【倉敷市】玉島町並み保存地区 〜 北前船との備中綿の取引で瀬戸内有数の商都「西の浪速」として栄えた港町。商人の町として茶の湯文化も根付く
玉島(たましま)は、旧 玉島市の中心市街地です。
1967年(昭和42年)に旧 倉敷市・児島市・玉島市の3市が合併し、現在の倉敷市を新設。以降は倉敷市の玉島地区となりました。
旧玉島市エリアは倉敷市の西部にあたり、玉島市街地はJR新倉敷駅の南西およそ2.3kmの場所に位置します。
玉島市街地は、江戸時代前期に造られた玉島港(玉島湊とも)を中心に栄えた港町が起源です。玉島港町は瀬戸内有数の商都として、「西の浪速(なにわ)」と呼ばれるほど繁栄しました。
現在も玉島市街地には古い建造物が多く残っており、街中を歩くと、かつての港町としての栄華が感じられるのです。
そこで、西の浪速・玉島の町並みの歴史や魅力・文化などを紐解いていきます。
玉島の歴史
玉島の町並みが生まれた歴史について、詳しく見ていきましょう。
備中松山藩主による干拓と港の発展
現在の旧 玉島市エリアの平野部は、ほとんど海でした。
江戸時代初期から少しずつ干拓されていき、現在のような広い平野が生まれたのです。
干拓を進めたのは、1642年(寛永19年)に備中松山藩(現 高梁市周辺)藩主となった水谷勝隆(みずのや かつたか)。
現在、羽黒神社が鎮座する丘・羽黒山は「阿弥陀島(あみだじま)」と呼ばれる小島でした。その南側の乙島や玉島一丁目〜三丁目などは「乙島」、西側の阿賀崎・柏島なども「柏島」という島だったのです。
そして水谷氏は阿弥陀島から乙島と、阿弥陀島から柏島へ向け、干拓のための堤防を築きます。
とくに阿弥陀島〜柏島の堤防は幅50m、長さ400mほどにおよぶ大規模なものでした。
この干拓により、玉島新田や阿賀崎新田が誕生したのです。
玉島新田・阿賀崎新田の南端部や阿弥陀島、乙島、柏島によって入江状の地形が生まれ、港として絶好の場所となりました。
そのため、入江は港として発展。
これが玉島港です。
備中松山は内陸の地だったため、玉島港は備中松山藩の外港として機能しました。
備中松山と玉島港を効率的に連絡するため、高梁川(現在の倉敷市船穂)と玉島港を結ぶ全長およそ9kmの運河「高瀬通し」が造成されます。
高瀬舟による、備中松山〜高梁川〜高瀬通し〜玉島港という水運が生まれました。
港町の形成
高梁川・高瀬通しによる水運により、備中松山藩の外港として発展した玉島港。
港が発展すると、港の周辺に商人などが集まり港町が生まれました。阿弥陀島と乙島(阿賀崎)を東西に結んだ堤防上に、商家町が形成されます。
この商家町は「新町(玉島新町、阿賀崎新町)」と呼ばれ、堤防上の町を東西に貫く道は「新町通り」と呼ばれました。新町周辺には備中松山のほか、総社(総社市)や川辺(倉敷市真備町)など備中国各地から商人が集まったといいます。
玉島港には北前船(きたまえぶね、千石船)が寄港するようになり、北前船との商取引が盛んになりました。
新町の堤防に北前船が横付けし、荷物の上げ下ろしができたため、やがて新町が玉島港町の中心をなすようになります。
北前船の寄港地・商都としての繁栄
玉島の港町がもっとも栄えたのは、元禄時代(1680〜1709年)ごろです。
最盛期には新町に43軒もの問屋があり、200棟を超える土蔵が軒を連ねていたといわれています。
玉島港には、周辺の備中南部一円で栽培された綿「備中綿」や、その綿を加工した綿製品が集積されていました。
この備中綿・綿製品と、北前船が運んできたニシン粕(カス)や干鰯(ほしか、乾燥させたイワシ)との取引がもっとも多かったといわれています。
ニシン粕や干鰯は、綿花栽培の肥料として使われました。
玉島から売られた主なものは、備中綿・綿製品などでした。
こうして玉島の港町は物資の集散地として栄え、「西の浪速」と呼ばれる瀬戸内有数の商都となり、経済都市として繁栄したのです。
なお元禄時代中に玉島港町の領主が変わり、備中松山藩領・丹波国亀山藩(現 京都府亀岡市が拠点)領・江戸幕府直轄地の3領分割支配になりました。
