まさかの小室哲哉と共演!35年ぶりにツアーを行うパール兄弟とはいったい何者なのか?
パール兄弟が2026年のデビュー40周年に向けて精力的に活動中だ。そこで、パール兄弟の音楽性などを彼らのことを知らない人にもわかるようにまとめて欲しいとの指令がくだった。いやいや、日本のロック史上、語るのがこんなに難しいバンドも珍しいのだよ。音楽的な多様性と、突き抜けた技術力、あまりにも独特な言葉の感性ーー。そこで、彼らのキャリアをざっくりと追ってみたいと思う。
サエキけんぞうと窪田晴男の出会い
パール兄弟はボーカルと作詞のサエキけんぞうと、ギターの窪田晴男の出会いから始まる。サエキは “少年ホームランズ” を経て、大学在学中の1980年に “ハルメンズ” でデビュー。窪田は “人種熱” で活動中に、このバンドに惚れ込んだ近田春夫が加入し、近田春夫&ビブラトーンズとなって1981年にデビューしている(その直前に人種熱名義でアニメのサントラ盤あり)。
ハルメンズは少年ホームランズと久保田慎吾の8 ½(ハッカニブンノイチ)のメンバーが合流して結成され、解散後、戸川純のゲルニカやヤプーズへと繋がっていく。人種熱はPINKやスターダスト☆レビュー、ショコラータなどに発展。両バンドのほとんどのメンバーが1980年代の日本のロックの重要人物となっていく。そう、サエキと窪田はその源流にあたるということにも注目したい。
2人の出会いは1982年3月。渋谷のライブハウス、エッグマンでの人種熱のライブをサエキが見たことに始まる。窪田に自分に似ているものを感じたサエキは楽屋を訪ねた。また、窪田も1982年12月のハルメンズの解散ライブを偶然見にきていたようだ。2人は曲を作り始めるようになり、当時、歯科医を目指して徳島大学に通い、長期休暇のときだけ東京に戻ってきていたサエキは、ファクスで歌詞を窪田に送り、窪田がそれに曲をつけるなどしてレパートリーが増えていった。
初ライブは1983年8月。Shi-Shonenのフロントアクトとして出演。ベースには元フィルムスで、ポータブル・ロック(野宮真貴在籍)や戸川純のヤプーズで活動していた中原信雄と、ドラムスにVOICEやメトロファルスほかの濱田康史が加わり、パール兄弟がバンドとしてスタートする。
1984年11月。スケジュールの都合で参加できない中原に代わって、メトロファルスのベーシストのバカボン鈴木がトラ(代役)で参加。この次のライブも中原は参加せず、そのままバカボン鈴木の加入が決定した。ライブハウスシーンで人気となり、メジャーデビューの話が出る中で、バンドを5つも掛け持ちしていた濱田のスケジュールが問題となり、1985年11月に窪田の知り合いだったドラムスの松永俊弥が加入。ここにデビュー時のメンバーが揃い、1986年6月25日に『未来はパール』でポリドールからデビューした。
パール兄弟の変幻自在の個性
このバンドはとにかく楽器隊の技術力がすごいのだ。ロックからポップスまで、主役からバッキングまでをこなす変幻自在の個性と、引き出しの多さで突出した実力を発揮していた窪田のギター。当時はバンドの傍ら、EPOバンドのバンマスや矢野顕子のツアーなどにも参加していた。
ベースのバカボン鈴木は活動こそインディーズに甘んじてはいたが、出音の安定性やスラップまでこなす技術力の高さなど、1980年代においては抜きん出た実力の持ち主だった。1980年代の終わり頃からは渡辺香津美や村上 "ポンタ" 秀一とも活動することからも、その実力がわかるだろう。なお、15歳の時に得度を経て僧侶の資格を得ているという変わり種でもある。
ドラマーの松永は、アマチュア時代から石川ひとみのサポートを担当。山本達彦のバックバンドでプロデビューするという、セッション畑出身。しっかりバックビートを叩けるドラマーは、1980年代の日本では決して多くなかった。つまり、パール兄弟は、プロミュージシャンが本気でやっていたバンドだったわけだ。なお、サエキも大学を卒業して千葉に戻ってきてから、歯科医として勤務する傍ら、作詞の依頼が急激に増えていく。
サエキの独創的な歌詞と凄腕バンドの演奏力
アルバムを簡単に紹介していこう。
1986年にリリースされたデビューアルバムの『未来はパール』は、デビュー前にライブでやっていた曲が中心で、ロキシー・ミュージックあたりのロマンティシズムに歌謡曲的な楽曲構造を組み合わせた印象というのが適当だろうか。しかし、サエキのあまりに独特な言語感覚と、詞先で曲をつけたからだろうか、メロディも楽曲展開もどこにとんでいくのか予測できない面白さがある。計算高さと無謀さを併せ持ったプログレッシブ・ポップという感じか。
ちなみに、このファーストに収録された「しがらみクラブ」が初めてのオリジナル曲となる。「○。○○○娘」は “フェラチオ娘” のことだが、ライブではコーラス部分の「♪フェラ フェラ」というフレーズを観客に歌わせるという極悪な演出。サエキはそれがフランス語だからと “Can you speak French?” と、まるでオシャレなワードであるかのように客を煽る。ちなみに、この曲のライブバージョン(○。○○○の前に)はベースラインが「スリラー」になっていて、ライブアルバム『ブートレグだよ』(1991年)で聴くことができる。
