【倉敷市】夫婦活弁士「むっちゃん・かっちゃん」~ 臨場感あふれる無声映画を、後世につないでいきたい
無声映画を観たことはありますか。
無声映画は、音声や音楽が含まれていない映画を指します。
有名どころでいうとチャップリンの『独裁者』などが、無声映画のひとつです。
私も小学生の頃に『独裁者』を学校の授業で鑑賞しました。最初は音声も音楽もない映像に戸惑いましたが、チャップリンの豊かな表情や動きに引き込まれていったことを覚えています。
しかし、音声がないため鑑賞する人によって映画の解釈が大きく変化します。
時代背景や舞台となる土地の特徴などを知らずに鑑賞すると、解釈にも制限が出てきますよね。
無声映画の上映中に、傍らでその映画を解説する専任者を「活弁士」(かつべんし)と言います。
倉敷市内で唯一「活弁士」として活動している矢吹勝利(やぶき かつとし)さんと矢吹むつみさん夫妻に、活弁の魅力を取材しました。
「活弁士」とは
現在映画館で上映される映画のほとんどは、BGMやセリフがスピーカーから流れてきます。
しかし、今から100年ほど前は映画に音声を付ける技術がなかったため「活動写真」と呼ばれる無声の映画が主流でした。
そのような時代に、「活動写真」が上映される傍らで画面の人物のセリフを喋ったり話の筋を説明したりする役割の人が「活弁士」です。「活弁」は略称で、正しくは「活動写真弁士」と言います。
技術者から声優業まで手広く一人で
活弁士の仕事は、話をするだけではありません。
ときは、大正時代。写真でさえ珍しいなかで写真が映像として動く「活動写真」は、さらに貴重なものでした。
そのため、当初は映写機の構造などといった技術面の説明もしていました。
活動写真が普及しはじめると、徐々に映画そのものや俳優だけでなく活弁士への注目も高まります。
活弁士によって、活動写真への解釈や表現方法は異なります。
すると劇場では「この活弁士が上映する活動写真を観たい!」と、いわゆる活弁士の追っかけのような存在も生まれました。
現在のアニメも、アニメ作品やキャラクターのファンだけでなく、そのキャラクターを演じる声優のファンが一定数いますよね。きっとそのような存在だったのでしょう。
そして、活弁士は一人での活動がほとんど。
つまり、何役もの登場人物の音声に加えて、ナレーションまですべてを一人で担っていました。
楽士と手を組み、音楽を付けた活動写真も実現
無声映画には音声だけでなく「音楽」もありません。
そこで、「音楽」を担当したのが「楽士」(がくし)です。
大正~昭和初期は、活弁士が活動写真のフィルムを持ち歩いて劇場をまわっていたので、ヴァイオリンやラッパのような持ち運べる楽器が主流でした。
明治維新以前から日本にある楽器は、太鼓や琴など、持ち運べるといっても大きなものが多かったので、西洋楽器が使われていたのもまた、当時の日本人にとって物珍しかったことでしょう。
活動写真自体も西洋から入ってきた文化なので、相性が良かったのかもしれません。
映画ごとに楽士が作曲から手掛けた音楽と、活弁士の喋り、そして無声の活動写真が重なってひとつの作品として上映されていました。
トーキ映画の登場とともに無くなってしまった文化をもう一度
一世を風靡(ふうび)した活弁士ですが、音声のある「トーキ映画」の登場とともにその文化は衰退していきます。
昭和初期には8,000人ほどいたという活弁士も、2025年現在はプロとして活動するのは全国で十数人ほど。
しかし、生の音楽とライブ感あふれる活弁への根強いファンも多くいます。
夫婦活弁士「むっちゃん・かっちゃん」の活動
夫婦(みょうと)活弁士「むっちゃん・かっちゃん」は、児島在住の矢吹勝利さんと矢吹むつみさん夫妻が組む、活弁コンビです。
倉敷市で唯一の活弁士は、全国でも珍しい夫婦での活動
活弁には珍しく、夫婦での活動。
力強い男性の刀剣シーンも、繊細な女性のシーンも演じられるのは、夫婦ならでは。
初めて活弁での無声映画を鑑賞したときの感動が忘れられない二人は、自分たちの暮らす児島の人たちにその感動を伝えたいという思いで18年も活弁士としての活動を続けています。
2007年に開催された岡山映画祭で、尾上松之助主演の『豪傑地雷也』(ごうけつじらいやものがたり)でデビューした二人は、その後も精力的に活動。
活動写真のフィルムは現存するものが限られているため、同じ作品に会場ごとにアレンジを加えつつ新作にも挑戦しています。
地域の文化を地域のために残す活動
活動写真のフィルムは保存が難しく、現存するフィルムには限りがあります。
そのため、二人の作品は数を多くこなすよりも、同じ作品を会場に合わせてアレンジしながら演じ続けていくこと。
そのような活動を続けていくなかで、浅口市にある金光図書館から現存する無声映画に音声と音楽を付けて上映してほしいと依頼が入るなど、地域の人たちが地域の文化を残すための活動として必要とされるようになってきました。
そのほかにも、倉敷市をはじめとした岡山県内での講演活動や活弁映画の上映会、小学校での活弁ワークショップなど、地域の人たちに生の活弁を披露して伝えていく役割も担っています。
2025年5月にも、活弁映画の上映があります
直近の活動予定は、2025年5月19日(水)。
むかし下津井回船問屋を会場に、午後6時から第3回下津井映画倶楽部上映会が開催されます。
当日は、『瞼の母』(片岡千恵蔵主演)を上映します。
詳しい内容は、以下の画像を確認してください。
矢吹夫妻に、活弁をはじめたきっかけや活弁の魅力について話を聞きました。
夫婦活弁士「むっちゃん・かっちゃん」インタビュー
夫婦活弁士「むっちゃん・かっちゃん」として活動する矢吹勝利(やぶき かつとし)さんと矢吹むつみさんに、話を聞きました。
活弁を観た感動を、児島のみんなにみせんといけん!みてほしい!
