ナポレオンやヒトラーを破滅に追いやった『冬将軍』の恐ろしさとは
歴史に名を刻んだ名将といえば、マケドニア王国のアレクサンドロス大王や、カルタゴのハンニバル、モンゴル帝国のチンギス・ハーン、フランス第一帝政のナポレオン・ボナパルトなど、数えきれないほど存在する。
しかし、これらの名将に匹敵する存在が、ロシアの自然の中にいた。
その名も「冬将軍」である。
当時、破竹の勢いで周辺国を制圧していたナポレオンや、ヒトラー率いるナチスドイツをも敗北させた冬将軍とは、一体何なのだろうか。
今回は、ロシアが誇るこの「冬将軍」の恐ろしさに迫り、その歴史的影響を紐解いていく。
冬将軍の正体
「冬将軍」とは、厳しい冬の寒さを指す言葉である。
特に日本では、シベリアから周期的に流れ込む上空の寒気、「シベリア寒気団」を指して使われる。冬季には天気予報などでこの言葉を耳にすることもあるだろう。
単に「寒さ」と聞くと大したことがないように思えるかもしれないが、ロシアの冬は過酷そのものである。
首都モスクワの冬の平均気温はおおよそ-10℃前後、シベリアでは-15℃から-35℃にまで冷え込み、さらに極寒の地であるヤクーツクやオイミャコンでは、最低気温が-60℃以下に達することもある。
あまりの寒さに、吐く息が小さな氷の粒となり、地面に落ちて音を立てるほどだ。
外で少しでも手袋を脱げば、すぐに凍傷の症状が出始め、ひどい場合は指を切断しなければならない。
真冬に外を出歩く場合は、5分おきに屋内に入って暖をとる必要があり、徒歩20分の距離を歩くのに約1時間かかるという。
寒い外から帰ってきても、温かい飲み物をすぐに飲んではならない。
急激な温度の変化によって、歯にひびが入る危険があるからだ。
極寒の地ロシアでは、日常生活を送るのにも知恵と工夫が必要不可欠ということだ。
そして、ロシアの寒さは住民をただ凍えさせるだけではなく、時にはロシアの強い味方となったのである。
ナポレオン VS 冬将軍
1812年6月、ナポレオン率いるフランス帝国の大陸軍がロシアへの侵攻を開始した。
その理由は、ロシアがナポレオンの発した大陸封鎖令を破り、イギリスとの貿易を継続していたことにあった。
ナポレオン軍はモスクワを目指して進軍したものの、ロシア軍は正面衝突を避け、ひたすら後退を続ける戦略を取った。
同時に、敵に物資を渡さないため、退却時には自らの都市を焼き払う「焦土作戦」を実行していた。
同年9月、ついにナポレオン軍はモスクワへ到達し入城する。しかし、そこには焼け野原が広がっていた。ロシア軍の放火によって市街の大半が焼失し、物資の確保を目論んでいたナポレオンの計画は頓挫した。
補給線が大きく伸びきっていたナポレオン軍は、物資不足の中で退却を余儀なくされる。
そして、10月に退却を開始したが、11月になると「冬将軍」が到来した。
当初約60万人いたナポレオン軍は、戦闘や飢餓、疲労、凍傷、脱走などで激減し、フランスに帰国できた兵士はわずか5千人ほどだったという。
この年、例年より早く訪れたシベリア寒気団は、運よくロシアを勝利に導いた。
これをイギリスの新聞が「ナポレオンがGeneral Frost(厳寒将軍)に敗北した」と報じたことから、シベリア寒気団を「冬将軍」と呼ぶようになったのである。
ナチス VS 冬将軍
1941年6月、ヒトラー率いるナチスドイツが「バルバロッサ作戦」の名のもとに、ソ連への侵攻を開始した。
ドイツ軍は瞬く間に各都市を占領し、順調に見える進撃を続けていた。
しかし、ソ連の首都モスクワを陥落させるには至らず、戦闘は長期化の様相を呈した。
その間に「冬将軍」が訪れた。
ドイツ兵は凍傷や低体温症で次々に倒れていった。十分な防寒装備が整っていなかったため、多くの部隊が著しい戦力低下を余儀なくされた。
ドイツ軍は方針を転換し、大規模な軍事工場が集積するスターリングラード(現ヴォルゴグラード)と、重要な石油資源が存在するコーカサス地方を新たな攻撃目標と定めた。
1942年6月、ドイツ軍は再び進軍を開始し、コーカサス地方の一部を占領することに成功する。しかし、スターリングラードではソ連軍の激しい抵抗に遭い、一時的に占領に成功したものの、戦力を消耗し尽くしてしまう。
同年11月、ソ連軍は反撃を開始。包囲戦を展開し、スターリングラードに駐留するドイツ軍を追い詰めた。
さらに、再び到来した「冬将軍」がソ連に味方し、ドイツ軍は寒さと補給不足に苦しめられた。
最終的に、1943年2月、スターリングラードのドイツ軍は降伏を余儀なくされた。
この戦いは、第二次世界大戦の東部戦線における大きな転換点となり、ドイツの敗北へとつながる契機となった。
寒冷地での戦闘において気候が及ぼす影響
ロシアを舞台にした戦争において、極寒の環境にどう対処するかは勝敗を左右する重要な要素である。
ナポレオンもナチスも、いずれも「冬将軍」に直面し、大きな打撃を受けた。
では、なぜ彼らはこの寒さを克服できなかったのだろうか。大きな敗因は、極寒に耐える装備を持っていなかったことだろう。
たとえば、1942年1月の平均気温は-35℃だったという。
これほどの気温であれば、たとえ30分の外出であっても手足に凍傷を負う恐れがある。
興味深いのは、1月や2月よりも、日中と夜間の寒暖差が激しい3月が特に危険であるということだ。
日中に戦闘や陣地構築の作業などで汗をかき、靴や衣服が湿ると、夜の冷え込みでそれらが凍結し、つま先や脚部が低温になってしまう。
あるドイツ軍の中隊は、この昼夜の寒暖差が原因で、93名中65名が凍死したという。
戦闘時においても、極寒は兵士と武器の能率を低下させる。
凍えた手で銃を照準することすら困難となり、武器が凍結して使用不能になることも珍しくない。さらに、地雷でさえも正常に作動しなくなる場合があった。
また、積雪によって行軍も著しく遅延する。この遅延により兵士の疲労が蓄積し、士気の低下を招いた。
このような負の連鎖が戦況をさらに悪化させるのだ。
自然の驚異「冬将軍」は、どんな名将をも超えた存在として立ちはだかり、歴史の行方を大きく変えてきたのである。
参考 : 『一冊でわかるロシア史』著/関眞興 他
文 / 小森涼子 校正 / 草の実堂編集部