コラム【本州湾岸を反時計に一周】045 ハピラインふくい⑦ 2024年8月28日
※2024年8月28日撮影
トップ画像、ハピラインふくい敦賀行は北陸新幹線の高架をくぐって敦賀駅に近づいています。
直流区間に入っているはずですが、架線は複雑な様相。地上もポイントが複雑に組み合わされています。筆者の好きなシーサス・クロッシングです。
※2024年8月28日撮影
ポイントを見てその複雑さに「うわ~」と感嘆してしまいます。北陸トンネルを出てからは、トンネル内で付いた水滴が乾く間もないほどの距離です。
※2024年8月28日撮影
ハピラインふくい下り福井行電車が来ました。
※2024年8月28日撮影
島式ホーム7番線に入ります。
※2024年8月28日撮影
駅名標。JR西日本とハピラインふくいのロゴが表示されています。3番線に停まるハピラインふくいの編成が見えます。
※2024年8月28日撮影
鯖江駅から乗って来たハピラインふくい521系交直電車。行先表示が既に福井に替わっています。鉄道車両で鮮やかなピンクを大胆に使ったカラーリングはとても珍しいです。いつ見ても「キレイだなぁ」と感じるので筆者は好きです。
※2024年8月28日撮影
敦賀駅から出ました。北陸新幹線が開通して駅舎が劇的に変わりました。大きさに圧倒されます。
※2024年8月28日撮影
祖父の弟が敦賀に住んでいて、姪に当たる母親が可愛がってもらっていたので、子供の頃から何度も敦賀には来ています。筆者が長年親しんだ敦賀駅のイメージはこちらです。2009年(平成21年)12月に来た時の写真。15年前です。
※2009年12月撮影
出入口の脇に蒸気機関車の動輪と碑がならんでいます。動輪は、昭和57年(1982年)3月に敦賀駅開業100周年記念で設置されています。
※2024年8月28日撮影
「交流電化 発祥之地」。
※2024年8月28日撮影
横の碑で由来が説明されています。
※2024年8月28日撮影
長いので要約します。
世界最初の60サイクル交流電化による鉄道動力革命を記念する碑を敦賀機関区に建立する。
1952年フランス国鉄が試験に成功した50サイクル交流電化試験の新しい技術が矢山康夫により日本の国鉄に紹介された。1953年国鉄総裁の提唱で交流電化調査委員会が作られ調査が開始された。1954年実地試験線区として仙山線が選ばれ、1955年8月最初の交流機関車日立製直接形ED441、さらに三菱製整流器形ED451によって交流方式の優位が明らかにされた。1956年3月交流電化調査委員会は商用周波交流電化が日本においても有利と報告。国鉄総裁等は交流電化の採用を決断。
その試金石として北陸線米原敦賀間の幹線での実施が決まった。その結果、1957年(昭和32年)10月新坂新線の開通と同時に交流機関車ED70形による運転が開始され、商用周波数による高電圧の利点と牽引能力を発揮。日本の鉄道動力化の魁(さきがけ)となった。
1958年5月17日 建立
正直言います。筆者には鉄道の技術的な知識がありません。直流電化と交流電化のメリット、デメリットは、ネット上に説明がたくさん有るので初歩的な理解はできます。
要は、直流は扱いやすく、一般的な直流モーターが使用できる半面、変電設備が10~20km間隔で必要となります。
交流電化は、高電圧/小電流で送電ロスが少なく、変電所が30~50km間隔で少なくできます。しかし電線からの電磁波による「通信誘導障害」を防止する手段が必要なことや、車両側の機器コストが高額になる点もデメリットとなります。
さらに直流電化が普及したエリアに交流電化を持ち込むには、交直接続などの高いコストが必要になります。
歴史的に見れば、旧国鉄の電化は、全て直流で進められました。上記の碑に述べられている様に商用周波数の交流電化には様々なメリットがあります。仙山線での試験の後、北陸本線で交流電化の営業運転が開始されました。
最近では、ディーゼル・エンジンの性能向上やハイブリッド気動車、電気式気動車の発達で電化を必要としない路線も増えています。またJR東日本の烏山線の様に、蓄電池電車のバッテリー大容量化・航続距離の長距離化で駅構内のみが電化される路線も登場しています。筆者は実際に烏山駅でパンタグラフを上げて充電するEV-E301系電車を見ています。その時のコラム。