──お二人と活弁の出会いを教えてください。
勝利(敬称略)──
私たちは、2004年に世界一周のクルーズ船に乗船しました。
船には「水先案内人」と呼ばれる芸能や環境問題・政治などに携わる講師が代わる代わる乗船してきます。そのなかの一人に佐々木亜希子(ささき あきこ)さんという活弁士がいて、船内で活弁映画の上映会をしてくれたんです。
それが、私たちと活弁映画の出会いです。
むつみ(敬称略)──
活弁士って、齢を重ねた「おひげのおじいさん」のような人がやっているイメージがありませんか?
でも、佐々木さんは30歳くらいの若い女性だったんです。まず、そのことにびっくりしました。
上映が始まった直後は「彼女が喋っている」と思いながら聞いていたんです。
でも、あっという間に映画に没入してしまいました。
「彼女が喋っている」なんてことは忘れてしまって、普通のもとから音声のある映画を鑑賞しているような感覚です。
だから、上映が終わって改めてスクリーンの傍らに座る佐々木さんを見て「今のは全部、彼女が一人で喋っていたんだ!」と実感したときに、感動がこみ上げてきました。
そして、「帰国したらこの感動を児島のみんなにみせんといけん!みてほしい!」と思ったんです。
勝利──
帰国してから、2005年に児島で「活弁シネマライブ」というイベントを開催しました。このときは、私たちが活弁をしたのではなく、佐々木さんを児島に招待して活弁を披露してもらいました。
──そこから、お二人が活弁士として活動するようになった“いきさつ”も、知りたいです
むつみ──
イベントの開催を続けていると、岡山映画祭のかたから「自分たちの手で、活弁映画を上映してみませんか?」とお誘いをいただいたんです。船内で佐々木さんが主催するワークショップに参加しましたが、自分たちが人前で活弁をするとは考えてもいなかったのでびっくりしましたね。
でも、佐々木さんにも背中を押してもらって、私たちも活弁をすることにしたんです。
主催者から依頼を受けた映画は『豪傑地雷也』。
岡山出身の俳優さんが主演する映画です。活動写真の初期に岡山出身の俳優が活躍していたことを、岡山県の人に知ってほしいとの願いで依頼されました。
ただ、男性のチャンバラシーンが多くあるので、私一人だと男の人の力強い声を出し続けることができません。
そこで佐々木さんに「かっちゃん(勝利さんのこと)と二人で活弁をしても良いかしら?」と尋ねたところ「それは面白そう!」と賛成してもらって、自然と二人での夫婦活弁士「むっちゃんかっちゃん」がはじまりました。
地域に眠る無声映画を、活弁で蘇らせる
──特に印象的だった作品はありますか
勝利──
どの作品も自分たちでイチからセリフを考えるので思い入れがありますが、『性は善』という作品は特に印象に残っています。
この作品は、2018年に浅口市にある金光図書館で発見された無声映画です。1924年に元帝国キネマ撮影所長であり、金光教の信奉者である川口吉太郎氏によって制作された作品で1・2・5巻のみ発見されました。
当時は、布教活動のひとつにオリジナルの無声映画が使われていたんですね。
そこで、金光図書館の人たちが発見された三つのフィルムをみんなに見せたいと思って活弁士を探していたところ、私たちにたどり着いたようです。
むつみ──
金光図書館のほうでも昔の資料などを頼りに脚本の骨組みは作っていたのですが、画面と合わせて喋りやすいようにアレンジしながら、私たちで新しい脚本を作りました。
ちょうど新型コロナウイルス感染拡大防止期間だったので、金光を会場に何度もミニライブをしたことを覚えています。
また、私たちがいなくても上映できるように活弁の音声と無声映画を同時に録画した作品を作ったりそれを岡山映画祭に出品したりもしましたよ。
その後、京都大学人文科学研究所からもお声がけいただいて、2023年には京都大学百周年時計台記念館にある百周年記念ホールでも、活弁を披露させていただきました。
勝利──
地域の人たちに届けたいと思って始めた活動が、同じ備中の人たちに届いたという印象的なエピソードでしたね。
臨場感ある活弁を、後世につないでいきたい
──大人だけでなく、子どもを対象としたワークショップも開催されていると聞きました
むつみ──
児島にある小学校でも、活弁のワークショップをしました。
