暗渠マニアックスがゆく! 墨田区の暗渠のDigりかた。見方によって街の異なる姿が見えてくる
墨田区の暗渠(あんきょ)はとてもシャイ。こちらから掘りにいかないとなかなかその姿がつかめない。でもちょっとDigれば、たちまち暗渠の存在とともに新しいすみだの風景が見えてくる!
取材・文=暗渠マニアックス(吉村生・髙山英男)
『暗渠マニアック! 増補版』(ちくま文庫)著者2名のユニット。特定暗渠を深掘りする縦軸(吉村)×多数暗渠を俯瞰する横軸(髙山)の組み合わせで、執筆やイベントなどを通して日本中の「暗渠目線」を開拓中。
そもそも暗渠ってなんだっけ?
暗渠とは、川や水路などもともとあった水の流れを地下に移したもののこと。これをここでは少々広く捉えて、埋められて消えてしまった川跡・水路跡も含めて暗渠と呼ぶことにする。なぜならそこにはまだ、水の魂が残っていると考えたいからだ。
墨田区は暗渠パラダイスなのだ
墨田区、特に北十間川以北は明治・大正時代まで水田が多く、あちこちに用水路やため池が細かく配された水の豊かな街だった。しかし、今に至る近代化・都市化の過程でほとんどが消滅してしまい、昔の水の姿をうかがい知るのは容易ではない。だからこそ、あちこちDigって(掘り下げて)微かな痕跡を見つけ出すのが、「すみだの暗渠」の愉たのしみ方。街からDigる(A面)・人からDigる(B面)、2つの方法でDigりつつ、すみだに残る水の痕跡・水の魂を発掘すれば、そこはもう暗渠パラダイス。
いざ、すみだの暗渠をDigる!
【1】 蓋暗渠
蓋(ふた)をかけただけのシンプルな暗渠。Digる必要さえない、見た目ですぐわかる暗渠は区内ではここくらいではないだろうか。
【2】 更生橋
交差点の名前に「橋」とあるのは、ここが川で、橋がかかっていた場所だから。橋の本体は近所の小学校内に保管されている。
【3】 おかめ湯
昔ながらの風情のおかめ湯。鳥井陶器製造所産のレンガ塀は付近唯一のレンガの名残。
【4】 鶴土手橋跡
かつての橋の場所にその名が記されている。鶴土手橋跡とチョークで書かれたような文字は、すみだの暗渠のはかなさの象徴か。
【5】 境界標
レア度高め。1947年まで墨田区は本所区と向島区に分かれており、境目はこの古川だった。
【6】 段差
水は低きに流れるもの。もともと高低差の少ない墨田区だけにわずかな段差はよく目立つ。
【7】 電気湯
現役の電気湯。約20年前は区内に22軒(現在16軒)の銭湯があったが、うち12軒が川沿い・暗渠沿いに立っていた(髙山調べ)。
【8】 曳舟川通り
ふと見上げると、歩道橋に川の名前が書かれている。Digるまでもない川の痕跡だが、Digる気持ちがないと見過ごしてしまいそう。
【9】 蛇行する道
行く先が見通せないほどの蛇行を繰り返す道。大正期はそっくりこれが田んぼを貫く用水路であり、近くには養魚場の池も広がっていた。
【10】 鳥井陶器製造所跡
明治時代、ここにはモダンなレンガの壁に囲まれた工場があった。曳舟川に浮かぶ舟に沢山の人手で大量のレンガを載せている写真も残る(写真提供=鳥井冨美子)。
【11】 足立瓦店跡
印象的なファサード。旧地名小梅付近ではかつて瓦の生産が盛んだったという。
【12】 宮前橋の親柱
中井堀にあった橋が、隣の公園内に移設されたもの。ここは元の場所の至近だが、全く別な所に移されるケースもあるのでご注意を!
【13】 太歩道
車道に比べ不自然に太い歩道は、ここが川だった証拠。途中には重いクルマが乗り入れないよう「車止め」も置かれ暗渠を守っている。
Digりかた A面
街の「だから・なぜならば」をDigる!
