地震の打撃はコロナ禍以上、それでも歴史を積み重ねていく“夢二の館”。石川県湯涌温泉『お宿やました』
大正ロマンの人気画家、竹久夢二。彼が恋人・彦乃をモデルに、たおやかな美人画を描いた場所が石川県湯涌温泉にある。江戸時代から続く老舗宿の『お宿やました』だ。ギャラリーに温泉、食事で、夢二の世界にどっぷりと浸りたい。
今回の“会いに行きたい!”
女将の山下絹子さん
夢二は彦乃の美人画をこの宿の2階で描いた
『湯上がり美人』。その絵は、土産物が無造作に並ぶフロントの脇に飾られていた。描いたのは、大正時代の女性たちの胸をキュンとときめかせた人気画家、竹久夢二である。
大正6年(1917)の秋、金沢での画展のあと、夢二が人生で最も愛したといわれている恋人・彦乃と前妻との間に生まれた次男・不二彦を連れ、この宿で約3週間の湯治を楽しんだ。
「夢二式美人画」といえば、白い肌に憂いを帯びた大きな瞳、華奢(きゃしゃ)で曲線的な女性が印象的。この宿でも彦乃をモデルに、3枚の美人画を描いたそうだ。
「ずっと、うちにはありませんって隠していたんです」
こう話すのは、慎ましやかな雰囲気の女将・山下絹子さん。女将歴55年、色白の肌、クリッと大きな瞳に目を引かれる。
「絹子」の名は、実家が機(はた)織り業を営んでいたことから。戦後は菓子製造・販売業に変わったが、娘時代から店を手伝っていたから、嫁ぎ先の旅館業にもおもしろさを感じていた。
「料理を作り、お客さまにお出しし、食べておいしいと言っていただける。最高の仕事です」とほほえむ。
嫁に来た当初、先代(義父)は夢二の絵を門外不出としていた。夢二が描いた3枚の美人画のうち、1枚は県外の美術館に貸し出したものの返却されず、もう1枚は近くの薬師堂に寄付したがすぐになくなってしまった。
「ないといっときゃ、貸さなくていい。出すな」。蔵に保管して、尋ねる人があっても「ない」の一点張りだった。
「雑誌『太陽』の人が『夢二の絵はここにあるでしょ』と取材で訪ねてきても、『ない』と断りました」
転機は昭和53年(1978)に先代が亡くなってから。金沢市が『金沢湯涌夢二館』を開館することになり、初代館長から「あったら出してほしい」と懇願された。
こうして『湯上がり美人』の掛け軸を1年間貸し出すことに。2000年に『夢二館』が開館してからは、宿と『夢二館』でレプリカを公開している。
滞在中の日記に見る、夢二の彦乃への愛
夢二はさまざまな温泉地を訪ねた温泉好きとして知られる。
湯涌温泉では薬師堂で絵馬を奉納し、この地に画室を建てたいと彦乃に夢を語った。湯涌温泉で詠んだ13の短歌はのちに歌集『山へよする』に収録されている。
絹子さんが一番好きだというのは「木の実よりなほあたらしく若き野の草よりかろくよりそへるもの」という歌である。年若い彦乃に対して夢二のまなざしはどこまでも温かく、満ち足りた幸せを感じさせる一首だ。
「彦乃さんをそれだけ大切に思っていたということでしょう。すごくやさしい人だなと思って、とても好きな一首です」と女将。
当時の旅の様子は、夢二が残した日記の中にも見ることができる。
「こんな水が土の中から出て医者の薬よりもきくって不思議ね。人間にわからないことはたくさんあるよ。成分や効能はわかってもどうして病気が治るのだかまだ今の医学ぢゃわからないんだからね」
温泉の効能について語り合う2人の会話が聞こえてきそうだ。
「温泉街の真ん中に湯の川が流れていて、自動車は通れなかったので、夢二たちは人力車に乗ってきたんですよ」。女将からそんな話を聞いて、旅の様子がより身近に迫ってきた。
私の中の夢二像は「モテ男のダメンズ」なイメージだったが、女将の解説を聞いているうちに、愛する人を大切にしていた素敵なロマンチスト像へと昇華していった。
開湯1300年の湯涌温泉のなかでも、『お宿やました』は3本の指に入る老舗。
創業は正確にはわからないが、加賀藩3代藩主・前田利常から屋号を賜ったので、少なくとも370年以上の歴史を紡いでいることとなる。
部屋数を増やせば儲かった高度経済成長時代であっても、大型にはしなかった。「義父はそんなに儲ける必要はない、という主義。嫁に来たときにいわれたのは『博打(ばくち)と売春宿だけはするな。そんなのは必ず廃(すた)れる』ということ」。地道な宿づくりを信条に、暖簾を守り続けてきた。
2024年、元日から地震が北陸を襲った。この宿はハード面での被害はなく、揺れのためにエレベーターが止まった程度だったが、1月は宿泊客の予約がほぼ流れ、「北陸応援割」の様子見によって2〜3月もキャンセルが続き、コロナ禍を上回る打撃を受けた。
のと牛のすき焼きに手作りの漬物、ジャム……
料理長は夫である会長から、娘婿である現社長へバトンが引き継がれている。
夕食の名物は夢二の好物であり、かつて「夢二鍋」と名づけていた「のと牛のすき焼き鍋」。能登牛は石川県のブランド牛で、きめこまやかな肉質とほどよい霜降りが口溶けのよさを引き立てる。
加えて、近江町市場が近く、新鮮な海の幸が膳をにぎわす。この日は、ぷりぷりの甘エビや脂ののったカジキ、甘みたっぷりのナメラ(キジハタ)などを味わった。
絹子さんは発酵食好きで、甘酒や漬物を手作りする。ぬか床や塩麴を使って白菜やキュウリ、ナス、ニンジン、パプリカを漬ける。塩麴は温泉水で作ることで味わい深く、まろやかな仕上がりとなる。
「夕食にも朝食にもお出ししますので、お楽しみください」
さらに、売店に並ぶレモンやユズを使ったジャムも女将の手作りだ。
ホームページで見るより料理も設えもおもてなしも数段素晴らしい。金沢近郊と考えると、かなり値頃感もあり、リピーターが多いのも納得。
今後も時代におもねることなく、震災の被害を乗り越え、歴史を積み重ねていくだろう。
女将おすすめ! 立ち寄りスポット
5月、ショウブやミズバショウが見頃に「玉泉湖(ぎょくせんこ)」
湯の川を堰き止めて造られた周囲約500mの人造湖で「緑のなか、遊歩道を歩くと気持ちがいいです」と女将。●宿から徒歩5分。
夢二の一生と愛にフォーカス『金沢湯涌夢二館』
夢二と彦乃がともに筆をとり、野の草花を描いた帯やその帯を締めて撮影した写真など、ゆかりの品々を展示。●宿から徒歩1分。
お宿やました
住所:石川県金沢市湯涌町イ165-1/定休日:無/アクセス:北陸新幹線金沢駅からバス50分の湯涌温泉下車、徒歩5分
取材・文・撮影=野添ちかこ
『旅の手帖』2024年5月号より
野添ちかこ
温泉と宿のライター/旅行作家
神奈川県生まれ、千葉県在住。心も体もあったかくなる旅をテーマに執筆。著書に『千葉の湯めぐり』(幹書房)、『旅行ライターになろう!』(青弓社)。最近ハマっているのは手しごと、植物、蕎麦、癒しの音。