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【THE ALFEE】50年の歴史 vol.2〜「メリーアン」でブレイク!80-90年代おける数々の偉業

Re:minder

1983年06月21日 ALFEEのシングル「メリーアン」発売日

【THE ALFEE】50年の歴史 vol.2

新たなフェーズへと突入したTHE ALFEEの80年代


80年代に入ると、THE ALFEEの活動は一層活発になっていく。ことに80年代前半には大きなエポックがいくつも起こり、バンドは新たなフェーズへと突入していく。

ハードロック指向の高見沢俊彦は、THE ALFEE参加後、敢えてエレキを持つことはしなかった。だが、1980年5月21日発売のアルバム3作目『讃集詩』では、「落日の風」の間奏で、遂にエレキギターのソロを披露。これはアルバムのプロデューサーであり、半数以上の楽曲を彼らと共同アレンジしている井上鑑の提案によるもの。

ただ、『讃集詩』は前作よりもフォーク調の楽曲が多いのだが、オープニングの「明日なき暴走の果てに」でアカペラを聴かせ、さらには彼らが愛するクロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤングのスタイルを踏襲したオープンハーモニーが「帰郷」や「落日の風」で挿入されるなど、洋楽アーティストたちからの影響が出たアルバムといえよう。

80年代最初のリリース作品は、80年3月21日発売のシングル「無言劇」。東京12チャンネル(現:テレビ東京)系ドラマ『あいつと俺』の主題歌となったが、なんと低視聴率のため12回のところ4回で打ち切りの憂き目に遭う。この曲はいくつものアレンジが存在し、アルバム『讃集詩』収録の別バージョンのほか、83年のベスト盤ではアコースティック・バージョン、88年のベスト盤では無言劇 (new take)が収録されている。

また、この曲では全国縦断キャンペーンを実施、各地のレコード店の店頭で演奏するなど、地道なプロモーションを敢行した。6月21日発売の「美しいシーズン」に続く、11月5日発売の「恋人になりたい」では、再デビュー後初めてとなる坂崎幸之助のリード。加えて桜井賢とのスイッチボーカルである。

多くのリスナーにTHE ALFEEの魅力を認知させていった坂崎幸之助


音楽活動以外では、4月1日より、『坂崎幸之助のオールナイトニッポン』がスタート。翌年9月まで1年半の放送となったが、この直前、坂崎は初代林家三平に師事して話術を磨いたという。同番組のコーナーには坂崎がリスナーのハガキを読みながら、三平の真似で “どうもすいません” と謝るコーナーまで誕生した。同時期、同じニッポン放送では『坂崎幸之助のほとんど冗談!』のパーソナリティも兼任。こういった坂崎の活動は、多くのリスナーにTHE ALFEEの魅力を認知させていった。

翌81年、彼らはまた意外な活動に出る。謎の覆面グループ “BE∀T BOYS” として、「スターズ☆オン23 吉田拓郎」をリリース。アーティストの有名曲をメドレーで繋ぎ、ディスコサウンドに乗せて作品化するメドレーものの流行に乗ったもので、元は『吉田拓郎のオールナイトニッポン』の番組内企画からスタートした。歌唱はほぼ坂崎が担当、高見沢と桜井はコーラスで参加している。

正体を伏せていたものの、リスナーにはバレバレだったようだが、その後もBE∀T BOYSは桜井をリーダーにダンスグループとして活動。不定期ではあるが、THE ALFEEのライブへの登場やシングル曲のリリースも行われている。また彼らの本体よりも早いオリコン初チャートイン曲でもある(最高51位)。

81年には渋谷公会堂でツアーファイナル


またTHE ALFEEとしてのライブ活動も休むことなく続けられており、70年代に根城としていた荻窪ロフト、上馬ガソリンアレイといった会場から次第にホールクラスへと動員が増え、会場のキャパシティも大きくなり、81年12月27日には、渋谷公会堂でツアーファイナルを迎えるまでになった。翌82年の「Concert ’82」では久保講堂3Days、大阪厚生年金会館2Daysと、動員力はかなりのものになっていた。

