、「上野・本郷・湯島」の特別公開された建築5つを巡った。
昨年の経験を踏まえて人気が高かった、あるいは今回新規でも人気が高そうな建築では、当日の朝にWEBで順番待ち申し込み(無料)が実施された。アクセスしてみると、あっという間に定員がいっぱいになっていき、盛り上がりを実感。
高まる期待のなか、1ヶ所目に選んだ「鳳明館 本館」へと向かった。
かつて東京一の下宿街だった本郷にある「鳳明館 本館」
最寄り駅からスマホのナビを頼りに歩いていたのだが、なぜか迷い込んでしまい、通りがかった住人の方に場所を教えてもらうことに。ちょうどそちらの方向に行くからとしばらく一緒に歩き、住宅の間の細い道が「鳳明館 本館」に通じていると案内していただいた。ご迷惑をおかけしてしまったが、会話で人の温もりを感じ、大通りから行くのとはまた違う、まちの姿を知ることができた。こういうまち歩きの時間も、建築見学では楽しい。
さて、「鳳明館 本館」は旅館だが、始まりは下宿屋だ。鳳明館のある本郷エリアは、明治時代に東京大学(当時は帝国大学)をはじめ多くの学校が新設、または移転してきた地域だ。全国からやって来る学生が生活できる場所が必要になり、“本郷下宿屋街”と呼ばれるほど多くの下宿屋が開業。その後、昭和初期になると旅館に転業する流れがあった。
1898(明治31)年創業の鳳明館も1936(昭和11)年に下宿屋兼旅館となり、1950(昭和25)年に旅館専業となった。1951(昭和26)~1959(昭和34)年に道を挟んで向かい側にある台町別館(現在は設備改修工事のため一時閉館中)と本館から歩いて7分ほどの場所にある森川別館が開業している。本館からは下宿屋・旅館の歴史が感じられ、当初オーナーの住まいとして建てられた台町別館からは、昭和初期特有の住宅の装いが見られる。一方森川別館は、団体用の旅館の雰囲気があり、それぞれ貴重な特徴を残している。
本館の建物は、木造2階建て。関東大震災、東京大空襲で被災することなく、本郷下宿街、本郷旅館街へと移り変わったまちの歴史を残しており、登録有形文化財になっている。下宿屋から旅館へと改修した際に、床柱や天井などにさまざまな国産の銘木が使われていて、異なる木の風合いが同時に楽しめるのも建築的見どころだ。
歴史や建築特徴などについては、大広間で展示で紹介されていた。実は、コロナ禍が長引いた2021年に休業し、ほぼ旅館の廃業が決まっていた。だが、地元有志の尽力で、2022年に地元の総合建設業・松下産業が事業を承継し、旅館としてその歴史が続くことになったのだという。
「ゑびすの間」と名付けられた部屋にはえびす様が釣りをしている窓の装飾があったり、タイルの色合いがかわいいひょうたん形の風呂があったり、ふと見上げた廊下の上部にコウモリの装飾も。そんな細かな意匠に感心しながら館内を歩いていると、ノスタルジックな洗面台やロビーにほっこり。
現在、大規模改修のため宿泊の受け入れは行っていないが、日帰りプランや会議、撮影、イベントなどでの館内利用ができるそうだ。
参考:https://www.homeikan.com/
国内最高峰の東京大学に残る、昭和初期の復興建築「理学部2号館」
次は、鳳明館でかつて下宿していた学生で通っている人もいただろう東京大学へ。通称・赤門として知られている、国の重要文化財「旧加賀屋敷御守殿門」は耐震基礎診断の結果、一部で耐震性能が低いことが分かって2021年から閉鎖中とのこと。そのため、今回は正門から入る。ちょうど学園祭が行われており、学生たちの若い熱気にあふれ、家族連れなど幅広い世代の姿もあった。
その盛り上がりの中で、有名な大講堂「安田講堂」をはじめ、どの建物も歴史を感じるたたずまい。じっくり見たくなる衝動を抑えながら向かったのは、「理学部2号館」だ。こちらは予約不要で見学できる建物だったが、東京建築祭のイベントとして、建築史家であり東京大学大学院工学系研究科建築学専攻教授・キャンパス計画室長の加藤耕一氏による講演があったため、入れ替えでその後に見学する方々の待機列がずらり。ここでも人気を実感した。
