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【静岡ダービーを振り返るvol.1】熱き闘い続ける清水エスパルスとジュビロ磐田の「静岡ダービー」盛り上がる最大要因はJリーグ参入を巡る因縁だ

アットエス

Jリーグで初となった静岡ダービー=1994年4月


【スポーツライター・望月文夫】
2023年以来2年ぶりとなる清水対磐田の県内で最も熱い「静岡ダービー」が、ルヴァン杯2回戦で実現する。今季はカテゴリーが違う両チームだがともにリーグ戦は序盤から調子を維持し、今後の上位争いに弾みをつけるためにも絶対に負けられない。

これまで多くのドラマを演じてきたダービーだが、選手もサポーターもそこまで熱くなるのには理由があった。

日本サッカー界が活性化を目的に、国内初のプロリーグとして1993年に10クラブ(オリジナル10)でスタートさせた「Jリーグ」。その3年前、参入候補として静岡県から5団体が手を挙げた。その後参入条件などから絞られたのが、当時日本サッカーリーグ(JSL)1部のヤマハ発動機(現ジュビロ磐田)と県リーグの清水FC(のちの清水エスパルス)だった。

地元では両クラブの参入を望む声が強かったが、地域性や人口バランスなどから枠は一つと決定。他地域では国内最高峰のJSL所属クラブが参入を内定させ、静岡からもヤマハ発動機が有力視されていた。しかし一つに絞り切れず、合同チームという案も出されたが、クラブの成り立ちの違いや地域性を知る者からすれば、それは無理難題だった。

結局、サッカー文化の定着や地元との深いつながり、そして市民クラブという新リーグの理念と合致する清水FCが形勢を逆転。迎えた1991年2月14日、Jリーグに参戦する10クラブが発表され、「清水FC(清水エスパルス)」が名を連ねた。

初代Jリーグ参入クラブとなった清水FCには、JSL所属クラブからも清水・静岡両市(当時は清水市)の高校出身選手が続々と移籍加入した。ヤマハ発動機(ジュビロ磐田)からも、大榎克己(清水東)、青嶋文明(清水商業)、杉本雅央、アデミール・サントス(東海大一)が加わった。

盛り上がる清水FCに対し、悔しい思いだったのが磐田の選手たちだった。先輩選手から後輩選手たちへ、「悔しい気持ちを忘れるな。清水だけには絶対に負けるな」と代々受け継がれてきた。そんな選手たちの思いを汲み取ったサポーターも、静岡ダービーには特別な思いで臨む。さらに言えば、トップチーム同士の熱い闘いはアカデミーの選手たちも引き継いできた。

1993年10月16日のナビスコ杯でゴールを決めて喜ぶ清水のFW杉本


迎えた両クラブの「静岡ダービー」初戦となった1993年10月16日のナビスコ杯(現ルヴァン杯)では、磐田から移籍加入したFW杉本が先制点を決め、2−0で清水が快勝。まさに因縁の激闘が幕を開けた。

そんな状況を、ヤマハ発動機サッカー部の初代監督で1995年からはクラブ社長を務めた荒田忠則氏は「同じ地域にライバルは必要。切磋琢磨してともに王国に相応しいクラブになれれば」とプラスに変えていった。

磐田は1994年にJリーグ入りし、同じ土俵でのライバル対決が始まった。両クラブから2年後のアトランタ五輪日本代表に6人、2002年日韓W杯日本代表に7人を輩出。1999年には2つのステージで優勝を分け合い、日本一を決めるチャンピオンシップも戦った。そして2001年、両クラブの戦いは5万人以上を集客した大一番を迎える。

>>>一足先に世界が味わえた、静岡の盟主をかけた清水と磐田の5万人超えの頂上決戦【vol.2】

>>>「ミラノダービー」を戦ったスキラッチとマッサーロ、静岡で本領発揮したのは?【vol.3】
【スポーツライター・望月文夫】
1958年静岡市生まれ。出版社時代に編集記者としてサッカー誌『ストライカー』を創刊。その後フリーとなり、サッカー誌『サッカーグランプリ』、スポーツ誌『ナンバー』、スポーツ新聞などにも長く執筆。テレビ局のスポーツイベント、IT企業のスポーツサイトにも参加し、サッカー、陸上を中心に取材歴は43年目に突入。

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