商業の中心が郊外に移り、古い建造物が残る町並みに
明治時代以降も玉島は、岡山県内で指折りの経済の中心地としてにぎわいました。
金融機関や官公庁の主要な出先機関も置かれ、拠点都市にもなります。
その後、1970年代半ばになると、自動車中心社会となり、商業はしだいに郊外へ移っていきました。
しかし玉島市街地には古い建造物が多く、港町の繁栄を感じる町並みが残されています。1995年(平成7年)に玉島の町並みは、岡山県町並み保存地区に指定されました。
さらに2017年(平成29年)に玉島の町並みが、日本遺産「一輪の綿花から始まる倉敷物語~和と洋が織りなす繊維のまち~」の構成文化財に。
2018年(平成30年)には、日本遺産「荒波を越えた男たちの夢が紡いだ異空間~北前船寄港地・船主集落~」の構成文化財の一つになりました。
現在倉敷市は、玉島の歴史的景観を後世に残せるよう、建築物の新築・増築などに対して経費補助や技術支援をしています。
玉島の町並みの特徴・見どころ
玉島の町並みの魅力や見どころについて、倉敷市 日本遺産推進室・藤原憲芳(ふじわら のりよし)主幹に話を聞きました。
羽黒神社を中心に広がる玉島の町並み
──まず、玉島の町並みの特徴を教えてほしい。
藤原(敬称略)──
玉島の旧港町で古い建造物が多く見られるのは「新町」「仲買町(なかがいちょう)」「矢出町(やいでちょう)」の3町です。
羽黒神社を中心に放射状に所在しています。
玉島の町並みに残る歴史的な建造物は、虫籠窓(むしこまど)や格子(こうし)、海鼠壁(なまこかべ)などを備えた本瓦葺(ほんがわらぶき)の商家・蔵などが特徴です。
これらの特徴は、財をなした人の家屋に見られるもの。
玉島が商業で繁栄し、豪商を多く生み出したことがわかりますよね。
歴史的建造物は、今も現役の住まいとして使用されていたり、企業として営業されていたりします。
ぜひ町を散策し、「西の浪速」と呼ばれた港町の趣を感じてください。
玉島の総鎮守・羽黒神社
──藤原さんの玉島のおすすめスポットは?
藤原──
私のおすすめは、羽黒神社です。
羽黒神社がある羽黒山は、玉島市街地のほぼ中心にあります。
羽黒神社は江戸時代前期に干拓を開始するにあたり、備中松山藩主の水谷氏が干拓事業の成功と干拓地の安全を願い、出羽国(現 山形県・秋田県)の羽黒山(山形県鶴岡市)の出羽神社(いでは じんじゃ)の分霊を祀りました。
神社の装飾をよく見ると、細かいものやユニークなものが多くあります。
また玉垣には玉島周辺以外にも、遠方の人の名前が見られるのです。
これから北前船との商取引で栄え、豪商が多く生まれたことがわかります。
さらに羽黒神社が鎮座する羽黒山は島だったことから、阿弥陀島と呼ばれていました。
それ以外にも「玉島」と呼ばれていたという説もあります。
つまり羽黒神社のある地は、玉島の地名発祥地の可能性があるのです。
干拓の守り神で、玉島の地名発祥ともいわれる羽黒神社ですから、散策時にぜひお参りしてみてください。
かつて玉島港町の中枢をなした問屋街・新町周辺
──新町周辺について知りたい。
藤原──
新町は、羽黒神社の西の麓(ふもと)から西へ一直線に延びる道を中心とした町です。
この道は新町通りと呼ばれています。
羽黒神社の境内の西側から見下ろすと、新町通りと新町の町並みが広がります。
玉島らしい景観ですので、ぜひ眺めてみてください。
新町通りを歩くと、幕末から明治初期に女流歌人として活躍した、安原玉樹(やすはら たまき)の生家である穀物問屋「若屋」だった建物があります。
また幕末から明治初期に活躍した漢学者・川田甕江(かわた おうこう)の生家だった綿問屋「大国屋」も見どころです。
回船問屋だった「西国屋」跡は、屋敷とともに立派な蔵も現存しています。
この蔵は、コンサートなどの文化活動の拠点としても活用されているんです。
ほかに綿問屋「西綿屋」跡、回船問屋跡、米屋跡、米屋の別宅「向三宅邸」などもあります。
説明板や看板、石柱などが設置されているので、目印にしてください。
