細野晴臣が日本の音楽シーンに与えた影響 ② “はっぴいえんど” に至るまでの音楽活動は?
細野晴臣が日本の音楽シーンに与えた影響 ②
細野晴臣が歩んできたデビューまでに道筋
はっぴいえんど、ティン・パン・アレー、イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)と、1970〜1980年代の国内音楽シーンの重要バンドを結成し、率いてきた細野晴臣。今回は、その音楽的才能とセンスを開花させるまでの道筋をたどってみたい。
1947年7月9日に東京都港区で生まれた細野晴臣。港区立白金小学校の2年生の時にピアノを習い始め、5年生まで続けた。港区立青山中学校に進級後、中学1年生の冬に6,000円のクラシックギターを買ってもらい、ハンク・ウィリアムズの「カウ・ライジャ」をコピーする。中学2年生になると、同級生2人と “ブレッツメン” と名付けたバンドを結成。ザ・ベンチャーズをコピーするということになり、さすがにクラシックギターでは都合が悪いため、アルバイトをしてエレクトリックギターを購入した。
中学校を卒業後、立教高等学校に入学した細野は、小学校時代の同級生たちと “オックス・ドライバーズ” を結成。キングストン・トリオやピーター・ポール&マリーなどをコピーした。高校2年生になると、オックス・ドライバーズと並行して、フォークグループの “パンプキンズ・フォー” を結成。その後も、複数のアマチュアバンドを掛け持ち、活動していた。
立教大学に進学後に、オックス・ドライバーズのメンバーを中心に、“サブタレニアン・ホームシッカーズ” を結成するもすぐに解散。高校時代の仲間が結成したフォークグループの “トリップ” にも参加した。また、柳田ヒロの兄である柳田優(g)など、大学の同級生たちのバンド “ドクターズ” にベースで参加。当時はベースを所有していなかったためメンバーから借りて、翌年にバンドが解散するまでプレイした。また、この時期には “フォーセインツ” のベースのトラとしてステージに立ったこともあった。
大学2年生の頃になると、同じ社会学部に所属する中田(なかだ)佳彦(g、vo)と知り合い、フォークデュオを結成。まもなく、中田もトリップに参加した。この頃、友人である阿蘇喬(g)の自作曲「夏の日の海が」と「あほむすこ」にボーカル、ギター、ベースで参加。実質的に編曲も細野が行い、初めてのレコーディングとなった。この音源は自主制作盤として、他2曲を加えてリリースされている。
レコードを研究分析するお茶飲み会で知り合った大滝詠一
また、中田の紹介で知り合った大滝詠一(大瀧榮一)と、レコードを研究分析するお茶飲み会も始めた。お茶飲み会の最後には、それぞれが自作の曲を披露して評価をしあう自発的な勉強会だった。中でも一番深い音楽の素養を備えていたのが中田だった。中田の父は「とんぼの思い出」などを作曲した作曲家の中田一次。叔父は「雪の降るまちを」「夏の思い出」「めだかの学校」「ちいさい秋みつけた」などを作曲した作曲家の中田喜直。祖父は「早春賦」などを作曲した作曲家の中田章と、生粋の音楽一家だった。細野と大滝は、お茶飲み会を通じて中田から大きな刺激と影響を受けたという。
そんなお茶飲み会に打ち込んでいた時期の1968年に、松本隆(ds)が参加していた “バーンズ” への参加を請われる。いくつか参加していたバンドに加え、バーンズにも参加することになり、主にリズム&ブルースのカバーを演奏。青山や赤坂のディスコのハコバンとして活動した。その頃には、「めざめ」「暗い日曜日」など5曲のオリジナル曲を松本と制作した。その傍ら、中田と大滝とのトリオで、“ランプポスト” の名称で、西新宿のフォーク喫茶・フォークビレッジのオーディションも受けていた。
松本隆とフローラルへ参加。その後エイプリル・フールと改称しデビュー
1969年には、柳田優の弟の柳田ヒロ(org)が参加していた “フローラル” への参加を請われる。フローラルはすでにシングル「涙は花びら」と「さまよう船」をリリースしていたGSバンドだったが、事務所の方針からベースとドラムスを入れ替えることが決定していた。そのため、松本も誘って参加。本格的にプロとして活動するため細野は、並行して活動していたランプポスト、バーンズ、ドライアイス・センセーションなどを全部辞めた。ただし、中田と大滝とのお茶会はしばらく続いたという。
フローラルは、細野の命名で新たに “エイプリル・フール” と改称して活動することに。すでにレコーディングが決まっており、デビュー作はフルアルバムで、ボブ・ディランのカバー1曲を除き、全てオリジナルということになった。また、バーンズ時代の「暗い日曜日」など2曲を除いて、すべて英語の歌詞だった。
レコーディング終了後、新宿パニック、六本木スピード、渋谷ハッピー・バレーなどのいくつかの場所でライブを行い、テレビの情報番組『ヤング720』などにも出演。この頃に、モビー・グレープのボブ・モズリーの影響から、ピック弾きから2フィンガーの指弾きに変化した。なお、ライブではオリジナルは演奏せずに、ドアーズやヴァニラ・ファッジなどをプレイしていた。ところが、アルバム発売前に音楽的亀裂が決定的となり、アルバム『APRYL FOOL』が日本コロムビアより発売するころには解散が決定していた。
ひらめきに近い形で大滝詠一をボーカルとしての新バンドを構想
細野は、エイプリル・フールのボーカル小坂忠と松本と新バンドの構想を話し合うことになるも、小坂がミュージカル『ヘアー』のオーディションに合格してしまい、新バンドの構想も白紙になってしまう。そんな時、大滝から電話があり、ひらめきに近い形で大滝をボーカルとしての新バンドの構想が浮かぶ。
“ヴァレンタイン・ブルー” と命名された新バンド用にオリジナル曲の制作を始め、演奏面の強化から鈴木茂(g)が加入。当時はエイプリル・フールの仕事がまだ残っており、劇団・キッド兄弟商会(東京キッドブラザース)の劇伴アルバム『ラブ&バナナ』の録音に参加したり、ライヴやテレビ出演などをこなしながら、ヴァレンタイン・ブルーの構想を詰めていった。そして、1969年10月にはオリジナル曲「雨あがり」が完成。のちに “はっぴいえんど” の「12月の雨の日」となる楽曲の原曲だった。
参考文献:
前田祥丈:編『音楽王細野晴臣物語』(シンコーミュージック / 1984年)
細野晴臣『レコード・プロデューサーはスーパーマンをめざす』(徳間書店 /.1984年)
大川俊昭、高護共:編『定本はっぴいえんど』(SFC音楽出版 / 1986年)
レコード・コレクターズ増刊『はっぴいな日々 -はっぴいえんどの風が吹いた時代-』(ミュージック・マガジン / 2000年)
門間雄介『細野晴臣と彼らの時代』(文藝春秋/ 2020年)