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名場面・名文句の英語で読み解く、イギリス小説の傑作―カズオ・イシグロ『日の名残り』

NHK出版デジタルマガジン

オースティン『高慢と偏見』、ブロンテ『嵐が丘』、イシグロ『日の名残り』――。
誰もが知っているイギリス小説の傑作10篇を、名場面の優れた英文と濃密な文法解説を通してじっくり精読。斎藤兆史氏(東京大学名誉教授)と髙橋和子氏(明星大学教授)の共著による『名場面の英語で味わう イギリス小説の傑作 英文読解力をみがく10講』は、英文学を原文で楽しみながら、作品をより深く味わうための本質的な英文読解力をみがくことのできる一冊です。3月14 日に発売となった本書の刊行を記念して、本文の一部を特別公開します(※本記事用に一部を編集しています)。

作家と作品

日系イギリス人作家が書いた、古き良きイギリスの「執事」の物語。
イシグロはこの傑作によってブッカー賞を受賞し、のちのノーベル文学賞受賞に向けて大きく飛躍していくことになります。彼が描く執事の振る舞いは、どことなく日本的な職業倫理や価値観を反映しているように感じられます。

カズオ・イシグロ(1954-)は、その名前からもうかがえるとおり、日系イギリス人作家です。1954年に長崎で生まれ、5歳のとき、父親の仕事の都合で渡英、グラマー・スクールを卒業後、カンタベリーのケント大学で学びました。さらに社会福祉事業に従事したのち、イースト・アングリア大学大学院に入学し、小説家・批評家マルコム・ブラッドベリーの指導のもとで文芸創作(creative writing)を勉強しました。1983年にイギリス国籍を取得、イギリス人作家として現在も文壇の第一線で活躍しています。

処女小説『遠い山なみの光』(A Pale View of Hills 1982)は、過去の幻影に悩まされる女性の物語。主人公はイギリス在住の日本人女性エツコですが、物語の大部分は、戦後間もない頃の長崎での出来事を中心に展開します。二作目の『浮世の画家』(An Artist of the Floating World 1986)もまた戦後の日本が舞台になっています。主人公のオノ・マスジは、いまや老人となって平凡な日々を送りながらも、かつて創作活動において軍国主義に加担した過去の重圧に苦しめられています。そして三作目が、イシグロの代表作と言ってもいいブッカー賞(毎年、イギリス、アイルランド、およびイギリス連邦でその年に出版された長編小説の中の最優秀作に与えられる、世界的に権威ある文学賞の一つ。現在、選考対象作品は、英語で書かれた長編小説に拡大されている)受賞作『日の名残り』です。第四作『充たされざる者』(The Unconsoled 1995)は、中央ヨーロッパの町に招かれたピアニストをめぐる不条理な物語、第五作『わたしたちが孤児だったころ』(When We Were Orphans 2000)は、上海とイギリスを舞台とするミステリーです。続く長編第六作『わたしを離さないで』(Never Let Me Go 2005)は、ある施設で育ったクローンたちを描いた小説で、ふたたびブッカー賞の最終候補に残りましたが、二度目の受賞はなりませんでした。長編第七作は、アーサー王伝説に材を採ったファンタジー小説『忘れられた巨人』(The Buried Giant 2015)で、同書を発表した2年後、文学界における大いなる功績が認められ、ノーベル文学賞を受賞しました。受賞後の最新作『クララとお日さま』(Klara and the Sun 2021)は、人工知能を搭載した人造人間(アンドロイド)の物語です。

イシグロは、映画界にも大きな貢献をしています。『日の名残り』と『わたしを離さないで』は映画化されましたし、2022年には、黒澤明の『生きる』を彼がイギリスを舞台に書き直した『生きるLIVING』が公開され、大きな話題となりました。イシグロは、いまやイギリスを代表する小説家とはいえ、自らの出自と文化的アイデンティティを忘れてはいません。

面白いことに、小説においてはきわめて多様な主題を扱いながら、イシグロは、頑固なまでに同じ語りの手法を使い続けています。一人称を明示した「私」の語りです。大学院で専門的に文芸創作を学んだ作家であれば、さまざまな語りの技法を駆使し、主題の多様性に語りの多様性を掛け合わせて、きわめて彩り豊かな作品世界を作り出すこともできるのではないかと考えてしまいます。ところが、よくよく彼の小説を読んでみると、語り方そのものがイシグロ小説の物語の原動力であることがわかります。それどころか、語り方を活かすために物語の設定があるのではないかとすら思うことがあります。とくに『日の名残り』の場合、執事スティーヴンズの語りと、それによって伝えられるほかの登場人物の反応が食い違うことが、微妙な緊張感を伴って物語の重層性を作り上げる仕掛けとなっています。本作の名場面は物語のクライマックスの場面を描いており、ここに至って、語りと現実の食い違いが解消されます。

全体のあらすじと名場面

『日の名残り』は、ダーリントン・ホールというイギリスの大邸宅で働く老執事の物語です。イギリスの外交に力のあったもとの主人ダーリントン卿亡きあと、屋敷はアメリカ人の所有となり、主人公兼語り手のスティーヴンズは、主人のアメリカ的な振る舞いにやや戸惑いを感じながらも、執事たることに誇りを持って働き続けます。昔と違って使用人の数も少ない状況で屋敷の運営に苦労していた彼は、一通の手紙を受け取ります。差出人は、昔、屋敷で女中頭として働いていたケントン嬢。彼女は結婚後退職し、現在はベン夫人としてイギリス南西部の町で生活をしているのですが、手紙の内容から察するに(少なくともスティーヴンズの語りを信じるかぎり)どうもダーリントン・ホールに帰ってきたがっているようです。折しもスティーヴンズは、アメリカに一時帰国する主人から休暇をもらって屋敷の外に出る機会を得ます。そこで彼は、旅行を兼ねてケントン嬢(=ベン夫人)に会いに行き、彼女の意向を確認した上で屋敷に呼び戻そうと考えます。