三年生の児童を対象にワークショップをして帰るときに、子どもたちから「さっきの活弁、映画のなかから声が出てきているように聞こえました」と言われたんです。
これは活弁士として一番うれしい言葉で、私自身はじめて佐々木さんの活弁映画を観たときに感じたことと同じ感想でした。
子どもは感じたことを本当にストレートに伝えてくれるので、私が伝えたいと思った感動が児島の子どもたちに伝わったと実感できたのは、本当にうれしかったです。
今の子どもたちって、色鮮やかなアニメーション映画を観て育っていますよね。でも、私たちが活弁映画に使うフィルムは白黒で、擦り切れてチラチラするものなんですよ。
それにもかかわらず、子どもたちの心を動かす。活弁は残す価値のあるものなのだと確信させてもらった一言でした。
──お二人が思う、活弁の魅力を教えてください
むつみ──
なによりも、舞台の臨場感が魅力です。
活弁は、活動写真が舞台にあって、楽士が音楽を奏で、活弁士がセリフや映画説明をしますよね。
そうすると、舞台俳優がその場にいないにもかかわらず、あたかもその場で演じているような臨場感が感じられるんです。
これは、生演奏と生の声が作り上げるもので、活弁映画特有の魅力だと思います。
勝利──
生のライブだから、お客さんも参加できます。
いいシーンが出てくれば、拍手喝采(はくしゅかっさい)。いい語りをすれば、拍手喝采。いい音楽があれば、みんなで手をたたく……。
活動写真・活弁士・楽士・お客さんが、三位一体(さんみいったい)ならぬ四位一体になれるのが、活弁映画の魅力です。
お客さんの気持ちが高まれば、活弁士の語りや音楽にも伝わってきます。
つまり、聴衆が変わるたびに活弁映画自体も少しずつ変化がある。それが、醍醐味(だいごみ)ではないでしょうか。
──今後の展望を教えてください
勝利──
実は、活動映画にセリフを付けたのは、日本・韓国・タイのみなんです。
というのも、日本には古くから「語りの文化」がありました。たとえば、浄瑠璃や浪曲、落語などが代表例です。
つまり、物語のあるものに語りを入れて楽しむ文化が元々あったため、活弁映画が根付きやすかったのだと思います。
こうして続いてきた語りの文化のひとつである活弁を、これからも残していきたいという気持ちでやっています。
僕自身、映画が大好きなのでね。
みんなに喜んでもらえて、笑ってもらえることがうれしいなと思っています。
むつみ──
活弁映画って、もう地方ではほとんど上映されていないんです。関西より西で活動しているのは、私たちを含めて数名しかいません。
地方にいると文化に触れられる機会がぐっと減ってしまいます。それでも、金光図書館のフィルムや私たちが最初に上映した作品のように、岡山の人にこそ知ってほしい作品もあります。そのような作品を私たちの暮らす、児島でつなぎ続けていきたいですね。
──読者へメッセージをお願いします
勝利──
やはり私たちも年を重ねてきたので、暗いところで脚本の文字を追ったり、最後まできちっと通る声を出し続けたりするのがやっとです。
2025年5月に第3回下津井映画倶楽部上映会で上映する映画『瞼の母』(片岡千恵蔵主演)のような長編映画には、今後そう挑戦できないかもしれません。
この記事を読んで、活弁の存在や私たちのことを知って若い世代の人たちに知って興味をもってもらえたら、ぜひ観に来ていただければと思います。
むつみ──
これからは、自分たちが宣伝をしていく立場ではなく、次世代に活弁を残していく活動に重きを置いていきたいと考えています。
若い世代で魅力を感じて、やってみたという人がいれば、出し惜しみなくつないでいきますよ。
おわりに
取材の打ち合わせをしていると、矢吹夫妻から「活弁映画は観たことある?」と聞かれました。実はまだ観たことがないことを伝えると、2025年5月19日(月)に第3回下津井映画俱楽部上映会で上映予定の『瞼の母』(片岡千恵蔵主演)の練習風景を見学させてもらえることに。
ところどころ字幕がありますが、それ以外のパートは矢吹夫妻が考えた脚本。しかし、どれも最初からこの脚本通りに映画が撮影されたのではないかと思うほど自然な流れで、思わず見入ってしまいました。
倉敷をはじめとした高梁川流域にも、まだまだ無声映画が眠っているかもしれません。活弁という形で映画に息を吹き込んだり、活弁の文化を残していったりする活動が、この地で続いていくよう願わずにいられません。