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<お母さんの娘、やめます!>女手ひとつ、必死に育ててきた私。楽しみは「娘の帰省」【まんが】

ママスタセレクト

写真:ママスタセレクト

私(ヨウコ)には娘が2人います。長女のミユキ(28歳)と次女のアヤ(21歳)です。夫が10年前に他界し、女手ひとつで子どもを育てることは容易ではありませんでした。特にミユキのことは何かと頼りにしてしまい、負担をかけていたことでしょう。一方でアヤは昔から聞き分けがよくて手のかからない子でした。そんな娘たちも今ではそれぞれ自立をして暮らしています。お盆や年末年始に皆で集まることを、私は何よりも楽しみにしていたのでした。

夫が亡くなったときはしばらくふさぎ込んでいた私ですが、娘たちがいてくれたからこそ、ここまでやってこれたのです。長女のミユキと次女のアヤは7歳離れています。ミユキの方がだいぶ年上のため、いろいろと頼ってきてしまったことを申し訳なく思っていました。だから私はできる限りミユキに寄り添ってきたつもりです。

私は妊娠中のミユキと一緒に近場に旅行したことを思い出し……。ふと旅行写真にアヤが写っていないことに気づきます。当時はたしか高校生でしたし、きっと自分の予定で忙しかったのでしょう。

アヤは就職のタイミングで家を出て、今はひとり暮らしをしています。昔から本当に手のかからない、優しい子でした。小学生の頃から私のことを「お母さん、大丈夫?」と気遣ってくれたアヤ。「私は大丈夫だから」とほほえむ、高校生の頃の顔も思い出します。しかし私が年末年始の予定を聞こうと電話をすると、思いがけない言葉がかえってきました。

「分かった? 返事は?」私が問いかけてもアヤは小声でボソボソとなにか言うだけ。全く聞き取ることができません。

ひとりで子どもを育てるのはとても大変でした。決していい母親ではなかったかもしれませんが、それでも私なりに必死で娘たちと向き合ってきました。ミユキが母親になった姿も、アヤが立派に社会人として成長した姿も、本当に幸せな気持ちで見守っているのです。毎日一緒にいたのに、別々に暮らすようになりたまにしか会えなくなった家族。久しぶりに顔を合わせて笑い合える日を心から楽しみにしたのに……。アヤからはアッサリ「帰れない」と返事をされ、しかも「娘をやめる」だなんて……。これは遅い反抗期でしょうか……? 私は頭を悩ませてしまうのでした。

娘は聞きわけのいい優しい子。悪い友人に影響された!?

20歳のお祝いに、義実家から晴れ着を買ってもらう予定のアヤでしたが……。

義実家と距離を置いている私を気遣って「私は大丈夫だから」と言ってくれたアヤ。とても優しい子なのです。私は「お祝いはアヤの好きなもの食べに行こう!」と言って、アヤの好きなお寿司屋さんに連れていってあげたのでした。お祝いのたび少し奮発してそのお寿司屋さんに行くと、アヤも笑顔で喜んでくれました。

アヤの部屋で見つけたノートを開いて驚きました。それは友達との交換日記。しかも好きな人について相談するような内容が書いてありました。私がこんなに必死になって働いているのに、男の子にうつつを抜かしているなんて……。アヤは昔から人がいいところがあって、友達の影響を受けやすいのです。これは悪い友達と仲良くしているせいでしょう。口ごたえしようとするアヤを、私はピシャリと叱りつけました。

私がいったい何をしたというのでしょうか。必死に子どもを育ててきただけなのに……。そりゃあ100点満点の母親ではなかったと思います。私だって人間です。失敗もします。けれど愛情だけは確かに注いできたつもりでした。それなのになぜ娘から切り捨てられるようなことを言われなければならないのか、まったく理解できませんでした。きっと悪い友達に騙されて、間違った価値観を植えつけられてしまったに違いない。そう思うと居ても立ってもいられなくて、何度も何度も、何十回とアヤに電話をかけ続けました。しかしアヤが電話に出ることはなかったのです。

