川崎大空襲 母と生き残る 「元の生活 思い出を失った」 旭区中沢・屋代睦美さん
1945年4月15日の午後10時頃から翌日未明にかけ、約200機のB29爆撃機が大規模な攻撃を行った「川崎大空襲」。川崎駅周辺や工場が集中する臨海部は甚大な被害を受け、多くの人が犠牲になった。
現在旭区に住む屋代睦美さん(85)もその被害を受けた1人だ。当時、川崎市に父・加藤喜作さん、母と共に3人暮らし。父は川崎の工業地帯にある会社に勤務しており、大空襲のあった日は夜勤に行っていた。
火の海を縫って逃避
「夕食の後、空襲警報が鳴り響いた。近所の人の『B29が来た、逃げろ』という叫びも聞いた」。母は当時7歳だった屋代さんの手を取り、2人で着の身着のまま家を飛び出した。一面に広がる火の海の中を縫うように一晩中逃げ回り、命からがらで臨海部の公園にたどり着いた。「飛行機や爆弾の音がしなくなりホッとした」。安堵からか空腹を感じ、晩ごはんの残りを食べたいと母にねだったが「家は燃えて残っていないのよ」という言葉が返ってきた。街を見ると、一面の焼け野原になっていた。
父の死を前に茫然
行き場もなく公園で一夜を明かした2人。そこに母の知人が訪れ、「喜作さんが倒れた」と伝えた。父のもとへ向かうも既にひん死の状態。母に「睦美を頼む」と一言漏らすと、そのまま目を閉じた。「父は空襲が終わった後、私たちを心配して自転車で家に向かっていた。その際に米軍の戦闘機に見つかり機銃掃射を浴びたそう」。父にすがりついて泣く母を前に茫然と立ち尽くした。
目の前の出来事を受け入れられなかったという屋代さんは、父の死や火の海を逃げまどったショックから、それ以前の記憶を失ってしまったという。「父との思い出が一切なくなってしまい、どんな人だったかが全くわからない」。残ったのは、戦火を逃れた父の写真数枚だけだ。
戦争のない世界を
家を失った2人は、母の実家を頼りに新潟へ疎開。しかし、食糧難の状況から受け入れ先は容易に見つからず。母はその後、実家の勧めで農家の男性と再婚したが、慣れない農作業に四苦八苦。再婚相手の病死もあり、安定した生活はなかなか得られなかった。
屋代さんは中学卒業後、愛知県などを経て横浜の郵便局に就職。母を呼び寄せてようやく安定した生活を手に入れた。
屋代さんは、世界各地で戦争が続いている現状に対して、「当時のような怖い思いは2度としたくない。これからの世代には、戦争のない平和な世界で暮らしてほしい」と思いを語った。