1934(昭和9)年に完成した建物は、建築家で、のちに東京帝国大学の総長も務めた内田祥三氏による設計。内田氏は、1923(大正12)年の関東大震災で被害を受けた校舎の復興を任され、統一感のあるデザインで生まれ変わらせた人物だ。赤茶色のスクラッチタイルに石を組み合わせたり、垂直線を強調した意匠など、「内田ゴシック」と呼ばれるスタイルが特徴。筆者が通ってきた正門から安田講堂へと続く“銀杏並木通り”の両側にあってすぐに魅了された工学部列品館、法学部3号館なども内田ゴシックだったのだ。
理学部2号館の見どころは、内田ゴシックを基調としながら、昭和初期の建築に見られる幾何学的で立体的なデザインも取り入れられているところ。例えば、玄関部分のアーチは角がまろやかになっていて、当時のヨーロッパの新しいデザインが反映されているという。内部では、三角形のコーナーを生かしたような幾何学的な形状の螺旋階段も面白い。
4階の講堂は、左右の柱に持ち送りといわれる部材がつけられていて、中央に柱がなくても建物を丈夫に支える構造になっている。また、講堂の前後の壁にある木製彫刻や天井の格子に組み込まれた丸い形が、直線的なデザインの中にリズムを生み出していた。
東京大学基金では、理学部2号館存続のためのプロジェクトが行われている。改修工事などは行われているものの、建物の老朽化が進み、冷房設備の不備、外壁の損傷、漏水などの問題が生じて、ここで行われている生物学の研究活動に支障をきたしているのだという。歴史的建物を守ることと、本来の目的である学問の拠点であること。その課題について知ることができたのも、建築祭に参加した意義の一つになるのではないだろうか。興味があれば、ぜひサイトを訪れてほしい。
参考: https://utf.u-tokyo.ac.jp/project/pjt197
財閥の邸宅「旧岩崎邸庭園」に造られた、社交場の雰囲気をとどめる撞球室
東京大学を出て徒歩15分ほど。次に目指したのは、「旧岩崎邸庭園」にある撞球(どうきゅう)室。
旧岩崎邸は、1896(明治29)年に実業家・岩崎彌太郎氏の長男で、三菱財閥(現・三菱グループ)の3代目社長を務めた久彌氏の邸宅として建てられた。当時は約1万5,000坪の敷地に約20棟の建物が並んでいたそうだが、現在は立派な洋館など3棟のみ。
その一つとなる撞球室は、いわゆるビリヤード場だ。洋館と同じくイギリスの建築家ジョサイア・コンドル氏の設計。洋館は、1600年代のイギリスで流行したジャコビアン様式であるが、撞球室はスイスの山小屋風で当時の日本では非常に珍しい造りだったという。
東京建築祭では、内部に入室が許可され、間近で見学できた。実際のビリヤード台はなかったのだが、曲線のデザインが施された梁や天井の構造などに目を見張った。壁紙に使われている、和紙に金箔を貼って凸凹模様をつけたきらびやかな金唐革紙(きんからかわかみ)の技術が分かる版木ロールも展示されていた。洋館に比べれば小さな離れといった風情だが、手の込んだ造りが施されていて、大切な社交場としての雰囲気を感じることができた。
若手建築家の“まちにつながる”設計事務所「MARU。architecture」
東京建築祭の特別公開では、上記のような歴史ある建物のほか、東日本旅客鉄道が開発した複合施設・ウォーターズ竹芝や印刷会社の古いビルをリノベーションした神田ポートビルなどの新しい建物も参加。それに加えて特徴的だと思ったのが、建物を造る側である設計事務所がオフィスを公開していたことだ。設計事務所には、関連する仕事、あるいは設計依頼した場合などは訪れることもあるが、そうでなければ公式ホームページやメディアを通して見る程度だろう。どの建物も設計する人がいて、普請に関わる人がいて、使う人がいる。その視点が建築祭のプログラムにさらりと組み込まれているのだ。
今回選んだエリアにも設計事務所が一軒、特別公開に参加していたので、見学してきた。「MARU。architecture」は、一級建築士である高野洋平氏と森田祥子氏が共同主宰する建築設計事務所。
鉄骨造の印刷工房をリノベーションしたという事務所の外観は、蔦が絡まっていて趣がある。そして目を引いたのは、道路に面した1階部分の入り口が全面、框戸(かまちど)になっていて大きく開け放たれていたこと。この特別公開の日程だけかと思いきや、まちに開くというスタイルで、普段から開け放たれているという。そこから近所の人などが何をしているところなのかをのぞきに来て、設計依頼につながったこともあるそうだ。