【アヤの気持ち】母のキゲンが最優先!顔色を伺ってきた私

私は就職してひとり暮らしをしているアヤ(21歳)です。10年前に父を病気で亡くし、それからはしばらく母と7歳年上の姉ミユキと3人で暮らしていました。しかし母は感情の起伏が激しく、怒ると手がつけられなくなります。そんな母の姿を見て、私のすべての判断基準は「お母さんが笑顔でいてくれるかどうか」になりました。母さえ笑っていてくれれば家庭は平和だし自分にも害は及びません。母の顔色をうかがって生きてきたと言っても過言ではない、そんな人生でした。

あれは私が小学生で、まだ父が生きていた頃……。父方の祖母が「食べきれないほどの魚をもらったから」と、母にたくさんの生魚を持ってきたそうです。晩ご飯の食卓を囲みながら不平不満をつぶやき、どんどん機嫌が悪くなる母。「そこまで怒るなよ」という父の言葉に「あなたはいつもそうやって他人事で……!」とイラ立ちをあらわにします。

「私、後片付けやっておくから、早めに休んだら?」「お魚さばくの疲れたでしょ?」「とっても美味しいよ。ありがとう」私は母の求める言葉を必死で探しあて、母の機嫌がよくなってくれるとようやく安堵していたのです。

学校行事も母はほとんど来てくれませんでした。「お母さん大変だと思うし、私、別に誰にも来てもらわなくても大丈夫!」母の機嫌を損ねると、話がどんどん大きくなって面倒くさい時間が増えてしまうので、私は極力そうならないように気を張っていました。「あ! ウチのママ来た!」参観の日、教室で友達は嬉しそうに私に言います。隣の家の友達のママは来てくれるのに……。「良かったね」気丈にふるまいながら、下を向いて寂しさを我慢するのが精一杯でした。

それでも私は母のことが大好きでした。毎日食事を作ってくれるし、習い事も行かせてくれます。ただときどき機嫌が悪くなると手が付けられないくらい怒り出すだけ。それさえ回避すれば平和な生活を送ることができるのです。母の怒りを買わないように、母の喜ぶ言葉を探しながら、私はいつも「大丈夫」と言って母を安心させていました。「寂しい」「行事に来てほしい」なんて言ったら母は機嫌が悪くなるでしょう。それを考えると、母の意向に反するようなことは口が裂けても言えませんでした。

私はいつも放置。母が大事なのは姉だけ!

次第に私は「お母さんよりも幸せになることは許されない」と思うようになりました。一方、姉はとても要領がよく優秀でした。7歳の差があり私が中学生になる頃にはもう大学生で、家にいない時間が多くなっていました。母の怒りの矛先が向けられることが多い私のことを、姉は気にかけてくれていました。

結婚をして家を出た姉は間もなく妊娠し、私が高校3年生のときに出産することになりました。すると母は「子どもが生まれたら行きにくくなるから」と、姉と一緒に近場に旅行する計画を立てたのです。

姉に「アヤは一緒に行けないの?」と聞かれ、「受験を控えているし、予備校も模試もあるから……」と答えた私。「そうだよね。旅行は中止にして、アヤの受験が終わってからみんなで一緒に……」姉がそう言いかけると、母はとたんに不機嫌になりました。

だから私は慌てて母の望む言葉を並べたのです。「もう18歳だし、ひとりで留守番くらいできるよ。勉強にも集中したいし、ね? 私は大丈夫だから!」

「お母さん来週からいないから、家の戸締まりしっかりね」母は姉夫婦の家にしばらく滞在すると私に告げたのです。「冷凍庫に食材いろいろ入れておくから、適当にしてね」

もう高校生だったし、母がいなくてもひとりである程度の留守番はできるようになっていました。女手ひとつで育ててくれる母に感謝もしていました。だから「お母さんがいなくても、私は大丈夫」と平気な顔をしてみせたのです。けれど本当は入試の朝に「頑張って」って言ってほしかったし、高校の卒業式にも来てほしかった……。そんな自分の希望をすべて母に伝えずに飲み込んできた私。これからも母が欲しがる言葉を私が言い続けることで、私と母の関係は成り立っていくのかもしれないと思っていました。

母が欲しい言葉は?ジブンを押し殺す生活

7歳年上の姉のときは、成人式に着物を買ってあげたという父方の祖父母。私の「20歳のつどい」式典のときも同じように「晴れ着を買ってあげるからそれで出なさい」と言ってくれたのです。しかしそのことを家に帰って話すと、母はとたんに不機嫌に……。

