中森明菜にいま歌って欲しいこと。例えば、中島みゆき「夜会」のような舞台を演じたら?
「スローモーション」「TATTOO」などセルフカバー動画が公開
本日、7月13日は中森明菜の誕生日。
歌手としては、不在の期間が長く続いている。いや、実のところは生放送のテレビ番組で歌を披露するとか、ステージに立って歌うという活動がないだけで、中森明菜公式YouTubeチャンネルでは、「スローモーション」「TATTOO」など往年のヒット曲のセルフカバー動画が公開されている。
また、昨年11月には作曲家・林哲司のデビュー50周年トリビュートアルバム『SAUDADE』に「北ウイング」の新録カバーを披露し、ファンを狂喜させたのも記憶に新しい。歌手としての活動はマイペースで続けられており、6月には西武池袋線清瀬駅の開業100周年記念で、同地出身の明菜が直筆メッセージを寄せたパネルを設置するなど、話題にも事欠かない。
だが、歌手としてのテレビ出演となると、2014年の大晦日のNHK『紅白歌合戦』で、当時の新曲「Rojo -Tierra-」を中継で披露して以来であるから、もう10年以上前になるのだ。ライブも、ファンクラブ会員対象のディナーショー以外ではほぼ人前に立つことはない。
アコースティック編成の落ち着いたライブパフォーマンスを観てみたい
中森明菜に、いま、歌ってほしいこと。これが今回依頼を受けたテーマである。公式YouTubeでセルフカバーを聴いていると、この編成で、このアレンジのまま、ブルーノート東京やBillborrd Live TOKYOあたりで小人数を相手に、アコースティック編成の落ち着いたライブパフォーマンスを観てみたい、という思いが湧いてくる。
ディナーショー形式でも、もちろんその魅力は伝わるだろうが、むしろ音楽面を強調するような形で、現在の中森明菜を聴かせてほしい、そんな思いがある。採算面などを考えるとなかなか実現は難しいかもしれないし、チケットも争奪戦になることは確実。既に制作陣の選択肢として入っていそうな気もするが、小さいハコから少しずつスタートするのが今の中森明菜にとっては最良の選択肢であることは間違いないのだから。
中森明菜の音楽性の根幹にあるものとは?
そこでもう1つ、個人的な願望を述べてしまうなら、どこかドラマチックな演劇的ステージを中森明菜のパフォーマンスで見てみたい、という思いもある。
初期の頃から中森明菜は、歌の主人公を演じる要素がかなり強いシンガーだった。もちろん歌謡曲の歌手は、作詞家や作曲家の作った作品を歌う、というのが当たり前で、ある種 “誰かの物語を歌う” というのが歌謡曲歌手の在り方ではある。その中でも、本人のキャラクターイメージを周囲が作り上げるといった形ではなく、別の人物像に憑依して歌う、というのが中森明菜の音楽性の根幹にあるように思うのだ。
「ミ・アモーレ」ではリオのカーニバルで情熱的に燃え上がる女性を歌い、次の「SAND BEIGE -砂漠へ-」では中近東ムードを醸し出し、「TATTOO」ではビッグバンド風のオーケストラと映画『ブレードランナー』の近未来的イメージを融合させるなど、1曲ごとに曲想を変えて、その曲にふさわしい女性像を演じてみせた。
初期の「少女A」では不良っぽいませたキャラに加え、少女の不機嫌さを表現し、「セカンド・ラブ」では一転してピュアな少女の2度目の恋心を繊細に歌い切っている。こういった中森明菜の在り方は、歌謡曲歌手としての正統的な在り方でもあるのだ。その前例としては美空ひばりがいるし、何よりちあきなおみの在り方が、音楽性や歌唱法などは全く異なっているものの、明菜全盛期の歩み方に似ているのである。
“憑依型のシンガー” という中森明菜、ちあきなおみの共通点
ちあきなおみは77年以降、ヒット戦線からは降りて自身の歌いたい歌を追求していく路線に舵を切った。その結果、ファドやシャンソンをカバーしつつ、歌謡曲の持つ可能性を押し広げていった。そして80年代後半以降、歌に演劇性が加わっていく。88年の「役者」や「紅とんぼ」、「かもめの街」といった作品群にはそれが顕著だった。
中森明菜もちあきのように “演じる歌手” の方向性をとると面白いものが生まれるのではないか、とふと妄想する時がある。“憑依型のシンガー” という点でも2人は共通しているが、その演劇性をパフォーマンスとして見せることができる、例えば中島みゆきの『夜会』のような舞台を明菜が演じたら、それは観てみたいと思わせるものがある。
いきなりそこまでの大舞台とまではいかなくとも、まずは1曲だけで完結できる “ある女の物語” を明菜の歌唱と表現力で聴いてみたい。セリフのような語り口での、一人芝居にも似た歌謡曲。シャンソンの曲想に近いものだが、そんな明菜の姿を見てみたい。“歌姫” シリーズなどで表現したあのウィスパー気味の抑えた歌唱法は、実は演劇的な楽曲にこそ向いているのだ。
つまり、自己と向き合う苦悩よりも、他者に成り切ることで見せられる魅力が開花するかもしれないのだ。ヒット曲を連発してきた時代の明菜も魅力的だったが、現在の彼女が “演じて歌う” 姿もまた美しく、かけがえのないものに思えるのである。