ガラスに映るパリの煌き「エミール・ガレ」展(取材レポート)
ガラス工芸の巨匠として知られている、エミール・ガレ(1846–1904)。青年期から最晩年にかけて、ガレが制作した作品を紹介する展覧会が、サントリー美術館で開催中です。
「没後120年 エミール・ガレ:憧憬のパリ」会場
ガレは、磁器装飾職人であったシャルルを父のもとで育ちます。シャルルはパリでの販売に注力し、1867年のパリ万博では、選外佳作賞を受賞。ガレは1864年から家業のなかでも陶器デザインを手伝い、パリ万博の半年間をパリで過ごします。
プロローグでは、花やリボンの紋様を描いたガレの活動初期を特徴づける作品が並びます。
プロローグ 1867年はじめてのパリ万博、若かりしガレの面影 「没後120年 エミール・ガレ:憧憬のパリ」展示風景
1878年のパリ万博は、ガレが経営面・制作面で初めて指揮をとった、国際デビューの機会となりました。出品モデルのひとつ、「北斎漫画」をモチーフに転用した花器「鯉」は初期のガレ作品の中でもジャポニスムの代表格といえます。鯉の背に観世音が乗っている原本に対して、鯉だけを大胆かつ伸びやかに配しています。
(左から)花器「バッタ」エミール・ガレ 1878年頃 サントリー美術館 / 花器「鯉」エミール・ガレ 1878年 大一美術館
バカラやサン・ルイなどの大手メーカーも出品した万博での第19クラスにおいて、銅賞を受賞したガレは、世界の大舞台で順調な一歩を踏み出します。第1章「ガレの国際デビュー、1878年パリ万博から1884年第8回装飾美術中央連合展へ」では、未来への意欲と活気に満ちたパリ初期の作品が並んでいます。
第1章「ガレの国際デビュー、1878年パリ万博から1884年第8回装飾美術中央連合展へ」 「没後120年 エミール・ガレ:憧憬のパリ」展示風景
ガレが、真の意味で成功を収めたのは、1889年のパリ万博でした。ガラスに対する科学的な研究を重ね、新たな素材と技法を開発。2つのパヴィリオンとガラス作品300点、陶器200点、家具17点という膨大な作品を出品し、大成功を収めました。
黒色ガラスを活用した作品群では、愛国心のシンボルとしてジャンヌ・ダルクを採用した作品も。悲しみや生と死、闇、仄暗さなどを表現しました。ガレの独自の世界の展開し作品には、度々ジャンヌ・ダルクがモチーフとして登場しています。
(手前)花器「ジャンヌ・ダルク」エミール・ガレ 1889年 大一美術館
1889年のパリ万博での名声を契機に、パリの社交界へ交流を広げたガレ。特にパリ・サロンの中心人物ロベール・ド・モンテスキウ=フザンサック伯爵と出会ったことで、芸術文化や社会に影響力のある人々との関係を築いていきます。
1900年のパリ万博はフランス史上最も華やかな国際舞台となった一方で、地方都市には利益がないとの反対もあり、ガレの故郷ナンシーが中心となって声を上げました。すでにフランスを代表する装飾芸術家としてパリで地位を確立していたガレは、精神的重圧に苦しみながらも、造形的にも観念的にも独自の世界観を展開していきます。
3階の展示室では、1900年パリ万博でガラスと家具の部門でグランプリに輝いた作品を中心に、ガレの傑作の数々を紹介しています。
昼顔形花器「蛾」 エミール・ガレ 1900年 サントリー美術館
第3章「1900年、世紀のパリ万博」 「没後120年 エミール・ガレ:憧憬のパリ」展示風景
第3章「1900年、世紀のパリ万博」 「没後120年 エミール・ガレ:憧憬のパリ」展示風景
ガレは成功の裏で、社会問題や故郷ナンシーでの反発に苦しみながらも精力的に芸術活動を続けました。しかし、1901年以降は体調を崩し療養を繰り返すようになります。最晩年の4年間は、死を覚悟しつつも、彼の独自の芸術を追求し、その人生をかけた集大成とも言える作品が生まれました。
写実的なトンボが施された作品は、白血病を患い、死期を感じたガレが友人や親戚に贈ったもののひとつとされています。
脚付杯「蜻蛉」 エミール・ガレ 1903‒04年 サントリー美術館
1904年9月23日、白血病により58歳でその生涯を閉じたガレ。晩年の大作では、当時最先端の家具であったランプに、小さく短命なひとよ茸の成長過程を3段階に分けて仕立てています。自然の摂理、輪廻の世界を託したように感じることができます。
ランプ「ひとよ茸」エミール・ガレ 1902年頃 サントリー美術館
ガレの独自の美意識と革新性は、時代を超えて多くの人々を魅了し続けています。展覧会は10時~11時の撮影・会話禁止の「静寂鑑賞時間」を除いて、撮影も可能です。鑑賞だけをゆっくり楽しみたい方は早めの時間帯に、作品の撮影も満喫したい方は11時以降の時間帯でお楽しみください。
[ 取材・撮影・文:坂入 美彩子 / 2025年2月14日 ]