【パリ五輪開催記念】フレンチポップといえばミッシェル・ポルナレフ「シェリーに口づけ」
リレー連載【パリ五輪開催記念】フランス関連音楽特集 vol.2
ラジオや有線を賑わわせていたフレンチポップ
いつの頃からか、“洋楽" と言えば、ほとんど米国か英国の音楽ばかりになってしまいました。もちろん、ポップミュージックの世界では最初から米英が圧倒的に強いことは強いのですが、昔(昭和時代)は、フランス、イタリア、ドイツ、スウェーデン、ブラジルなどのポップスも時々、ラジオや有線を賑わわせていたものです。特に60年代後半〜70年代前半は、フランスのポップス=フレンチポップが米英勢に負けず劣らずポピュラーで、テレビも含めてメディアにも頻繁に取り上げられていた印象があります。
▶ ミッシェル・ポルナレフ(Michel Polnareff)
▶ シルヴィ・バルタン(Sylvie Vartan)
▶ フランス・ギャル(France Gall)
▶ フランソワーズ・アルディ(Francoise Hardy)
▶ アダモ(Adamo)
▶ ダニエル・ビダル(Danièle Vidal)
▶ セルジュ・ゲンズブール(Serge Gainsbourg)
▶ ジェーン・バーキン(Jane Birkin)
… 今でも折に触れて名前が出てくるようなフランス人アーティストが目白押しでした。ところが70年代後半になると、彼らの多くは活躍を続けるものの、彼らに続く人が出てきません。以降の約50年間で、日本で有名になったフランス人ミュージシャンって、
▶ リチャード・クレイダーマン(Richard Clayderman)
▶ ダフト・パンク(Daft Punk)
▶ ヴァネッサ・パラディ(Vanessa Paradis)▶ ディープ・フォレスト(Deep Forest)
▶ デヴィッド・ゲッタ(David Guetta)
… くらいしかいないんじゃないでしょうか。音楽好きなら、タヒチ80(Tahiti 80)、レ・リタ・ミツコ(Les Rita Mitsouko)らの名前も
上がるかな。ともかく、寂しいかぎりの状況です。
そもそも昨今は、日本の音楽市場での洋楽のシェアが1割程度しかないので、その中でのフランスものとなると、さらに肩身が狭くなってしまうのも当たり前ですね。でももちろん、フランスのポップスが廃れたわけではないでしょう。フランス国内では常に、いろんなミュージシャンが活動していて、ヒット曲が巷を彩っているはずです。50年前に比べて、グローバリゼーションは格段に進んでいるのに、国際音楽流通はなぜこんなにも退化してしまったのでしょうか。
“サウンドの時代” にはそぐわなかったフレンチポップ
60年代までは “ヒット曲の時代” というか、曲とシンガーのよさでシングルを売るのが音楽ビジネスの中心だったのですが、70年代になるとサウンド表現の幅が広がり、ロックやソウルが曲よりもサウンド志向となり、必然的にアルバムがメインとなっていきました。シングル志向のフレンチポップはそういう “サウンドの時代” にはそぐわなかったということは、1つの要因と考えられるでしょう。だけどそれは、洋楽市場の縮小については何の説明にもなっていません。
資本主義の自由経済では、大衆が求めるものを企業などが提供して市場が形成されます。ただ音楽の場合は、大衆が何を求めているのかハッキリ分かりません。エンタテインメント商品や嗜好品はたいていそうですね。“水商売” と言われる所以です。だからレコード会社は、確信がないままに、世の中の動向を見ながら、いろんな想定の下に、音楽をつくり、売り出します。そして、売れると思って多額の宣伝費をかけたのに売れなかったり、販売戦略が当たったり当たらなかったり、スタッフの粘り強いプロモーションが実を結んだり結ばなかったり、時には期待していなかったものがなぜかヒットしたりと、様々な浮き沈みを繰り返しながら、営みを続けてきました。
