クルーズ船集団感染:未知のウイルスvs.精鋭部隊、14日間の舞台裏――試し読み【新プロジェクトX 挑戦者たち】
情熱と勇気をまっすぐに届ける群像ドキュメンタリー番組、NHK「新プロジェクトX 挑戦者たち」。放送後に出版された書籍版は、思わず胸が熱くなる、読みごたえ十分のノンフィクションです。本記事では、書籍版より各エピソードの冒頭を特別公開します。ここに登場するのは、ひょっとすると通勤電車であなたの隣に座っているかもしれない、無名のヒーロー&ヒロインたちの物語――。『新プロジェクトX 挑戦者たち 5』より、第一章「クルーズ船 集団感染――災害派遣医療チーム 葛藤の記録」の冒頭を特別公開。
クルーズ船 集団感染――災害派遣医療チーム 葛藤の記録
未知なるウイルスの恐怖
闘いの始まり
2020年2月、横浜港に停泊した一隻の船に、世界中の視線が注がれていた。乗員乗客3711人を収容するクルーズ船「ダイヤモンド・プリンセス」である。
船内で新型コロナウイルスが蔓延すると、最終的に712人が集団感染する大規模クラスターとなった。当初は治療薬もなく、重症化すれば死に至る感染症。船内で2週間の隔離を余儀なくされた乗員乗客は、大きな不安に襲われた。
国や医療の専門家たちは、前例のない事態への対応に追われた。厚生労働省、自衛隊、国立感染症研究所、日本赤十字社など、関わった組織や団体は300以上。しかし、情報は乏しかった。乗員乗客をウイルスから守る仕組みも、安全に下船させるノウハウもなかった。
「これは、もはや災害だ」
日本中が混乱に陥るなか、全国から災害医療のスペシャリストたちが駆けつけた。
「船の中で亡くなる人を、1人も出さない」
志を1つにした精鋭部隊が、意を決してクルーズ船に乗り込んだ。困難なミッションに挑んだ隊員たちは、胸中にそれぞれの思いを抱えていた。
第一報を受けた医師は、法的根拠がない出動要請に理屈を超えた判断で応えた。
現場のリーダーを突き動かしたのは、東日本大震災で救えなかった命への悔恨だった。
業務の調整を担った元「トラック野郎」の災害派遣医療チーム隊員は、非難を覚悟で乗客に寄り添った。
船内隔離の期間は2週間。船内でのウイルス蔓延を食い止め、乗客を船から搬送する任務に、隊員たちは感染リスクを覚悟のうえで取り組んだ。だが、そんな彼らを待ち受けていたのは、誹謗中傷や差別の声。さらに、感染者は増加の一途をたどり、ミッションは手詰まりの様相を呈ていする。いよいよ限界かと思ったそのとき、予想だにしなかった光が差し込んだ――。
あのクルーズ船で、何が起きていたのか。これは、知られざる葛藤の記録である。
災害医療のスペシャリスト集団
「令和」になって初の正月を迎えた直後に、そのニュースは飛び込んできた。
《WHO(世界保健機関)は新型ウイルスの可能性が否定できないとして、各国が警戒を強めています》
中国・武漢で新型コロナウイルスの存在が確認され、世界が中国の感染拡大に注目していた。そんななか、2020年2月3日、ダイヤモンド・プリンセスが横浜港沖にやってきた。1月20日に横浜を出港した大型客船は、鹿児島(22日)、香港(25日)、ベトナムのチャンメイ(27日)およびカイラン(28日)、台湾の基キー隆ルン(31日)、那覇(2月1日)に寄港し、2月4日に横浜港に戻ってくる16日間の旅程だった。ところが、船内では発熱者が急増していた。また、帰港前に香港で下船した乗客がウイルスに感染していた事実も判明する。
横浜港内の錨地に停泊するダイヤモンド・プリンセスに検疫官が乗り込み、PCR検査を実施した。すると、検査結果が判明した31⼈のうち10⼈が新型コロナウイルスの「陽性」反応を示す。政府は乗員乗客の14日間の船内待機を要求した。事実上の「隔離」である。陽性者については、下船させて病院へと搬送することが決まった。
