見えない実在を探求、知られざる抽象の先駆者の全貌 ― 「ヒルマ・アフ・クリント展」(レポート)
スウェーデン出身の女性画家、ヒルマ・アフ・クリント(1862–1944)。ワシリー・カンディンスキーやピート・モンドリアンらに先駆けて抽象的な表現を創案しましたが、その存在は長らく限られた人々にしか知られていませんでした。
影響を受けた秘教主義思想や女性運動などとの関連を紹介しながら、ヒルマ・アフ・クリントの画業をたどる展覧会が、東京国立近代美術館で開催中です。
「ヒルマ・アフ・クリント展」会場入口、東京国立近代美術館、2025年
ヒルマ・アフ・クリントは1862年、ストックホルムに生まれました。父親は海軍士官であり、天文学や数学が身近な環境にあったことが、後の制作に影響を与えたと考えられます。
王立芸術アカデミーを優秀な成績で卒業すると、肖像画や風景画を手がける職業画家として活動を始めます。また、児童書や医学書の挿絵を描く仕事にも携わり、1910年に発足したスウェーデン女性芸術家協会では幹事を務めるなど、多方面で活躍しました。
「ヒルマ・アフ・クリント展」展示風景、東京国立近代美術館、2025年 第1章「アカデミーでの教育から、職業画家へ」
アフ・クリントがスピリチュアリズムに関心を持ち始めたのは、17歳の頃とされています。アカデミーでの美術教育と並行して神秘主義思想を学びながら、スピリチュアリズムは彼女の思想や表現を形成しました。また、当時のストックホルムには秘教的思想を信奉する団体がいくつか存在していて、特に神智学の影響を受けました。彼女は瞑想や交霊の集いに参加し、精神世界への探求を深めていきます。
1896年、親しい4人の女性とともに「5人(De Fem)」というグループを結成。交霊術を用いて高次の霊的存在からメッセージを受け取り、それを自動書記や自動描画で記録しました。次第にアフ・クリントは、伝統的な自然描写から離れていきます。
「ヒルマ・アフ・クリント展」展示風景、東京国立近代美術館、2025年 第2章「精神世界の探求」
1904年、「5人」の交霊の集いで、高次の存在から神智学的な教えに基づく絵を描くよう啓示を受けました。これをきっかけに制作されたのが、全193点におよぶ「神殿のための絵画」です。
このシリーズは複数のテーマがあり、円や四角形といった幾何学図形、植物や天体を思わせるモチーフなど、多様な要素で構成。眼に見えない実在の探求を目指したものです。
「ヒルマ・アフ・クリント展」展示風景、東京国立近代美術館、2025年 第3章「神殿のための絵画」 〈エロス・シリーズ、WU /薔薇シリーズ、グループII〉
本展最大の見ものといえる作品が、「神殿のための絵画」のひとつである〈10の最大物〉。人生の4つの段階(幼年期、青年期、成人期、老年期)を描くよう啓示を受けたアフ・クリントが、乾きの早いテンペラ技法を用いて、わずか2か月で完成させた巨大な10枚の絵画です。
その荘厳な表現には、彼女がかつて賞賛したルネサンス期の祭壇画を彷彿とさせます。
「ヒルマ・アフ・クリント展」展示風景、東京国立近代美術館、2025年 第3章「神殿のための絵画」 〈10の最大物〉
「ヒルマ・アフ・クリント展」展示風景、東京国立近代美術館、2025年 第3章「神殿のための絵画」 〈10の最大物〉
アフ・クリントが探求した「眼に見えない実在」は、精神世界だけでなく、同時代の科学的発見とも関係していました。電気やX線、放射線などの研究が進む中、神秘主義思想もまた、不可視の世界への関心を高めていました。
こうした探究は20世紀初頭の芸術に影響を与え、特に抽象的・象徴的な表現の発展を促しました。「神殿のための絵画」は精神性と科学の融合を具現化しているからこそ、今日、アフ・クリントがモダン・アートにおいて重要視されているのです。
「ヒルマ・アフ・クリント展」展示風景、東京国立近代美術館、2025年 第3章「神殿のための絵画」 〈白鳥、SUW シリーズ、グループIX: パートI〉
「神殿のための絵画」の後、アフ・クリントの作品は新たな展開を見せます。〈原子シリーズ〉や〈穀物についての作品〉では、自然科学と精神世界の関係を探求し、より幾何学的で図式的な表現へと移行しました。
母親の死を機に、アフ・クリントは神智学から分離独立した「人智学」に傾倒。人智学の創始者ルドルフ・シュタイナーからの影響を受け、水彩による偶然性を活かした表現へと移行していきました。
「ヒルマ・アフ・クリント展」展示風景、東京国立近代美術館、2025年 第4章「「神殿のための絵画」以降:人智学への旅」
晩年もアフ・クリントは水彩画を中心に制作を続けました。また、過去のノートを編集し、自身の思想や表現を体系化する作業にも力を注ぎます。
「神殿のための絵画」を収めるための建築物も構想。最終的に実現することはありませんでしたが、厳密な体系性を目指していたことも分かります。
《地図:グレートブリテン》1932年 ヒルマ・アフ・クリント財団
1,000点以上の作品と膨大なノートを遺し、1944年、アフ・クリントは81歳で死去しています。
展覧会は全作品が撮影可能。アフ・クリントの色彩豊かな世界を自由に記録し、共有することができます。彼女の独創的な表現が、現代の私たちにどのような示唆を与えてくれるのか、ぜひ会場で体験してください。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2025年3月3日 ]