物事には必ず理由がある。目の前に見える街の景色もしかり。そこにあるものにはきっとそれなりのわけがある。A面でご紹介するのは、その「わけ」に着目した街の見方だ。「ここに昔川があった。だからここに何々がある」「街に何々がある。なぜならばそこにかつて水路があったから」という、川や水路の存在との因果関係を見つけられるかどうか。この「だから・なぜならば」関係が成立するならば、そこは暗渠である可能性が高い。
分かりやすい例が橋跡だ。川も水も何もないところにぽつんと残る【12】(【2】【4】)橋跡をこの関係に当てはめてみる。「ここに川があった。だから橋跡がある」「橋跡がある。なぜならここは水路だったから」。すんなり成立だ。
特徴的な道の形状にもこの関係を当てはめることができる。例えば6段差があり、周りからちょっと低くなって続く道。「ここは川だった。だから段差で低くなっている」。なぜかくねくねとカーブが続く9蛇行道も「蛇行している。なぜならばかつて川だったから」と、水との因果関係が見いだせるではないか。
では【3】【7】銭湯はどうか。「ここは水路だった。だからここに銭湯がある」だけではちょっと意味がわからない。しかし、銭湯は毎日大量の排水が出るものだ。家庭に内風呂が普及していなかった高度経済成長期には今以上のたくさんの銭湯が街にあり、下水道設備が発展途上であったため、そのいくつかは排水の便を求めて水路沿いに建てられた。そんな背景までさらに深くDigることができれば、「銭湯がある。なぜならばここに川があったから」という因果関係も納得できるというものだ。銭湯に限らず氷店、豆腐店や染工場なども同様な背景を持っている。
この他、また違った水絡みの背景をもって「だから・なぜならば」でDigれるものとして、物流に【10】【11】舟運を使う産業、物理的に土地を分かつ【5】境界標などが挙げられる。
Digりかた B面
すみだに暮らす人々の記憶からDigる!
このエリアで目立つ暗渠は、通りにも冠されている曳舟川だ。曳舟川跡に向かって立つ「瓦」と書かれた店舗【11】が、ずっと気になっていた。関係者に尋ねてみると「聞いた話だけれど、瓦の材料なんかを曳舟川で運んでいたらしいですよ」。
他にも、たとえば曳舟川交差点にはかつて、白レンガの製造で有名な【10】鳥井陶器製造所があった。今もそこに住む鳥井さんが見せてくださった写真は、レンガが曳舟川で運搬されていた確たる証拠。そして「曳舟」の名が示すように、こんなに重そうなレンガを積んだ舟までも、人の手で曳(ひ)かれていたという!
曳舟駅付近はにぎやかで、曳舟川沿いに柳の木が植えられ、映画館が並んでいた。資生堂の工場などもあり、多くの人が往来する。川があるから集まってきた産業だけれど、排水が流されることで、川は汚れてしまう。荒川放水路に上流が分断された後は流れも止まり、周辺の人がゴミを捨てたり、酔っ払いが落ちたりする川となる。「落ちたらベタベタ」のドブで、遊ぶような場所ではなかったそうだ。
曳舟川はあちこちに分水もしていたが、グネグネとした水路が多い。鶴土手橋の名の元となる鶴土手は中世からの微高地で、次第に削られ高低差は減ったが、低いところには水路があった。グネグネとした暗渠は、新田開発時に微妙な高低差に合わせて緻密に作られた用排水路ではないか、と「雨水市民の会」の佐原さんは言う。そこから時が経ち、住宅地になると、流れの向きも分からないドブとなる。しかし、幅が狭く神出鬼没のグネグネドブは遊び場となった。小学生は日常的に、水路のコンクリート梁(はり)をカニ歩きで渡る遊びを肝試しとしてやっていたそうだ。工場排水が流れ出すドブだから、落ちたら本当に汚くて危ない、ホンモノの肝試しである。
昭和30~40年代にすみだのドブは埋められたが、地域の発展を支えた水路の汚れは、労働者の汗や埃(ほこり)とどこか重なる。ドブという呼称も、勲章のようなものなのかもしれない。
お話を聞かせてくださった、(元)足立瓦店の足立さん、佐原滋元さん、高原純子さん、鳥井冨美子さん、鳥井伸子さん、石原悦子さん、どうもありがとうございました。
取材・文=暗渠マニアックス(吉村生・髙山英男) 撮影=加藤熊三
『散歩の達人』2025年8月号より