いずれも江戸〜明治時代の風情を今に残しています。
今も現役の企業・商店が多い仲買町周辺
──仲買町はどのような町か。
藤原──
新町通りを西の端まで進み、そのまま橋を渡ると仲買町に出ます。
仲買町は、仲買人たちが店を構えたのが始まりといわれる町です。
江戸時代中期には、593軒もの商人が仲買町に移ってきたといわれています。
現在も江戸・明治・大正時代の趣(おもむき)が感じられる建物が残っていると同時に、現在も営業している店・企業も多いのが特徴です。
大正時代に多かった「看板建築」や洋館建築も残っています。
たとえば旧「玉島信用組合」の建物。
昭和前期に建てられた、モダンな雰囲気の洋風建築です。
その北にあるのが「玉島味噌醤油合資会社」。
ここは、明治時代に阿賀崎村の役場だったところです。
少し北に進むと、老舗酒蔵「菊池酒造」。
菊池酒造は「燦然(さんぜん)」の銘柄で知られています。お土産にいかがでしょうか。
なお菊池酒造は、幕末に活躍した国学者・歌人の近藤萬丈(こんどう ばんじょう)の生家です。
ほかにも紙問屋「白神紙商店」、回船問屋「井出屋」跡、俳人・種田山頭火(たねだ さんとうか)来訪地、江戸後期の儒学者・横溝カクリの塾跡、備前藩屋敷跡「越後屋」などの見どころがあります。
また仲買町の南の山上にある「円通寺(えんつうじ)」にも、ぜひお参りしてほしいですね。
円通寺は、名僧・良寛(りょうかん)の修行地として知られています。
また円通寺からは玉島が一望でき、見晴らしが抜群です。
登録有形文化財の西爽亭がある矢出町周辺
──矢出町はどのような場所?
藤原──
矢出町は、羽黒神社の北側から港橋を渡った対岸の町です。
ここは干拓より前から、港があったともいわれています。
新町ができると、しだいに港町の中心は新町に移っていきました。
矢出町の最大の見どころは「西爽亭(さいそうてい)」です。
ここは江戸時代の豪商で、回船問屋の柚木家の邸宅。
柚木家は備中松山藩主に仕え、藩主が玉島周辺を訪れた際に柚木家に宿泊していました。
藩主が宿泊する場所だったのが、西爽亭だったのです。
そのため細やかな部分までこだわった装飾など、豪華な造りが特徴。立派な庭園も備えています。
また幕末の動乱で、備中松山藩士・熊田恰(くまた あたか)は自害と引き換えに、玉島が戦に巻きこまれるのを防ぎました。
熊田が自害した場所が西爽亭で、切腹の際に飛び散った血液の跡が残っているのです。
なお西爽亭は、登録有形文化財になっています。
ぜひ見学してみてください。
矢出町には、人気の飲食店・商店があるのもポイントです。
夫婦焼(今川焼)の老舗や本場のジェラートが楽しめる店、蔵を利用した店舗が特徴のラーメン店、老舗の文具・駄菓子店などがあります。
散策の合間に寄ってみてはいかがでしょうか。
玉島に根付く茶の湯文化
玉島の特徴として、茶の湯の文化が古くから根付いており、現在でも盛んです。
玉島と茶の文化について倉敷市役所の藤原憲芳さんと、玉島にある老舗茶・茶道具店「器楽堂老舗(きらくどうろうほ)」の器楽堂ゆう子(きらくどう ゆうこ)さんに話を聞きました。
──まず、器楽堂老舗について教えてほしい。
器楽堂(敬称略)──
器楽堂老舗はもともと備中松山(現 高梁市中心部)で、古物商をしていたと聞いております。
江戸時代末期に玉島に移り住み、お茶や茶道具の小売店を始めました。店には茶室を設けており、毎週日曜日にはお茶会を催しています。
──なぜ、玉島で茶の湯文化が根付いているのか。
器楽堂──
玉島が港町・商都として発展したことが、茶の湯の文化に大きく関わっています。
北前船との商取引などにより、玉島には豪商が多く生まれました。
豪商たちのたしなみの一つとして、茶の湯の文化が広まったことが一つの理由です。玉島の商家の多くには、茶室が備えてあったといわれています。
金銭的に豊かになると、文化的なものに力を入れるようになりました。茶の湯は、玉島の成功した商人たちのステータスシンボルだったのです。