つまりレコード会社は、ニーズに対応して生産・販売するという商売の原則に従いたくとも、思い通りにはなかなかならない反面、自らヒット作品を創出しうる余地もあったということで、であれば、音楽市場の動向には、大衆のニーズのみではなく、レコード会社の意思や努力も影響してきたはずです。
高久光雄という洋楽ディレクターがいた
今年5月28日に音楽プロデューサーの高久光雄さんが78歳で亡くなりました。矢沢永吉や南佳孝のA&Rとして知られ、後半生は主に経営者として活躍された方ですが、忘れてならないのは洋楽ディレクターとしての功績です。
大卒で日本コロムビアに入社、1910フルーツガムカンパニー「トレイン」、ルー・クリスティ「魔法」(She Sold Me Magic)などを1969年にヒットさせます。68年にCBS・ソニーができたため、既に日本コロムビアと米CBSのライセンス契約は終了しており、高久さんは海外の小さなレーベルから、日本のマーケットで売れそうなものを探しては発売していました。この2曲はいずれも、米国の “ブッダ・レコード” という、のちには大きくなりますが、当時はまだできたばかりの新興レーベル。「魔法」はさらに本国ではB面だったそうです。洋楽というと “ビルボード1位!” とか、海外での実績が唯一の売り文句、というイメージがありますが、この頃は、それよりも音楽そのものを重視していたんですね。
また、重要だったのが “邦題” です。原題のままでは日本人に分かりづらい場合、ということはつまり簡単な英語以外ってことですが、用意される日本国内盤用のタイトルです。たとえばシルヴィ・バルタンの大ヒット、「あなたのとりこ」の原題は「Irrésistiblement」。原題は “抵抗できないほど、どうしようもなく” というような意味で、発音は “イレジスティブルマン” と、カタカナにしても読みにくい。原題のままでは絶対売れなかったでしょう。
そして、タイトルは作品の “顔” でもありますから、よりキャッチーなものにしたい。「あなたのとりこ」もなかなか印象的ないいタイトルですが、この “邦題” を考えるのが洋楽ディレクターのだいじな仕事のひとつでした。先程の「魔法」は、原題の「She Sold Me Magic」の「Magic」を活かしつつ、当時家電でも 「銀河」(洗濯機)とか「嵯峨」(テレビ)など、漢字2文字の商品名が流行っていたことも踏まえて、高久さんが「魔法」と決めたそうです。
その後、彼はCBS・ソニーに誘われ、転社します。以前から好きだったミッシェル・ポルナレフを担当して、1971年9月にリリースしたのが「シェリーに口づけ」。この邦題も高久さん考案で、原題は「Tout tout pour ma chérie」。意味は「すべてを僕の愛しい人に」ですが、実はこの曲、既に69年9月に、CBS・ソニーから一度発売されていました。だけどその時は「可愛いシェリーのために」というタイトルで、全くヒットせず。その邦題がよくないんじゃないかと感じた高久さんは、締切ギリギリまで考えて、“トゥートゥー” というのがキスの音みたいだからと、「シェリーに口づけ」を思いつきました。
ジャケットも替えて、再発売すると、見事に大ヒット。このシングルだけではなく、次作の、やはり邦題を更新しての再発売だった「愛の願い」(Love Me Please Love Me / 1971年)、その後も「愛の休日」(Holidays / 1972年)「愛のコレクション」 (Qui A Tue Grand' Maman / 1972年)などを、次々にヒットさせて、たちまちポルナレフの存在を日本中に知らしめました。
1980年代、EPICソニーにいた私は、2年ほど高久さんの部下だったこともあり、お葬式に参列しました。滞りなく式が執り行われ、いよいよ棺の搬出となりました。最後のお見送り。その時、葬儀場内に突然、ポルナレフの「愛の願い」が鳴り響いたのです。久々に聴く華麗なピアノとハイトーンの歌声はシンシンと心に沁みて、高久さんの御霊を送るのに、真に相応しい曲だと思いました。