SADS『忘却の空』を聴きながら池袋ウエストゲートパーク跡地を歩いてみた【街の歌が聴こえる・池袋編】
池袋は東京有数の大繁華街なのだが、そのわりに、この街を唄った歌は数少ない。駅の東西を巨大なデパートに囲まれて,ご当地ソング全盛期の昭和時代には、駅ビルばかり栄える「駅袋」などと揶揄されていた。それも一因だろうか? 新宿や渋谷に比べて、街の存在感が薄かった。だが、そんな池袋にも、日本大衆音楽史に燦然と輝く名曲がある。
『池袋の夜』青江三奈(1969年)
「夜の池袋ぉ♪」
と、青江美奈が恍惚の表情で歌ったサビ部分の印象が強く、そのため曲タイトルをずっと〝夜の池袋″だと、勘違いしていたのだが……じつは『池袋の夜』が正しい。
1969年にリリースされ、104万枚を売り上げた大ヒット曲だ。
歌の舞台となった横丁はいま
西武デパートやPARCOが万里の長城のように連なる池袋駅東口から、歌詞にでてくる「美久仁小路」「人世横丁」の方角へと歩く。
終戦後、池袋を始発とする東武東上線沿線の埼玉県朝霞には、進駐軍基地のキャンプ・ドレイクがあった。基地からの横流し物資は東上線で池袋に運ばれ、駅前の闇市で売りさばかれる。
当時は駅前から戦犯を収容していた巣鴨プリズンのあたりにかけて、東京都下最大の巨大な闇市が形成されていたという。
終戦期の喧騒がひと段落した昭和24年(1949)になると闇市は解体され、一部の飲食業者がその南側に移転して、栄通りや美久仁小路といった飲屋街ができあがった。
いまも残る美久仁小路の路地の道筋や道幅は昔のまま。トタン張りの昭和っぽい建物もそこかしこに残り、店の看板は今風に変わっているけど『池袋の夜』に歌われた当時の雰囲気を感じることができる。
しかし、美久仁小路の隣にあった人世横丁のほうは、残念ながら平成20年(2008)に解体されて消滅している。売春防止法が施行される以前の昭和30年代までは〝ちょんの間″と呼ばれる店が軒をつらねる風俗街だったという。1階のカウンターで飲みながら、お気に入りの女のコがいれば、一緒に狭い階段を登って2階へ。そこには粗末な布団を敷いた部屋がある。あとは説明するまでもないだろう。最も安く手軽に遊べる場所だった。
売春防止法制で風俗営業ができなくなった後も、人世横丁は普通の飲み屋街として存続していた。私も20年ほど前に数回ここで飲んだことがある。
「昔はここが、ちょんの間だったのか」
当時のままに残る建物の狭い階段や2階を目にして、感慨に耽ったのものだが。
はて、その人世横丁の跡地はどこだったっけ? わからない。
少し迷って見つけたその跡地は、いま高層ビルになっていた。人世横丁が消滅して10数年。それから数年後にこの高層ビルが建ち、私も何度かこの前を通っていたのだが。
横丁の記憶はいつの間にか高層ビルに書き換えられて、遥か昔からそこにビルがあったように勘違いさせられてしまう。「人世横丁の碑」が立っていなければ、その場所だったと思いだすことはなかったかもしれない。
人の記憶って適当で儚いものだよなぁ。しばらく目にしてないと、すぐに忘却の彼方だ。
『忘却の空』sads(2000年)
あ……そうそう〝忘却″で、思いだした。もうひとつ、池袋を唄った歌がある。
昭和45年(1970)に駅に戻って地下通路を抜け、今度は駅の西口へ。地上に出ると、すぐ目の前に池袋西口公園がある。
2000年に放送されたテレビドラマ『池袋ウエストゲートパーク』の舞台。ドラマのオープニングに流れていた主題歌『忘却の空』も印象的だった。
‶ウエストゲートパーク”は何処に?
いまの西口公園にドラマで描かれていた頃の雰囲気はない。令和元年(2019)にリニューアル工事を終えて、その眺めは大変貌を遂げている。
最近は愛称の「グローバル・リング」が浸透し、西口公園の正式名称はそのうち消え去りそうな感じ。
それでも、公園入口には「池袋西口公園」と書かれたプレートが掲げられ、英語名も表記されている。けど、「IKEBUKURO NISHGUCHI PARK」ということで……〝池袋ウェストゲートパーク″ではないのが、残念。
池袋西口公園もまた、終戦直後には闇市があった場所だった。戦前は豊島師範学校が立っていたけれど、一帯は空襲で焼け野原に。駅前の便利な場所だったこともあり、続々と業者が押し寄せて、あっという間に巨大なマーケットができあがったという。
隣接する学芸大附属小学校の移転にともない、1970年に池袋西口公園として整備されたのだが。当時の池袋駅西口界隈は夜になると人通りが少なく薄暗い。付近には連れ込み宿も多くある。公園は街娼が客引きするのに格好になっていた。
1990年に東京芸術劇場を開館させるなどして、行政も躍起になってイメージの一新をはかる。が、そう簡単に払拭できるものではない。
あげくに『池袋ウエストゲートパーク』の人気によって、負のイメージがさらに増殖されてしまう。
2000年代初頭頃の西口公園には、カラーギャング風やヤンキー風、日焼けしたギャルの溜まり場に。また、ダンボール箱のテーブルで将棋に興じる得体の知れない人々もよく見かけた。
「近寄りがたい場所」
そう感じる人は、多かっただろう。
いまの西口公園にその雰囲気はない。粗末なコンクリート造りだった野外音楽堂は、超大型ディスプレイを完備してクラシックコンサートの演奏も可能な国内有数の設備にバージョンアップ。
ステージを囲むように設置された螺旋状の巨大なリングが〝西口公園″を過去へと押しやり〝グローバルリング″への変貌を強く印象づける。また、ホームレスが水浴びしていた噴水も消えて、外国人観光客のインフォメーションセンターを兼ねたおしゃれなカフェテラスができている。
これだけ景観が変われば、公園内に集まる人々の顔ぶれも変わってくる。
「あれ? 昔はどこから公園に入っていたのだろうか」
ここでふと思った。池袋駅側から公園入り口が、以前とは違っている。昔はカフェが立っているあたりにあったはず。たぶん。
いまの公園入り口になっているあたりには汚い公衆便所があり、禁煙が厳しくなった近年にはトイレの隣に喫煙所が設置できた。下水の臭気と濃い紫煙がもうもうと漂う場所だった。
そういえば、いまは公園入り口に設置されている「平和の像」。公園のシンボルとして古くから存在していた。が、この場所ではなかった。改装工事後に移動したのだろう。
「はて、以前はどこにあったのだろう?」
思いだせない。
昔からよく目にしていたはずなのだが……ほんと、忘却の彼方だな。
取材・文・撮影=青山 誠
青山 誠
ライター
歴史、紀行(とくにアジアの辺境)、人物伝などが得意分野。大阪芸術大学卒業。著書に『首都圏「街」格差』 『古関裕而』 『江戸三〇〇藩城下町をゆく』『戦術の日本史』『金栗四三と田畑政治』『戦艦大和の収支決算報告』ほか多数。ウェブサイト『BizAiAi!』で「カフェから見るアジア」、雑誌『Shi-Ba』で「日本地犬紀行」を連載中。