1987年には名盤『PEARLTRON』が誕生。シングルとなった「ケンタッキーの白い女」は、なんとカントリー風のアレンジ。この時期の日本のロックでは異例中の異例だろう。アルバムタイトルの由来となったと思われる収録曲「TRON岬」の歌詞には、フランスのSF作家 “ジュール・ベルヌ” が出てくるが、個人的には “CHIBA CITY” というワードからウィリアム・ギブソンのSF小説『ニューロマンサー』的な世界を想像してしまう。サエキが千葉県出身だからというだけかもしれないが。ちなみに、サエキは少年ホームランズ時代に「メロウ野郎 in 津田沼PARCO」という歌詞を書いている。その津田沼PARCOも今はもうない。
オリジナルメンバーの最終作品となった集大成的な「六本木島」
続く1988年の『BLUE KINGDOM』は、最もわかりやすくロックに寄った作品。その中のシティポップ的な「100度目のBye Bye」や変則的なファンク・インストの「地上げ屋ストンプ」はDJユースな楽曲。
1989年の『TOYVOX』は一気にサウンドがプログレッシヴな方向性に振れて、メンバーのミュージシャンシップが全開となった作品。ちなみに、ラストのファンキーな「BACK YOU」には別バージョンがあり、バカボン鈴木がブチキレまくったボーカル(とお説教)を聞かせる「バカボンのBACK YOU」として、マキシシングル「色以下」のカップリングに収録されている。
1990年の『六本木島』はここまでの集大成的な作品。楽曲やサウンドの多様性はこれまで以上で、ホーンズなどもフィーチャーして、さらに進化したサウンドを聴かせ、渋谷系の到来を予見させるようなボサノヴァまで収録されている。どこか近田春夫イズムを感じる「PANPAKAクルージング」は、シングル曲として久々にアルバムにも収録されることとなった。しかし、ここでギターの窪田晴男が脱退(兄弟なので “勘当” 扱い)してしまう。
その後、レコード会社をワーナーに移籍し、サエキ、バカボン、松永の3人に、これまでもサポートを担当していたキーボードの矢代恒彦が加入して、『大ピース』(1992年)、『公園へ行こう』(1993年)、アルファに移籍して『貝殻のドライヴ』(1994年)をリリース。ここで活動を終了した。
活動再開~今だから気づくその音楽的な面白さ
それから10年、2003年にサエキと窪田の2人が “一夜限りの復活” と題してライブを行い、アルバム『宇宙旅行』をリリース。2006年からはバカボンも加えて、3人編成で活動を再開。2013年からは、渡辺美里や水樹奈々などのセッションドラマーとして忙しかった松永と、サポートメンバーだった矢代も加えて、5人編成のパール兄弟として定期的な活動を開始。
2016年にはデビュー30周年記念ライブを行い、その模様はライブアルバム『Live miracle』としてリリースされた。2018年に『馬のように』、2019年に『歩きラブ』とEPを発表し、2020年には、26年ぶりとなるバンド編成でのアルバム『パール玉』をリリース。近年はサエキと窪田の2人で “2人パール兄弟" としてライブを行ったりと、フレキシブルな活動をしているが、そんな中、2022年に矢代が癌のため逝去した。
来年、2026年にパール兄弟はデビュー40周年を迎える。渋⾕公会堂(現:LINE CUBE SHIBUYA)でライブを開催すべく、昨年より『ROAD to KINGDOM 〜目指せ、渋公!3カ年プロジェクト〜』を始動させ、その一環として35年ぶりの東名阪ツアーが決定した。デビュー時のメンバー4人でのツアーは1990年の『六本木島』の時以来となる。もはや大ベテランの領域に入った彼らだが、全員が第一線で活動中で、かつての演奏のキレに円熟味も加わった素晴らしい演奏を聴かせてくれるはずだ。
ゲストには、東京ではなんと小室哲哉が参加。実は窪田がTM NETWORKの代表曲「Get Wild」のレコーディングに参加していることや、サエキも小室作品に歌詞を提供したことが伏線となったとのこと。ライブでの共演は初めてとのことだ。大阪では盟友ともいえる元PSY・SのCHAKAが参加。CHAKAは2016年の30周年記念の時にもゲスト参加していた。
1980年代、ロックとは初期衝動の時代であり、ポップス的な音楽の完成度やスタジオミュージシャン的な演奏技術にはあまり目が向けられなかった。そんな時代に残されたパール兄弟の作品を今聴くと、高度な音楽性に気づくと共に、サエキの歌詞の独創性に対しては、当時と変わらない謎を感じる。いま、またフュージョンの時代を迎えている中で、パール兄弟の音楽もそのような感性で聴いてみると面白いかもしれない。