レコードのリリースは、81年10月21日発売の「通り雨」で久しぶりに桜井がリードを務める。B面に収録された「言葉にしたくない天気」は、秋元康の作詞家デビュー作。同日に発売されたアルバム4作目『ALMIGHTY ALFEE』には、ライブハウス時代から演奏されてきたフォーク組曲「SAVED BY THE LOVE SONG」を収録。この曲はその後アレンジを変え、プログレ調の演奏で披露されている。

「別れの律動」で夜ヒット初出演


82年のシングルは坂崎ボーカルの「泣かないでMY LOVE」、桜井ボーカルの「SUNSET SUMMER」と続き、アルバムは82年4月21日の5作目『doubt』でロック色を強めていく。そして11月21日に発売の「別れの律動(リズム)」では、6作ぶりに高見沢がリードを務めた。この曲からグループ名はALFEEとなり、ロックバンドへと変貌したのである。

またこの曲で『夜のヒットスタジオ』に初出演、その効果もあってか初めてのオリコンTOP100へのチャートインを果たした(最高69位)。ALFEE名義になっての最初のアルバム『ALFEE』では、完全にロックバンドに変貌した。

ライブは82年9月7日の大阪フェスティバルホールより『OVER DRIVE』ツアーを敢行。実に83年12月28日の大阪厚生年金会館まで1年半に渡り103本のコンサートが行われている。同年夏には所沢航空記念公園で初の野外イベントとなる『ROCK’N ‘ROLL FIGHTING NIGHT』を開催。この際にはドラムとキーボードを加えたロックバンド編成でライブを行なっている。

武道館公演、そして「メリーアン」で大ブレイク


こうしたさまざまな努力と、地道なライブ活動による動員力の増強があり、83年8月24日には初の日本武道館公演を敢行。同年3月21日にリリースされた「暁のパラダイス・ロード」には、武道館公演のチケット申し込み用紙が封入されており、最高17位まで上昇するスマッシュヒットを記録。

そして6月21日リリースの「メリーアン」がチャートを上昇し、オリコンシングルチャートの最高7位、『ザ・ベストテン』では3位まで上り詰める大ヒットとなり、ついにTHE ALFEEは大ブレイクを果たした。

この際の武道館公演は “ヒット曲無しの武道館” などと呼ばれたが、実のところブレイクの兆しはあったわけで、「メリーアン」のヒットは、実にジャストなタイミングであったのだ。また武道館のステージではマーシャルのスピーカーを積み上げる "マーシャルウォール" をセットに用いて、ロック色を強く演出した。

「恋人達のペイヴメント」で初のチャート1位を獲得


ここからはまさしく上り調子。同年9月5日リリースのアルバム7作目『ALFEE’S LAW』では、片面をハードロック作品で固め、ことに冒頭の「ジェネレーション・ダイナマイト」は、キャリア初となるスピードメタルナンバーを発表。その後ヘビーメタル路線を開拓していくバンドの第1歩となる楽曲であった。

年末には『NHK紅白歌合戦』に初出場を果たし、その勢いのまま翌84年1月21日には「星空のディスタンス」が連続ヒット。さらに「STARSHIP -光を求めて-」を挟んで「恋人達のペイヴメント」で初のチャート1位を獲得。

続く85年2月21日発売の、カネボウ化粧品のCMソング「シンデレラは眠れない」も連続1位となる。さらに84年発表のアルバム8作目『THE RENAISSANCE』では、現在でもライブの定番となったスピードメタル作品「鋼鉄の巨人」や、1曲の中で次々とリードボーカルが変化する、8分越えのナンバー「GATE OF HEAVEN」など意欲作を収録。

85年発表のアルバム9作目『FOR YOUR LOVE』では、三たびスピードメタル作品「SWEET HARD DREAMER」に挑み、桜井の高音もキャリア屈指のものとなったほか、ハードロック調の「恋の炎」では坂崎と高見沢のスイッチボーカルも披露された。