敦賀駅で画期的な自動販売機を見つけました。「漁師の自販機」です。敦賀のふぐ、てっさ(刺身)やてっぴ(皮の刺身)が冷凍で販売されています。
※2024年8月28日撮影
フグは、江戸時代、ふぐという名では表だって販売できなかったので「当たると死ぬ」というブラック・ジョークから「鉄砲」と呼ばれていたのです。鉄砲の刺身は「鉄刺=てっさ」皮なので「鉄皮=てっぴ」というワケ。(笑)
子供の頃、フグが好物だった祖父の家(母の実家)では頻繁に食膳にフグが出されていました。しかし子供だった筆者にフグは「味の無い白身魚の刺身」でしかありませんでした。
「てっさ」は好きにはなりませんでしたが、何故か子供の頃からフグ皮(てっぴ)が大好物になりました。
関西ではスーパーマーケットでふつうに「フグ皮」が売られています。しかし関東では、まず見かけません。タマに「てっさ」とセットで高く売られている程度です。嗚呼、てっぴが食べたい。
「てっぴ」を衝動買いしそうになりました。(笑)
※2024年8月28日撮影
青春18きっぷに日付印をもらって、敦賀発7時49分の小浜線東舞鶴行に乗車。東舞鶴では乗継時間が1分!9時45分発舞鶴線福知山行に飛び乗りました。10時29分に福知山に着いて、乗り継ぎ待ちが40分あるので駅から出て駅前の蒸気機関車を撮影。
※2024年8月28日撮影
11時9分発の山陰本線豊岡行に乗って、12時19分に豊岡着。ここでは96分も次の列車がありません。東口を出て、Aity(アイティー)という駅前ビルでお昼ご飯を食べました。そのビルの前から豊岡駅。
※2024年8月28日撮影
曇天ですが、気温は34℃。2024年の夏は、異様に暑かったのです。
※2024年8月28日撮影
豊岡発13時55分の山陰本線浜坂行に乗りました。
山陰本線屈指と言われる餘部駅(餘部橋梁)からの眺望は有名ですが、筆者はその1つ手前の鎧駅、ホームからの日本海の眺めが好きです。
※2024年8月28日撮影
浜坂駅では5分の乗り継ぎで15時18分の鳥取行に、さらに鳥取で16時20分発の米子行に乗って142分後、18時42分米子駅に着いて、本日の旅は終了。
※2024年8月28日撮影
米子駅は橋上駅舎化されて全く姿を変えてしまいました。
筆者は、米子駅が開業した明治年間から駅弁を販売してきた米吾・吾左衛門弁鮓で駅そばを食べるのが米子駅に来る楽しみでした。とても美味しかったのです。
※2015年8月撮影
明治以来という駅弁もたくさん種類がありました。現在の橋上駅舎に販売店はありません。
※2015年8月撮影
改築前の米子駅舎です。
※2015年8月撮影
鉄道旅で日本全国100ヵ所くらい宿泊していますが、米子駅周辺には、日本海の新鮮な魚を肴に安く地酒を呑ませてくれるお店が多く、筆者の好きな宿泊地ベスト5の1つです。同様に居酒屋のレベルが高いのは、東室蘭、青森、中津(大分県)、松山でしょうか。でも、高岡、長野(蕎麦屋で呑むのが最高)、高知、八戸も外せないなぁ・・・。
8月28日の移動
路線
乗車駅
下車駅
距離(km)
乗車時間(分)
ハピラインふくい線
鯖江
敦賀
40.3
36
小浜線
敦賀
東舞鶴
84.3
115
舞鶴線
東舞鶴
綾部
26.4
31
山陰本線
綾部
米子
246.8
494
小計
397.8
676
前回まで
1981.9
2536
合計
2379.7
3212
三浦半島を出発して6日間で2379.7km。1日400km弱ですから、まずまずのペースです。
明日からは山陰本線で日本海側を進む予定ですが、接近する台風10号の影響で旅は大混乱となります。
(文・写真) 住田至朗
※ハピラインふくいの許可をいただいて撮影しています。
※過去の写真はライター住田がプライベートで旅をした時のスナップ写真です。
※『JR路線大全 北陸・信越本線』(天夢人/2023)『国鉄の基礎知識』(創元社/2011)『停留場変遷大事典』(JTB/1998)『JR全駅・全車両基地』(週間朝日百科/60巻)他を参照しています。