こんなときの母は、望むとおりの言葉を私が言うのを待っているのです。私の答えはひとつしかありませんでした。「私……着物はいらない……。大丈夫。私、スーツで行くから」

常に母の顔色をうかがい、機嫌を損ねないように自分の気持ちを押し殺す生活。こんな暮らしをいつまで続けないといけないんだろう……。そう思うようになった私は、短大を卒業すると遠く離れた場所で就職をして家を出ました。はじめてのひとり暮らしは想像以上に快適でした。

仕事は忙しかったけれど、新しい人間関係もたくさんできて毎日が本当に充実していました。そして友人のメグと食事に行ったとき、こう指摘されてあらためて母の影響に気づくのです。「またそれだ。アヤっていっつも人に合わせてばっかり。私はアヤの意見を聞きたいの!」

母はきっと、私のことを何でも受け入れてくれる娘だと思っているでしょう。いつも私が「大丈夫」と言い出すのを待っているようでした。だから遠くで就職して、生まれて初めて経験する「母のいない生活」は本当に楽しいものでした。ただずっと母の顔色を気にして生きてきた私は、いつもつい遠慮してしまうようです。温かい友達に囲まれ少しずつ「自分」というものを出せるようになってきた私は、今まで誰にも言えなかったことを口にしてみました。「私はお寿司が嫌い、生魚が苦手」母には伝えられなかったこの言葉、いつか本人を前にして言える日がくるのでしょうか……。今はまだ分かりません。

私らしくいたい!「母の望む自分」と決別

「親とは喧嘩したことがない」私が言うとメグは驚きました。「あー……。自分が我慢すればいい、的な感じか。アヤらしいね」「でも、お母さんと離れて生活してみてさ。この生活が当たり前になると、ときどき来るお母さんからの着信や通知にビクッてなるの……」

「お母さんとの関係を辛いって思っているならさ。まずはアヤがしっかりと自分らしさを取り戻さないと。本当の自分としてお母さんに向き合えるようになれるまで、距離をとったら? 親子であっても、別々の人間だもん」

そうして私は「自分らしさ」を取り戻すために、たくさんの人と会い、いろいろな価値観に触れながら日々を過ごしていました。そんなとき、母から電話がかかってきたのです。年末年始の帰省の予定を聞かれ、私はこう答えました。

本当は参観日だって来てほしかった。入試の当日に「行ってらっしゃい! 頑張ってね」って言ってほしかった。祖父母に振袖だって買ってもらいたかったし、お祝いは洋食を食べたかった。もっと……もっと話を聞いてもらいたかったし、甘えたかった……。そんなふうに思えば思うほど、涙が溢れてきました。

「返事しないなら、二度と家に入れないわよ」それを聞いた瞬間、ストンと腑に落ちたのです。自分の言うことを聞かない私のことは「いらない」と思っているんだ……。

実家から離れてたくさんの人たちと出会い、いろいろな価値観に触れるなかで、自分の育ってきた環境がいかに狭い世界だったかということを知りました。母の人生と私の人生を切り離し、「母の望む自分」ではなく私らしさを探して生きていこうと思えるようになったのです。電話の向こうの母は相変わらず私を自分の所有物のように扱い、私が絶対に自分の言うことを聞くと思っているような口調でした。しかし私はいつまでも小さい子どもではありません。自分の足で立ち、自分で歩く方向を決めることができる大人なのです。母の顔色を気にせず、「お母さんの娘をやめる」と言えた自分を褒めてあげようと思います。

【私の気持ち】娘からゼツエン宣言に「上等よッ」だって私は悪くない!

