沢たまき「ベッドで煙草を吸わないで」を聴きながら、悩ましい妄想にかられ悶々と夜を過ごした青春
本シリーズのテーマは、あくまで昭和歌謡に触れ、口ずさんだり、合唱したり、悲しければ涙を流し、歓喜の雄叫びを上げた記憶をもとに、長い間心に刻まれてきた数々の昭和生まれの楽曲を紹介することである。「わが」とあるように、編集部は独り善がりを許してくれて、自分だけの歌謡曲のシーンを俎上にのぼせて独り悦に入る欄なのである。で、昭和歌謡に触れた時代といえば多情にして多感な青春&思春期、ふつふつと漲る肉体をもてあましていた頃である。今回のわが昭和歌謡は若き欲情を煽って余りある、沢たまきの「ベッドで煙草を吸わないで」にいかに青春の欲情をそそられたか。恥ずかしながら、わがヰタ・セクスアリスに触れる危険にさらして筆を進めることをお許し願いたい。
などと言い訳はさておいて、1966年(昭和41)4月15日、沢たまきがテイチクからビクターへ移籍して第1弾の7インチシングル盤「教えて頂だい」(作詞:田中知己)がリリースされた。そのB面が「ベッドで煙草を吸わないで」(作詞:岩谷時子)で、いずれも作曲、編曲はいずみたく。記録を見ると当初B面曲にヒットの兆しありと、急遽A面B面差し替えて、ジャケットも新たに再リリースして大ヒットしたとは知らなかった。
ボクがレコードを手に入れるより早く、ラジオから流れる沢たまきのハスキーボイスの囁くような歌唱に衝撃を受けたのは、16歳だった。当時、渋谷道玄坂の百軒店にあった輸入盤のLPでモダンジャズを聴かせる喫茶店「スイング」や「オスカー」や「DIG」に足繁く通う高校生だったボクは、確かヘレン・メリルが歌唱するジャズ・ヴォーカルのスタンダード曲〈You’d be so nice to come home to〉に重なったのだった。ヘレン・メリルは、店に行けばよく聴くことができたが、沢たまきがジャズ・ボーカリストとしてデビューしていたことなど知らず、ラジオから流れてきた歌唱はどこか似ているなぁ程度だった。ジャズ・バラードっぽい歌謡曲という印象だったが、とにかく問題は、岩谷時子の詞だった。
〈ベッド〉が、明らかに夜な夜なの男女の閨房(けいぼう)を描いていることくらいは理解していたが、〈甘いシャネルのためいき〉が今夜も貴方を待っている、と誘(いざな)うように囁くのだ。これって、やっぱり10代のボクには刺激的すぎて、深夜のラジオからかすれた大人の女の声で迫られると、ボクは身を固くしながら妄想するのだった…。ベッドに入る前に彼女は束ねていた長い髪をほどく、その首すじを煙草の煙が撫でている、女はそれをくすぐったいと悶えている、思春期には何とも過激なシーンではありませんか。
同級生とはしゃぐ格好のネタとなった。本欄で何度も白状してきた通り、自慢じゃないがボクは同級生の誰よりもマセていた。
「沢たまきの『ベッドで煙草を吸わないで』って、きわどいな」
「そうかな?」
「だってお前、ベッドだぞ、煙草を消して早くって、女が誘っているんだ!」
そんな会話をしたかどうか。ボクはひとり悶々として沢たまきという〝年上の女〟に欲情を感じてしまったのだった。年上にも程があるが、沢たまきは1937年(昭和12)1月2日生まれで、ちょうど〝ひと回り〟上の丑年だということはずっと後から知った。とんでもない歳の差のオネエ様だったのである。山脇学園短期大学に在学中、ラジオ番組の「大学勝ち抜き歌合戦」で優勝し、在学のままテイチクから1956年にジャズ歌手としてデビュー。調べてみたら、何と!日本のジャズ歌謡の草分け、ディックミネとデュエットしたと思われる「バス停留所」でデビューしている。同じテイチクの石原裕次郎とのカップリングSP盤もある。しかし残念ながらテイチク時代の沢たまきの持ち歌のヒットはほとんどない。ただ、スタンダード・ジャズを英語のままカバーする女性歌手が日本ではまだ少ない時代に、沢たまきの存在は徐々に脚光を浴びるようになっていったし、ドラマや映画にも出演していた。