物語は、スティーヴンズの自動車旅行の最中に起こるさまざまな出来事と、1920~30年代に屋敷で起こったことに関する彼の回想の二つのレベルから構成されています。スティーヴンズは、品格(dignity)を重んじる執事の仕事について、同じく執事をしていた自分の父親について、ケントン嬢について、そして親独派の外交家として図らずもナチス・ドイツに利用されてしまったダーリントン卿について、独特の執事言葉で淡々と語っていくのですが、読者は、その語りのそこここに散見する矛盾から彼の葛藤を垣間見ることになります。そして、自動車旅行の本当の意図が、かつてひそかに思いを寄せたケントン嬢との再会にあるのではないかと疑うことになるのです。

名場面は、ホテルの喫茶室で再会を果たしたスティーヴンズとベン夫人が、ホテルを出たあと、バスの簡易待合所で交わした会話の様子を描いています。ベン夫人が自分と生活をともにする可能性を考えていたことを知り、スティーヴンズは心を乱されます。

Lesson 10 カズオ・イシグロ 『日の名残り』より
Lesson 10 カズオ・イシグロ 『日の名残り』より
Lesson 10 カズオ・イシグロ 『日の名残り』より
Lesson 10 カズオ・イシグロ 『日の名残り』より
Lesson 10 カズオ・イシグロ 『日の名残り』より

【名文句】

Indeed―why should I not admit it?―at that moment my heart was breaking.
それどころか―認めないわけにはいきますまい―そのとき、私は胸が張り裂けそうになっていたのでございます。

『日の名残り』の特徴の一つは、最初から最後までスティーヴンズが語り手をつとめながら、彼が本当のことを言っていないことが読者に伝わるような仕掛けが物語の随所に張りめぐらされていることです。古くはヘンリー・ジェイムズの『ねじの回転』(The Turn of the Screw 1898)にも、描写の信憑性を疑いたくなる語りが現れますが、その語りをさらに進化させ、いわゆる「信用できない語り手(unreliable narrator)」を登場させたところにイシグロの語りの新しさがあります。

例えば、やはりダーリントン・ホールに勤務する父親が国際会議の最中に卒中で倒れて危篤状態に陥った際、スティーヴンズは、地の文における本人の語りを信用するかぎり、平然と働き続けているようですが、二人の登場人物からAre you all right?「 大丈夫か?」と声をかけられます。そしてその会話描写から、彼がじつは父親の容体を気にして、尋常ではない様子で働いていることが明らかになります。

あるいは、また別の大きな催しが屋敷で開催された際、当日休暇を申請していたケントン嬢は、ベン氏から求婚されたこと、まだ決心は固まっていないもののこれから彼に会いに行く旨をスティーヴンズに伝えます。スティーヴンズは、(またしても本人の語りを信じるかぎり)平然と応対しているように読めますが、彼女の台詞から、どうやら彼が落ち着かない様子で彼女の部屋の外でバタバタと動き回っているらしいことが暗示されます。このように、スティーヴンズの語りと現実(らしきもの)とのズレが、微妙な緊張感として物語全体を貫いています。そしてそのズレが唯一解消されるのが引用文に描かれた場面です。ケントンさんが自分との結婚を考えていたことを知ったスティーヴンズが、自分の心の乱れを認めることになるのです。

● Indeed

In fact同様、この語は、前言をさらに強調して「それどころか」の意味になることがあります。indeedやin factが出てきたら、自動的に「実際、実のところ」というような日本語に置き換えてしまっている方はご注意ください。

● why should I not admit it?

I should not admit it「私はそれを認めるべきではない」という平叙文の理由を問うている形ですが、「なぜ認めるべきではないのか→いや、認めるべきである」という反語的な意味を持っています。疑問詞を用いた典型的な反語をいくつか挙げておきます。

Who knows?「誰が知っていようか→知らないよ」
Why should I be called by the headmaster?
「なんで校長に呼ばれなくちゃいけないんだ?→呼ばれるいわれはない」
Why don’t we ...?「私たちはなぜ…しないのか?→…しましょうよ」

● my heart was breaking

意味的には難しくはないと思いますが、my heartが主語なので、ここでのbreakingは自動詞の現在分詞形です。一方、She/He broke my heartのような形では、brokeは他動詞の過去形となります。関連語彙として、heartbreak「(胸が張り裂けるほどの)悲しみ、悲痛」(名詞)、broken heart「失意、傷心、失恋」(この場合のbrokenは過去分詞の形容詞用法)などがあります。

(斎藤兆史)

著者プロフィール

斎藤兆史 Saito Yoshifumi
東京大学名誉教授。東京大学文学部卒業、同大学院人文科学研究科修士課程修了。インディアナ大学英文科修士課程修了。ノッティンガム大学英文科博士課程修了(Ph.D.)。
著書に『英語達人列伝』(中央公論新社)、『英文法の論理』(NHK出版)、訳書にラドヤード・キプリング『少年キム』(筑摩書房)、共訳にチャールズ・ディケンズ『オリバー・ツイスト』(偕成社)などがある。

髙橋和子 Takahashi Kazuko
東京女子大学文理学部卒業。東京大学大学院総合文化研究科修士課程、同博士課程修了。博士(学術)。
著書に『日本の英語教育における文学教材の可能性』(ひつじ書房)などがある。

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