そのとき、藤沢市民病院(神奈川県)の副院長で医師の阿南英明は、出張先のホテルに滞在していた。神奈川県庁の職員からかかってきた電話が、長い闘いの始まりを告げた。
「クルーズ船の対応にDMATを出動させられませんか」
DMAT(Disaster Medical Assistance Team)とは、地震や大事故の際に医師や看護師などを派遣する災害医療のスペシャリスト集団。負傷者の治療だけでなく、入院患者の避難や病院への燃料補給など、あらゆる支援を行う。1995年の阪神・淡路大震災を契機に組織化の検討が始まり、2005年に日本DMATが発足した。
DMATの隊員は全国に約1万7000⼈いる(2024年時)。普段は病院などに勤務する医療従事者で、災害時に都道府県からの要請があると、勤務する病院から現場に派遣される。阿南はDMATの立ち上げ時から関わってきたメンバーで、当時は神奈川県DMATの隊員を統括する調整官だった。
DMATの任務に対しては、特別な報酬が支払われるわけではない。設立当初は活動そのものが広く知られていなかったともいう。
「災害医療の講演に呼ばれても司会者から『ディーエムエーティーの阿南さん』と紹介されることもありました」(阿南)
阿南に電話をかけてきたのは、神奈川県の健康危機管理課で副課長だった吉田和浩。県がとれる対応にも限界を感じて、DMATの力が必要だと阿南に訴えた。
「阿南先生には県の災害医療コーディネーターという職務もお願いしていたんです。感染者の入院調整は、行政だけでは到底やれなかった。そうなると、もう頼れるのはDMATしかないんじゃないかと思ったんです」(吉田)
DMAT隊員、船内へ
深夜、吉田が再び阿南の携帯電話を鳴らす。船内で実施したPCR検査の結果報告を聞き、阿南は思わず立ち上がった。
「10人の陽性者が出たというニュースをテレビで見た直後だったのに、『実は明日も陽性者が出るんです』と聞かされて、めりめり、めりめりと、危機が迫ってくるように感じました。連日これが続くとなれば、ただ事ではない。電話の向こう側ではどうしていいかわからず、パニックに陥っているんだろうなというのが伝わってきた」
幼少期から体が弱く、何度も救急車で運ばれたことがある阿南は、自分を助けてくれた医療への感謝の気持ちから医師を志した。生涯を懸けて国民に恩返しをしたい。そんな気持ちを胸に秘める男だった。災害医療支援を行うDMATの設立に参画したのも、人々の平和な生活の維持に貢献したいという信念からだった。
「家があまり裕福でなかったからね、6年間授業料免除で国立大学の医学部に通わせてもらった。だから僕の中では、国民のみなさんのおかげで医者になれたという思いが根強くあるんです」
DMATは災害救助法を根拠に活動するチームのため、感染が拡大する現場に隊員を派遣することには、さまざまな障壁があった。だが、阿南は神奈川県庁とともに突破口を見出し、派遣要請の発出へとこぎつけた。いよいよ、DMATの出動が決まった。
2月7日、白い防護服に身を包んだDMATの第一陣が、横浜港・大黒埠頭に置かれたターミナルに集まった。いの一番に出動した隊員のなかに、横浜労災病院(神奈川県)の救命救急センター長・中森知毅の姿があった。国際緊急援助隊員として海外の災害地での活動経験もある、阿南が全幅の信頼を置く救急医だった。
「困っている人がいれば何とかしたい。『意気に感ず』というのが私の好きな言葉なんです。人が求めるところへ行って、果たすべき役割を与えてもらえ、そこに誇りが持てる。そういうものがDMATの仕事にはあるんです」(中森)
