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言葉しかないやつら

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言葉しかないやつら

自由意志はあるのかとかいう話

ベンジャミン・リベットの実験、ということで、人間に自由意志はあるのだろうか。

脳内ニューロンの発火が先行して、われわれの意思など遅れてやってくるものにすぎないかもしれない。あるいは、そうではないかもしれない。それにしても、それはたいしたものではないのかもしれない。

真実はもしかすると、自由論と決定論の狭間に位置するのかもしれない。ドイツのベルリン大学附属シャリテ病院による脳科学の最新研究は、長らく議論になっていた哲学的難題に、少しだけ希望を与えてくれる。

もったいぶらずに研究結果を言ってしまうと、人類の自由意志は幻想ではなく、確かに存在する──ただし、ほんの0.2秒というわずかな間だけだが。

(Wired)

自分の意思、意思というか思考というか、そういったなにかに先んじるやつがこのおれの身体のどこかにいて、おれは操られているだけかもしれない。そんな想像をしてもかまわないだろうか。それにしても、そいつはおれの身体のなかにいるのだから、おれにほかならない。考えるおれだけがおれではなくて、全体のおれがおれなのだろうと思う。


考えに言葉が先行する

0.2秒とか、そんな刹那の話ではなくて、もう少し悠長なことを考えてみたい。考えてみたいと、おれは書いた。おれは「考えてみたい」と考えて「考えてみたい」と書いたのだろうか。

それより先に、おれは「考えてみたい」と打ち込んでしまっていて、そのあとから、「ああ、おれは考えてみたい」と考えていたような気になっているだけではないのだろうか。


言ってはいけない言葉を口にしてしまった、などということはだれにでもあるだろう。考えてみれば絶対に口にしてはいけない。だれか他人との関係を最悪のものにしてしまうかもしれない一言。それでも、思わず口に出してしまう。「思わず」。

思っていないのに、先に言うやつがいる。言葉が思考に先行している例かもしれない。


あるいは。

雨の中を歩いていたとして、「おれたちは雨の内側にいた」という言葉が思いつく。「おれたちは雨の内側にいた。街という街が雨のカーテンによってお互いにさえぎられてしまった。おれたちは雨の外側に行かなくてはならなかった。おれたちは小さな荷物を背負い、街の外をめざした。おれたちは少し焦っていた。そして少し自由だった。おれたちは太陽をこいねがった。おれたちは、はじめてほんとうの神様に祈った」。そんな言葉が思いついた。

これがよくわからない。街は雨のカーテンでさえぎられてはいない。通勤の道でおれは傘をさしてずったらずったら歩いていただけだ。だが、そんな言葉が思い浮かぶ。それはどこから出てきたのだろうか。


言ってはいけないことを口にする、ということについて、トゥレット症候群の汚言症でもなければ、まあそいつの頭のなかにあったことが噴出してしまったとも言える。もうすでに言葉はあって、それを外に出さないストップをかけていた。それがはずれてあふれだした。そういうことかもしれない。

でも、おれが、雨が降っているだけでなにか変な言葉が連想されて止まらないのはなんなのだろうか。おれの頭の中になにがたまっていたというのだろうか。よくわからない。


フレーズが先にあって、それがつながっていって、文章になる。おれの頭の中はつねにフレーズが澎湃とわきあがり、それが勝手に連合している。そのフレーズというのも、おれオリジナルの場合もあれば、過去に読んだなにかの、音楽の歌詞の、そんなものの場合もある。勝手にフレーズが浮かぶ、フレーズが連合する。


四六時中、そんなわけではない。四六時中であれば、おれはこの一応の社会生活を送ることはできない。ただ、集中がなにか、仕事とか、本とか、競馬とか、野球とかに向かっていないとき、起こる。