また茶道をすると集中し、ほかのことを忘れられます。
オンとオフの気持ちの切り替えにもなったのではないでしょうか。
ほかの理由として、北前船の商人を玉島の商人がもてなすために茶の湯が用いられたともいわれています。
藤原──
商人を茶の湯でもてなすのは、現代でいう接待の側面がありました。同時に、商いの大事なツールでもあったと思います。
茶の湯はおもてなしそのものでしたので、相手にお風呂に入ってもらうところから始まっているといわれています。
玉島の商人は、取引相手である北前船の商人を厚くもてなし、北前船の商人は茶の湯を通じて、取引相手の玉島の商人がどのような人物かを見極めていたのかもしれません。
お茶の作法・お茶・菓子・道具・室内の飾り・茶室など、一流であれば取引相手から「この人は信用ができる人物だ」と思われますよね。
北前船との商取引をうまく進めるために、茶の湯は重要な役割を果たしたのではないでしょうか。
玉島が商都として繁栄したのは、茶の湯の文化が商談を支えたからとも考えられます。
器楽堂──
たしかに、お茶の作法の扱いかたはすべてに通じるところがあって、人となりが感覚的にわかる面があると思いますね。
なお茶の湯の文化は、北前船によって玉島に伝えられたという説もあります。
──どれくらい茶の湯が盛んだったのか。
器楽堂──
最盛期には玉島の港町に、およそ400もの茶室があったといわれています。
玉島の町の規模を考えると、この数は非常に大きいです。
現在では茶室の数は減少してしまいました。
しかし今も玉島には、町の規模のわりにお茶・茶道具の店や和菓子店、呉服店が多いです。
これは、玉島が茶の湯が盛んだった時代の名残といえるでしょう。
──現在も玉島では茶の湯が盛ん?
器楽堂──
今も玉島では、お茶が盛んです。
玉島にお住まいのかたには、お茶を楽しんでいる人は多いですね。
表千家(おもてせんけ)・裏千家(うらせんけ)・藪内流(やぶのうちりゅう)といった茶道の流派があり、茶の湯の伝統を受け継いでいます。
玉島市民交流センターでは、ほぼ毎月お茶会を開催。さきほど話したように、器楽堂老舗では毎週お茶会を開いています。
また円通寺で催される「良寛茶会」は有名で、岡山県四大茶会の一つに数えられているほどです。
近年は海外からもお茶会を目的に玉島を訪れる人もおり、米国や台湾などから来たかたもいますね。
藤原──
玉島地区の幼稚園・こども園・保育所のなかには、お茶会時間を設けているところもあり、幼児教育にも採り入れて、地元の文化継承につなげています。
茶の湯文化の根付く玉島らしいと思いますね。
また玉島では「お茶会ガイドブック」が制作されているんです。初めてのかたや慣れていないかたでも安心してお茶会の体験ができます。
玉島の茶の湯文化は、観光の観点から見てもおもしろいです。
玉島は北前船との綿取引などで大いに繁栄したすごいところで、そこで広まった茶の湯文化を体験して、当時の商人たちの息吹を感じてみてください。
器楽堂──
お茶会に参加してみたいというかたは、JR新倉敷駅構内にある観光案内所を訪ねてください。
作法や手順などがわからなくても、やさしく説明をします。
商都の発展とともに盛んになった玉島の茶の湯文化に、ぜひとも触れてみてください。
商都として栄えた玉島の町並み
玉島の港は、おもに北前船との取引で栄えた商都。
仕入はニシン粕や干鰯、売上は備中綿が主要なものでした。
ニシン粕や干鰯を綿花栽培の肥料にし、育てた綿や綿製品を売ったことで栄えたのです。
現在、倉敷市はジーンズや制服・ユニフォーム製造など、繊維産業が盛んです。
倉敷市が繊維のまちとなったのには、玉島港町の北前船との綿取引による繁栄が要因の一つになっているといえるでしょう。
「ぜひ玉島を訪れて、商都だったすばらしさを感じてほしいです。そして良かったところを、まわりのかたにお話ししていただけるとうれしいですね。その積み重ねで、玉島の町並みを後世に残していけると思います」と藤原さんは話します。
玉島の歴史ある町並みを散策してみてはいかがでしょうか。