なかにし礼著『世界は俺が回してる』という小説がある。昭和のテレビ草創期にわが物顔で闊歩したTBS(当時はラジオ東京)の音楽プロデューサー、渡辺正文の実録的小説だ。「電通」の伝説的社長・吉田秀雄の甥っ子にして、幼少からわがままし放題で女好きのワンマンプロデューサーが躍動している。当時の芸能人からミュージシャン、テレビの音楽番組までほとんどが実名で登場しているから痛快この上ない。沢たまきも度々登場する。
傍若無人、唯我独尊の渡辺だったが、好きな音楽の仕事に関しては同僚たちの追随をゆるさなかった。ハリー・べラフォンテ来日初公演のテレビ中継を成功させ、上司のプロデューサー鈴木道明は渡辺に信頼を寄せた。ナット・キング・コール、ジュリエット・グレコ、フランク・シナトラ、イブ・モンタン等など外人スターのリサイタルを演出して中継に成功し日本中を沸かせた渡辺は怖いもの知らず。しかしスタジオでの番組制作経験のない渡辺が初めて取り組むことになるのは、NHKは「夢であいましょう」、日テレ「シャボン玉ホリデー」など音楽バラエティー番組が人気だったからでもあった。渡辺は同じようなコントやお笑いのセンスはなく、本格的な玄人好みのジャズ番組を作ってみろ、と鈴木道明に勧められる。バンドは人気上昇中の三保敬太郎オール・スターズ、売れっ子ジャズ歌手の武井義明、旗照夫、そして沢たまきという布陣だった。ところが第一回目の収録前、渡辺は沢がリハーサルで歌う「I’ve Got You Under My Skin」を聴いて怒り心頭だ。「音程も英語も無茶苦茶だ!お前は素人か!」と渡辺。日本の女性ジャズ歌手として頭角を現している沢も黙っちゃいない。スタジオ全体が緊張した。何度か歌い直してもダメ出しが続く。「どこが悪いの? 私だって5年も歌っているプロよ、簡単に歌い方は変えられない」と沢は開き直る。すると渡辺は千円札30枚ほどを投げつけて、「ギャラだ、持って帰れ」と叫ぶのだ。さすがに沢はしくしくと泣き出す。帰るのか帰らないのかどっちだ、と渡辺は怒鳴る。沢は気を取り直してもう一度と懇願し歌い始めると、今度は最高の歌い方で締める。
これが縁で男勝りの沢といえども渡辺の仕事に対する熱意に打たれ、おそらくその後に手の早い渡辺と、男女の関係になっていたのだろう。沢はTBS内の男子トイレに渡辺を連れ込み、女癖の悪さを罵りながら拳で渡辺の顎を直撃、アッパーカットを食らわせて足蹴にした事件が起きている。TBS内はともかく業界でも話題になったという。沢たまきのその後の男っぽいイメージは、この事件で定着したのかも知れない。小説だから誇張はあるかもしれないが、沢たまきとのトラブルは事実として伝えられている。渡辺正文の女性遍歴と醜聞はこれで終わらない。本題は沢たまきである。
1964年に『平凡パンチ』が創刊されているが、「ベッドで煙草を~」がヒットする中、1966年秋『週刊プレイボーイ』が創刊され、男性週刊誌のヌードグラビアが目立つ時代になっていった。成人向け映画が代表する性的露出を売りにするメディアの隆盛と重なって、ハスキーボイスの和製ジャズ・ヴォーカルは、「ため息ボイス」などと呼ばれ、ボクたち血気盛んな若者の股間(?)に忍び寄った。松尾和子、青江三奈らもため息を吐くように歌唱したのも忘れられない。同時に沢たまきといえば〝夜のムード歌謡〟〝真夜中の女王〟という冠が付されるようになっていよいよお色気が売りのタレント化していった。マセた高校生のボクは1969年スタートした東京12チャンネル(テレビ東京)の「プレイガール」のリーダー「オネエ」こと沢たまきを追っかけたし、後の「プレイガールQ」も欠かさなかった。男勝りで姐御肌のキャラクターとアクションのなかに独得な妖艶さと色気を感じさせる目線がいつまでもボクを妄想に誘ってくるのだった。お色気といえば深夜の情報バラエティー番組「独占!おとなの時間」のMCも沢たまきだった。
多くのドラマや映画で存在感を見せながら、芸能界から政界に向かったのは、1990年代の半ば。1998年の参議院議員選挙で初当選。2003年8月9日、入浴中に虚血性心不全で死去、享年66は、早逝だったといえる。過ぎ去った青春の一時期、ときめきを誘った年上の女のベッドの中のかすれたため息のようなハスキーボイスは、今でも耳元に残っている。
文:村澤 次郎 イラスト:山﨑 杉夫