“開いてつながる”のはまちだけでなく、事務所内も。当初、2階部分にはカフェが入っていたそうだが、移転したのを機に事務所を拡張。2階は打ち合わせなどに使われるのだが、一部を吹き抜けにして、完全に遮断せずに“つながる”ようにした。吹き抜けを通じて会話をしたり、1階でコーヒーを入れて立ち上ってくる香りを受けて、2階から1階の社員にコーヒーを頼んだりと、吹き抜けがあることで交流も生まれているのだそう。
MARU。architectureが手がけるのは、近くの東京藝術大学の交流施設となる芸術未来研究場や、高知県の図書館・市民会館・公民館・社会福祉センター・商工会を一つの複合施設につないだ土佐市複合文化施設、愛知・名古屋で進行中の交流地点をつくる中川運河堀留開発プロジェクトなど、全国で多岐にわたる。事務所のまちや人とつながる風通しのよさが、それぞれの地域でも新たな風を生むことにつながっているのではないだろうか。
日本文化の継承も感じる、「東京国立博物館 庭園 茶室」
最後は、東京国立博物館の庭園にある茶室へ。正門から入って本館を過ぎて奥(北側)に進むと美しく整備された日本庭園が広がっている。その木々の合間に5棟の茶室が点在する。
そのうち、「春草廬(しゅんそうろ)」「転合庵(てんごうあん)」「六窓庵(ろくそうあん)」は、普段は閉じられている扉が東京建築祭では特別に開かれて、外から内部を見ることができた。現代から一瞬にして時代をさかのぼったような、日本の“わびさび”の世界が広がった。それぞれ様式も違い、茶の湯の奥深さ、建築の技術を垣間見ることができた。
また、東京・赤坂の九条侯爵邸から移築された九条館は、内部への立ち入り見学が今回特別に可能になった。茶室の特別公開のうち、こちらは事前の順番待ち申し込みが必要だったが、かなりの人気だったようだ。
床張付などには狩野派による著色山水画が描かれ、もとは京都御所内の九条邸にあったものだという。花梨の一枚板に藤花菱が透彫された欄間のすばらしさも、ため息ものだった。
なお、もう一つの茶室「応挙館」は、名古屋市郊外にあり、日本初の眼科治療院だったことでも知られる寺院、明眼院の書院として1742(寛保2)年に建てられたもの。こちらは現在カフェが営まれているので、機会あれば、貴重な建造物の中での時間を楽しんでほしい。
茶室はそれぞれ別の場所で建造されたものが、実業家などによって受け継がれ、東京国立博物館へと寄贈された。日本の文化、建築の技術という歴史的価値があるものを後世に残す、そんな取り組みの大切さも感じた。
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今回は5つの建築のみだったが、「建築から、ひとを感じる、まちを知る」ということを体感することができた。その“まち”で“ひと”とともに生きてきた建築、あるいは日本のほかの“まち”にあったものが“ひと”によって受け継がれ、歴史を伝える建築。また建築を造り出す“ひと”たちの息づかいも…。
建築を知れば知るほど、見学すればするほど、興味は尽きない。東京建築祭は、新旧含めて貴重なたくさんの建物の門戸が開かれる、またとない機会だ。「まいまいポケット」というアプリの中に東京建築祭のオーディオガイドとして特別公開・展示の各施設の見どころが紹介されていたのは、見学前の参考になったし、建物の魅力を教えてくれる“建築コンシェルジュ”が滞在する施設もあって、建築祭ならではの楽しみ方が実現されていた。あそこにも行ってみたい、ここ見てみたかったと、まさにお祭りのようにワクワクした気分で、いろいろなところを巡りたくなる。またぜひ来年も開催されることを願う。
東京建築祭が開かれるきっかけになったのは、2022年にスタートした「京都モダン建築祭」と2023年にスタートした「神戸モダン建築祭」の存在がある。2025年の京都モダン建築祭は11月1日(土)~9日(日)に、神戸モダン建築祭の次回は2026年5月に開催されることが発表された。また2025年10月4日(土)~11月30日(日)には「ひろしま国際建築祭」が初開催される。こちらも楽しんでみてはいかがだろうか。
取材協力:東京建築祭実行委員会