ある日アヤに年末年始の予定を聞くと「帰省しない」と言い出しました。そして私が叱ると「娘をやめる」とまで……! きっと実家を出て、周りの人たちから悪い影響を受けたのでしょう。私はアヤを一刻も早く連れ戻そうと思ったのでした。

仕事を休めるタイミングを見計らい、大きなボストンバッグに数泊分の荷物を詰めて、家を出ようとしました。しかし玄関で靴を履こうとすると、ふと疑問が浮かびます。

私は別に悪くありません。あの子がただ親不孝なだけです。それなのに、こんな仕打ち……。むしろ「娘をやめる」なんて言われないといけない自分が可哀相なくらいです。そう思うと、だんだんアヤのことが憎らしくなってきました。

何となく気持ちがスッキリしてきます。こっちこそあんたの母親、やめてやるわよ……。履きかけた靴をもう一度脱ぎ、家に上がろうとすると「ピーンポーン」とインターホンが鳴ります。ほら、さっそくアヤの方から頭を下げて謝りにきた……。私は訪問者を確認せずに玄関ドアを開けてしまいました。

そこにはお隣の家のユリさんがいました。私が結婚してここへ越してきた当時からの付き合いの友人です。ユリさんの娘さんとアヤが同級生という縁もあります。私はユリさんに家へ上がってもらい、アヤとの一連のやりとりを話しました。

「でも、もう吹っ切れているからいいんだけどね。だって向こうから絶縁宣言してきたんだもん。上等よ。こっちも二度と連絡するものですか」「そ……そんなに簡単に割り切れるものなの……?」「いいのいいの! 私にはミユキもいるし、孫たちもいるんだから」

アヤから「娘をやめる」と言われたときはショックでした。アヤの周囲に何か悪影響を及ぼす存在がいるのかもしれないと心配にもなりました。けれどアヤの元にいざ向かおうとしたとき、ふと「なぜ私がこんなことを……?」と冷静になったのです。勝手に絶縁を言い渡してきたのはアヤの方です。いずれ私にそんな口をきいたことを深く後悔する日がくればいい……。別にアヤがいなくても、ミユキや孫たちがいてくれれば私は幸せです。けれどそんな私の考え方やふるまいが、今回の出来事の原因だとお隣のユリさんは言ったのです。私はその意味をすぐに理解することができませんでした。

はじめて聞く娘の本音に戸惑い「大丈夫」本当の意味は?

「これが昔から反抗的な態度をとる子だったら、『もういい加減にして!』ってなるのも分かるんだけれど……」ユリさんはアヤが小学生だった頃の出来事を話しはじめました。

授業参観のあとアヤと一緒に帰ってきたというユリさん。元気のない様子が気になり、そのときのアヤの言葉をよく覚えているといいます。「きっと……仕事がなくても来ないと思うけど……」「お母さんは忙しいし」「私よりお姉ちゃんの方が大切だから……」

「そりゃ我慢させることもあったかもしれないけれど、アヤもいつも『大丈夫』って言っていたし……」「アヤちゃんの『大丈夫』は……、きっとヨウコさんに向けたものじゃなかったのよ。『大丈夫』って、自分自身に言い聞かせてきた言葉だったんじゃないかしら」さらにユリさんは、最近娘さんから聞いたというアヤの様子を教えてくれました。「ウチの娘がね。この前の連休にアヤちゃんのところに遊びに行ったらしいのよ」

お隣のユリさんからは、私の方がアヤに見切りをつけられたのだと言われました。なんで私がアヤなんかに……。いつだってアヤは自分から「大丈夫」と言っていました。私が「大丈夫」という言葉を強要したことなんて一度もありません。けれど私は何か大きな勘違いをしていたのでしょうか……? 「お母さんを意識しなくてもいいって、こんなに世界が明るいんだ」「生まれてはじめて自分らしくいられる」その言葉を聞かされて私は呆然としてしまいます。自分の娘の話なのに、まるで知らない子の話でもされているかのような気持ちになったのでした。

私との別離を選んだ娘。最大の親孝行が「絶縁」だなんて

「確かに子どもを育てるって大変だわ。心の奥底まで気が付いてあげることはできないと思う。でも、たとえやってあげられないことが多くても、その気持ちを受け止めることはできたんじゃないかしら……」

「本当は和食店に行こうと思ったみたいなんだけど、アヤちゃんお魚が……特に生魚が苦手なんだって? 洋食が好きだからって、美味しいレストランに詳しかったって娘も喜んでいたわ」「え……? 私……アヤがお寿司好きじゃないなんて……知らない。何で言ってくれなかったんだろう……」