大黒埠頭の岸壁では、厚労省技官の堀岡伸彦がオペレーション業務にあたっていた。船内は突然の隔離によって大混乱となっていた。感染の事実に戸惑う者、異国の病院に運ばれることを拒否する者、突然の隔離生活に不安を訴える者……突然の非日常を前に、大小さまざまなトラブルが起きているという連絡が、堀岡のもとにひっきりなしに届いた。
「この災害時のような混乱を打開するためには、DMATの力が必要だ」
そこで堀岡は、同僚の松本晴樹とともに、DMATを臨時検疫官として船に乗せることを思いついた。
先陣を切って乗船することになったDMATの中森。眼前にそびえる巨大なクルーズ船に、自分たちがなすべき仕事が待っている。DMATの隊員たちは決意を新たに、臨時検疫官として船に乗り込んだ。
船内に広がる不安
ダイヤモンド・プリンセスの船内では、クルー(乗務員)たちの間でも困惑が広がっていた。ゲストサービスを担当していた和田祥子が証言する。
「船内のコールセンターには、『どうなっているんだ?』『いつ下船できる?』『コロナって何?』という乗客からの電話がひっきりなしにかかってきました。でも、答えられない。何かが起こっているのはわかっていても、何がどう起きているのか、情報が入ってこないから私たちにもわからず、危機感ばかりが募りました」
混乱の原因は、ウイルスの存在だけではなかった。乗員乗客の国籍は57か国にも及ぶため、言葉が通じずなかなか作業が進まない。また、ウイルスの陽性患者以外にも体調不良を訴える乗客が出始めていたことも、中森の頭を悩ませた。乗客の約半数は70代以上の高齢者で、なかには命に関わる持病を抱える人も多く、その薬も不足していた。
「2016年の熊本地震では、亡くなった人の8割が災害関連死でした。たとえば避難所生活をしている人たちに健康被害が出るようなケースは数多く検証されています。ダイヤモンド・プリンセスでも、狭い船室に隔離を強いられていれば体調不良を訴える人が出てくるのは必然で、それを防ぐのもDMATの役割だと考えていました。われわれが乗船したときは、すでに具合が悪い人も、まだ具合が悪くない人も含めて、3000人が医療のチェックも終わっておらず、まったく手付かずでした」(中森)
中森らDMAT隊員が乗船した2月7日、病院への搬送を要する患者はさらに5人増え、計46人となった。その全員をターミナルから送り出したのは、午後10時30分頃。中森たちは疲労困憊で初日の任務を終えた。
だが、翌日以降も感染者が続出することは明らかだった。この状況を打開するためには、さらなる隊員の派遣が必要だ。
「電話がかかってきたのは、医療チームと翌日の打ち合わせをしながら食事をしようとしていた矢先でした」
そう話すのは、利根中央病院(群馬県)の医師・鈴木諭。武漢に在留していた日本人の帰国者を受け入れた千葉県柏市の施設医療支援にあたるため、現地に入った7日夜にDMAT事務局からの電話が入ったという。
「明朝、柏ではなく横浜へ行ってくれないかと打診されたんです。直接電話がかかってくるということは、それだけ人が足りないんだなと感じました。『あの船に乗ることになる』と妻に電話をすると、『どうせ止めても無駄なのはわかっています』と言ってくれました
けれども、妻の誕生日がもうすぐだったので、家に帰れないのが申し訳なかった」
ダイヤモンド・プリンセスは船内にたまった生活排水を放出するため、定期的に5キロ以上の沖合に出なければならない。次の離岸予定は8日午前9時で、戻って来るのは9日朝。つまり、およそ丸一日の間、患者を下船させて病院へ搬送する作業ができなくなるのだ。
8日早朝、17人のDMAT隊員がクルーズ船に乗り込んだ。2度目の乗船となる中森は、胸のうちで静かな闘志を燃やしていた。
救える命を救うために