プログレッシヴロックへ挑んだアルバム「夢幻の果てに」


ミックスとトラックダウンをイギリスで行った87年のアルバム12作目『U.K.Breakfast』では、打ち込みを多用した楽曲が増え、89年の『DNA Communication』では、9分弱に及ぶバンド史上最長となる4部構成の組曲「DNA Odyssey」を収録。90年の『ARCADIA』ではハードロックスタイルと民族音楽を融合させ、「Masquerade Love」ではタブラを、「Funky Dog!」ではシタールを演奏するなど、エスニック路線にも挑戦。

95年のアルバム『夢幻の果てに』では、ついにプログレッシヴロックへ挑み、変拍子の楽曲を多数収録するなど、曲の難易度を上げると共に、ロックバンドとしての可能性を追求し続けている。94年にはデビュー20周年を記念し、ポニーキャニオン内に独自レーベルZeitを立ち上げたほか、96年の『LOVE』では、ストリングスアレンジを多用したシンフォニックロックにまでその領域を広げている。

シングル56曲連続でオリコンチャートのTOP10入り


高見沢の楽曲提供も、84年には小泉今日子のシングル「The Stardust Memory」を作詞・作曲、小泉には翌85年にも「ハートブレイカー / 太陽の誘惑」、86年にも「木枯しに抱かれて」。他にも、87年には新田恵利、明石家さんま、とんねるず、真璃子、中村雅俊らにも楽曲提供、作家としても活躍している。

83年以降のTHE ALFEEは、ヒットの勢いを失わせることなく、"継続すること" を念頭に、より音楽ジャンルの幅を広げていくことに成功している。「メリーアン」以降、2023年現在まで、シングル曲は56曲連続でオリコンチャートのTOP10入りを果たしており、さらに87年の「夢よ急げ」以来、毎年1月下旬に開催される『大阪国際女子マラソン』のイメージソングを2018年まで継続して担当。ライブ活動も84年以降は毎年、春と秋の2回ツアーを行い、この形式は2020年のコロナ禍によるツアーの中止に至るまで、実に36年に渡り継続された。

野外イベントのパイオニアとして大きな足跡を残す


夏のイベントに関しては、84年8月3日には横浜スタジアムで初の球場ライブを敢行。この際、高見沢がステージ上で転倒し、ギターで強く胸を打ち、肋骨にヒビが入る怪我をするアクシデントも起きた。翌年の同所での3Days公演では、3日目にメンバー自らが "前座" として登場し、アコースティックアレンジで20曲以上も演奏するなど、ファンを驚かせる。そして86年8月3日の東京湾13号埋立地でのステージでは、日本初の単独10万人コンサート(主催者発表)を開催。

87年には静岡の『日本平ホテル MUSICLAND-IN 静岡』でオールナイトコンサートを敢行。加えて89年の『朝霞米軍キャンプ跡地』、90年の『みなとみらい21臨港パーク』、91年のコスモ石油跡地である『Cosmo Oil Yokohama Bay』、92年の横須賀『海辺ニュータウン』など、彼らの夏の野外公演は、それまでライブ会場としては手付かずの場所で開催することも多く、野外イベントのパイオニアとしての活躍も、日本のライブ史に大きな足跡を残した。

こうして、「メリーアン」のブレイク以来、一度もその勢いを落とすことなく、日本の音楽シーンのトップランナーとして走り続けているTHE ALFEE。レコーディングとライブの両立を継続して長い年月続けていくだけでも驚異的だが、その間、幅広くなっていく音楽性を受容し、常にライブで熱い声援を送るファンの存在もまた大きい。ファンと共に歩んできたバンドであることは、80−90年代に彼らが打ち立てた数々の偉業と共に、しっかりと証明されているのだ。

THE ALFEE 50 SONGS 1974-1996

THE ALFEE デビュー50周年を記念し、1974年〜1996年リリースのシングル曲を中心に、リーダー高見沢俊彦がセレクトしたベスト盤。

・発売:2024年8月16日(金)
・仕様:CD4枚組+60ページ・ブックレット封入+3方背BOX
・価格:5500円(税込)

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