「ヨウコさんがいまアヤちゃんにしてあげられることは、待ってあげることだけなんじゃないかしら……。アヤちゃんだって昨日今日の気持ちで『娘をやめます』って言ったわけじゃないでしょ? 積み重なった日々があって出した結論だと思うの」

「もしアヤちゃんがヨウコさんのことを許せる日が来たら、そのときは受け入れてあげてよ」「もし……そんな日が来なかったら……?」「それも、受け入れてあげないと……。それがヨウコさんとアヤちゃんの結末だったってことなんだから……」私の脳裏に、今までアヤにしてきたことが走馬灯のように駆け巡りました。私はずっとアヤに甘えてきたのです。アヤなら何をしても受け入れてくれるだろうと……。アヤの気持ちよりも、自分の気持ちを一番に考えてきてしまった結果が、コレでした。

アヤはこの家にいた20年間、ずっと我慢して生きてきたんだ……。私の顔色をうかがって、必死に私の喜ぶ言葉を探して話していたんだ。そんなことにも気が付かず、ずっとアヤに自分の感情ばかりをぶつけてきた自分自身を恥ずかしく思いました。できることならもう一度アヤに謝るチャンスが欲しい。そう思いましたが、いま私にできるのは「娘をやめる」と言った彼女の決意を受け入れてあげることだけ……。今までアヤに受け入れてきてもらった分、今度は私がアヤの意思を受け入れたいと思います。そしていつかアヤが私を許してくれる日がきたら、そのときは今までのことを謝罪してアヤの気持ちに寄り添える母親でありたいと思います。

【アヤの気持ち】シアワセになる!振り返らず……前へ!

母は感情の起伏が激しく、怒ると手がつけられなくなるところがありました。私はいつも母の望む言葉を探し、母の機嫌を損なわないようにふるまってきました。ただそんな生活をこれ以上続けられないと思い、短大を出ると実家から遠く離れた場所で就職をしたのです。はじめて体験する「母の顔色を気にしなくていい生活」は、想像以上に快適! そんな生活に慣れると、母の元に戻りたいとは思えなくなりました。帰省をめぐって母に一方的に叱られ、私はとうとう「娘をやめる」と母に絶縁宣言をしたのでした。

「言えるじゃん……」ようやく母に歯向かうことができた自分が、信じられませんでした。母からはその後、何度も何度も着信がありました。スマホの「お母さん」という文字が目に入ると、昔のことが思い出されます。

「私はもうお母さんに振り回されないで生きていくんだ」そう決意すると、私は着信が鳴りやまないスマホを置きました。それ以来、私は母と連絡を取っていません。私のことを気遣ってくれていた姉には、母とのやりとりの一部始終を話しました。

「ごめんね……アヤの大事な入試時期に、私の出産がかぶっちゃって……」「ううん、お姉ちゃんを選んだのはお母さんだもん。お姉ちゃんのせいじゃないよ。でもね……もうお母さんに振り回されたくない」私が決意したようにそう伝えると、姉もうなずいてくれました。「うん。それでいいよ」

「大丈夫。お母さんのことは私が見ているから。アヤのこと、気付いてあげられなかった代わりに、これからは私がお母さんからアヤを守る盾になる。その代わり、お母さんと会わなくても私とは会ってくれる?」「うん。お姉ちゃん、ありがとう」「良かった……」

母と過ごしてきた日々は、息の詰まる毎日でした。幸せなときがまったくなかったといえば嘘になりますが、その幸せの中でも私はいつも気を張って過ごしていた気がします。母に絶縁を言い渡しても、なかなか抜け出せないのが「親子」の宿命でしょうか。けれど自分らしく生きていくために、私は振り返らず前へ進んでいくつもりです。

こんなことくらいで母を捨てた私は、親不孝かもしれません。あれから母からの連絡はパタリとなくなりました。母なりに私のことを考えて、私の絶縁を受け入れてくれたのかもしれません。母と離れたことに一ミリの後悔も感じていませんが、いつか時が経ってもう一度話したいと思えるようになったら、私たちは親子をやり直すことができるのでしょうか……? 「子どもが幸せになる」ことが親孝行だとしたら、私が母に絶縁を言い渡すことが最大の親孝行なのだと、母に分かってもらえていると嬉しいなと思います。


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