タオルがトレードマークの男
クルーズ船に乗り込んだ17人のDMAT隊員は、先に乗船していた厚生労働省審議官・正林督章と対面。正林は厚労省の新型コロナウイルス対策本部の所属で、感染症対策の行政経験が豊富だったことから、このクルーズ船対応を任されていた。正林から患者搬送の指示を受けたDMATの隊員たちは、船内を駆け回った。
福島県立医科大学附属病院の島田二郎は、体調不良を訴える乗員乗客の部屋を回っては、診察と検体採取を繰り返した。島田は、特別な思いをもって乗船に志願していた。
「僕らは東日本大震災で助けてもらった。だから有事になったら何かを返さなきゃいけないという気持ちは、福島県民の多くが抱えていると思うんです。僕がダイヤモンド・プリンセスに乗船したのも、受けた恩を返したいという気持ちが心のどこかにあったからでした」
済生会横浜市東部病院(神奈川県)救命救急センター長・山崎元靖は、船内で薬剤班のリーダーを買って出た。初日から患者搬送支援に加わっていた山崎は、麻薬や抗不安薬、インシュリンなど、厳格な管理が必要なうえ、休薬を避けなければならない薬を必要とする乗客が多くいると船医から聞き、気がかりでならなかった。実際、それらの薬が不足しており対策は急務だった。
「そもそも災害医療というのは、マイナスの状態から始まる『負け戦』なんです。でも、負け戦には負け戦の闘い方がある」(山崎)
山崎のチームには、心強いメンバーがいた。抗菌化学療法認定薬剤師の資格を持つ五十嵐崇である。必要とする薬が行きわたるよう、五十嵐は獅子奮迅の働きを見せた。
「必要な薬は船内で配られたリクエストフォームに記されていましたが、それらは乗客が自ら手書きしたもので、医師の処方箋ではありません。ですから書かれている情報に間違いがないかどうかを辞書やマニュアルで確かめながら、血栓ができないようにする薬やインスリンなど、緊急性が高いものから順に調剤しました」(五十嵐)
かたや中森は、船内に入っていた数十の団体が効率よく機能するための仕組みづくりに汗をかいていた。
「それぞれのチームがバラバラに動いていては、誰がどんな人を相手にしているのかわからない。だから全員集まって、船内に事務局をつくることを提案したんです」
本部となったのは、船内にある大きなレストラン。本部長には厚労省の正林が就き、中森が事務局長として運営を仕切る。3時間ごとに各チームのリーダーが集まり、情報を整理して共有した。それは、災害現場で培われたDMATのノウハウだった。
船内の状況が明らかになるにつれ、中森は危機感を募らせた。この状況を打開するためには、17人の隊員では少なすぎる。次の一手が必要だった。
中森は、ある男と連絡を取った。災害医療一筋30年、トレードマークは首に巻いたタオル。阿南とともにDMAT創設時から関与し、数々の災害医療の現場で指揮官を務めた、DMAT事務局次長の近藤久禎である。
阿南から連絡を受けた近藤は、中森の船内報告を聞いて奮い立った。
「1日60人以上の人が熱を出していて、今すぐ診療を要するという状況にもかかわらず、ドクターがなかなか現場に行き着かない。これは本当に通常の事態ではない。大勢の人たちの、本来あるべき人生というものが、災害によっていろいろな意味で狂ってしまう。そこに対して、どのようにサポートできるかを考えていくのがDMATの仕事。中森先生の報告があったから、われわれには正しい作戦が立てられると思いました」
2月10日、出動要請に応えた全国151人ものDMAT隊員が横浜港に集結した。中森に代わって隊員を率いることになった近藤は、たった1つの目標を掲げていた。
「この船の中で誰も死なせてはならない」
隔離終了まで残り10日。近藤たちの長い闘いが始まった。