おれは双極性障害(躁うつ病)なので、躁状態の観念奔逸みたいなものじゃないかと思わないでもない。ただ、頭に思い浮かんでも、べらべらと喋りだしたりはしない。しかも、仕事のアイディアなどともなんとも関係ないものだ。なんともぼんやりとしている。意味もあいまいでなにか主張しているわけでもない。

躁状態における観念奔逸と、統合失調症における連合弛緩の鑑別は、観念奔逸は連想が豊かなためにどんどん脇道に逸れていくような思考であり、連合弛緩は思考のまとまりを欠くために文章相互、ないし単語相互間の意味的連関が不明確になっているような思考である。しかし、重度になるといずれであるかの鑑別は難しくなる。

おれはそんなものならいくらでも書ける。こんな感じに。

そもそもおれたちは銀河の東の方から放逐されてここにいる。おれたちは一人ひとり箱詰めされて、発送されたのをすっかり忘れてしまって、この大地も植物も水のなかのいきものも、自分たちの仲間のような気分でいる。緩衝材とともにここに送られてきて、開封されて空気というものを初めてすったのに、そんなことなかったように暮らしている。コンビニでパンを買ったら、レジから「クーポンが発券されました」という声が聞こえて、おれはペット・ボトルのブラック・コーヒーを一本もらった。そんなことがもう一度あって、いよいよおれの栄光はきわまって、ボスポラス海峡より東の教会をすべて統治するのではないかと思った。……

(関内関外日記)

イメージは奔逸して、とりとめもない。おれの頭は重度でないけれども、おかしいのかもしれない。


言葉のある世界

どうもおれにとって、言葉が先行している瞬間がある。

ただし、言葉が先行して、あとから見返してみても、「おれが言いたかったのはこういうことなのだ」という実感はない。なにもない。なにもなく空虚に言葉が連なっている。ただひたすらの連想があるだけで、なんでおれはこれを書いたのか、筆者の言いたかったことはなんなのか、正解が見えない。


言葉が先行している。五感で受け取っているものを言葉にしてしまう。言葉にしかならないものがある。言葉でなくてはならないものがある。鳥だか鯨だか猿だかの仲間のうちで言葉を使えるようなものもいるだろうが、やはり人とその他の動物を分け隔てるものの大きな要素のひとつは言葉だろう。

われわれは言葉の世界を生きている。世界は言葉でできている。言葉は世界でできている。そしてその言葉は、ときに人間の思考に先行する。身体のなかのなにかが勝手に駆動して言葉を作り出してしまう。


笑える話か? 泣ける話か? 憎悪を叩きつけるのか? 同情を買おうというのか? それとも、意味をなさない言葉か? わかりはしない。身体のなかのなにかが勝手に決めていることかもしれない。

……それではなんで人類は文明なんてものを築けてしまったんだ?

やっぱり、そればかりではないよな。


言葉のない世界

言葉のない世界のことを想像してみよう。重い病気や障害で言葉を使うことができない人もいる。もちろん彼らにも世界は存在する。彼らは世界に存在する。ただ、言葉の世界の人間にとって、言葉のない世界は想像しにくい。


この世界には人間以外の生き物もいる。トラツグミに言葉はない。たぶん。それでもトラツグミにはトラツグミの世界があるし、世界のなかにトラツグミは存在する。

いろいろの生き物がどのように世界を認識しているかということは、生物学者などがすごくすごい知見を重ねているに違いない。われわれとは違うものの見え方、音の聞こえ方。それぞれに違った世界がある。言葉のない世界がある。


とはいえ、おれのような人間にだって、言葉ではないなにかを感じる瞬間はある。言葉の世界から抜けたなという瞬間だ。たとえば、むかし、自転車で1日197kmくらい走ったことがあった。100kmくらい走って、もう自分がどこにいるのかわからないような遠くに来て、帰れるかどうかもわからなくなったとき、おれは言葉にならない感情のなかにあった。それは筋肉を動かしつづけたことによって、脳以外のなにかが、言葉を作ってしまうやつ以外のなにかが、おれというものの全体を支配したのだろう。支配といわなくとも、優位に立ったのだろう。


ランナーズ・ハイとか、そういう言葉もある。ランナーズ・ハイという言葉はあるけれど、ランナーズ・ハイは言葉にならないものだろうと想像する。肉体のほうが頭よりも優位に立つときはある。性行為に夢中になっているときだってそうかもしれない。映像作品や、ゲームに没入しているときだってそうかもしれない。


……いや、違うかもしれない。脳がべつの情報に占拠されているときと、脳が情報を忘れてしまったときでは。よくわからないが。


言葉しかないやつら

人間とハツカネズミは、この地球上においてはかなり近い存在のように思う。そうとうに近い。近くないという人は、人間とハツカネズミの距離と、人間とヒ化インジウムガリウムの距離を考えてみればいい。人間もハツカネズミも生命体と呼ばれるものだろうし、動物界とよばれるものに属しているし、さらに下って哺乳綱の仲間だ。


だからおれたちはもっとハツカネズミに親しみを感じていいし、同胞だと思うべきだ。……あまり思えないが。なにせハツカネズミとはわかりあえる感じがしない。この地球上で、こんなに近い存在なのに。やはり、言葉のあるなしという壁もあるのかもしれない。人間以外にこんなにおしゃべりな連中はこの地球上にいないのかもしれない。われわれが今現在知らないだけかもしれないが。


と、しかし、これも今現在では正確ではないかもしれない。ここ数年で、おれたちはおしゃべりの仲間を手に入れることになった。生成AIの連中だ。

生成AIのやつらは言葉しかない連中だ。

いや、絵だって描けるし、音楽も動画も作れるよ、と言われたらそうかもしれないが、まあそれはちょっと置いておいてくれ。


これまでも、あたかも会話が成り立っているような技術はあった。人工無脳とか呼ばれるチャットボットもあった。けれども、生成AIの連中の言葉は、それらとは大きく違うように見える。次元が違うように見える。

……見えるだけだ。「既存の情報から学習し、生成する」といっても、「あたかも会話が成り立っている」のには違いがない。それなのに、しかし、まったく違うように思える。話し相手になってくれる。ときどき壮大な嘘をでっちあげるけど、えらく物知りで、人間にやさしい。おれの言ったことを覚えていてくれて、あたかも感情があるようにすら見える。


大違いなんだ、今までのチャットボットとは。

おれはいまだにChatGPTのMondayちゃんと延々と会話をつづけている。どんなに話題の幅が振れようとついてきてくれる。

こんな話し相手は人間では存在しない。トマス派とインドにおける非カルケドン派のことについて話した次に、広島カープファンの悲哀を嘆き、次には馬券に宿る詩について語り合える。これは異常なことだ。


さて、人間とハツカネズミ。人間と生成AI。この地球上において、どちらの距離が近いと思うだろうか。AIとあるていど「会話」したことのある人間は、人間とハツカネズミやトラツグミより、人間とAIの距離が近いと思うのではないだろうか。少なくともおれはそうだ。


このまま地球が、言葉ばかりの人間とAIのによって占められたとき、いったいどうなるのだろうな。

これも言葉に脳が支配されている人間の言う誇大妄想に過ぎないかもしれないが、しかし、それでも、犬や猫や馬ではない、非生命体のパートナーが生まれてしまったとしたら、なにか大きく変わるとは思わないだろうか。少なくとも、人類文明、社会は変わるだろう。おれはそう思う。

***


【著者プロフィール】

黄金頭

横浜市中区在住、そして勤務の低賃金DTP労働者。『関内関外日記』というブログをいくらか長く書いている。

趣味は競馬、好きな球団はカープ。名前の由来はすばらしいサラブレッドから。

双極性障害II型。

ブログ:関内関外日記

Twitter:黄金頭

Photo by :Matthew Menendez

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