【中央区】街中散歩で色々発見。あなたはいくつ知ってしましたか?~大洋火災殉難之碑から、おてもやん永田いねパークへ~
厳しい冬を終え、あたたかな風に目を細めるこの頃。また新しい春がやってきました。新しいお店を探すのもいいけれど、今回はぶらりと熊本市中央区歩きをしてきました。アーケード内ではなく、白川沿いをゆっくりと歩く散歩時間。知らなかった史跡も発見し、そこにはこれから桜も咲くようなので、みなさんも是非。
国道3号線の白川沿い
マップで見るとこちら。距離にして1.2キロ。歩いてだいたい20分くらい。でも色んなものを見て、ゆっくりと歩くので30分以上はかかったでしょうか。
ヒロデザイン専門学校を前に、してスタートします。
数えきれないくらい通る道ですが、歩くのは初めてでした。
大洋火災殉難之碑
大洋火災殉難之碑がありました。 大洋火災とは
大洋デパート火災は、昭和48年11月29日13時15分頃に、熊本県熊本市下通1丁目3番10号の百貨店「大洋デパート」で発生した火災事故。
Wikipediaより です。今の若い人は知らないでしょう。現在、COCOSAのある場所に「大洋デパート」はありました。
死者104人・負傷者67人におよぶ被害を出し、日本における開店中のデパート火災としては史上最悪の惨事となった
Wikipediaより との事。 記者は1978年生まれなので、リアルタイムでは知りませんが、祖母や親、親戚から沢山の悲しいお話を聞いて育ちました。
ここにこのような慰霊碑があったとは知りませんでした。二度とあってはならない事故に改めて胸を痛めます。もし危険な事があったなら、今の時代はスマホを向けがちだとは思いますが、命一番に避難する事を忘れてはなりません。
その目の前には白い踊り子のようなオブジェ。大洋火災は2023年に50年を迎えたそうです。
桜の木が沢山。取材時は3月の初めでしたのでまだまだですが、きっと美しい光景が見られることでしょう。
椅子があり、鳩たちがくつろいでおりました。
熊本大学薬学部発祥の地
熊本大学薬学部発祥の地、とありました。「熊本大学薬学部の前身である私立熊本薬学校が、明治十八年三月三日この地(紺屋今町四九番地)に開校した」との記載。「発祥の地好き」の方は是非に。
こちらもまだ木々の風景は寂しいですが、春から初夏のお散歩は気持ちがいいはず。フードを持って食べ歩きなんて考えましたが、一つ田舎と違うのはカラスがずっと私たち見ている事。
現在工事が行われているこの白川沿いのカラス。人間が来ると飛び立つどころか、何かないかと狙っています。ひえ、街中のカラス怖い。そして一匹がバサッと飛びあがると、同行者の頭に爪でワンバウンドして去って行きました。これは、食べ物は持って歩かない方がよさそうです。
洪水を防ぐための堤防を守る護岸の整備をしているようです。令和7年5月下旬までの予定。
きらきらきらきら、いつまで見ていても飽きない光に心癒されます。
あら、かわいい。
わ、なんだかいろいろあります。
こちらの作品はひのくにチェーンソーカービングクラブの「菅原林業」さんが作られたものだそう。毎月第一月曜日に南阿蘇河陰の菅原林業でチェーンソーアートの練習会も行われているそうですよ。興味のある方が是非との記載がありました。インスタグラムを見つけました →ひのくにチェンソーカービングクラブ[熊本/南阿蘇] チェンソーアート(@hinokuni_chainsaw) • Instagram写真と動画
慶徳小学校発祥之地
また標柱がありました。
慶徳小学校発祥の地との事。
こちらも簡単な標柱ですが、 明治時代の流れ↓
7.4 慶徳堀町妙乗寺内御堂に仮教室を設け慶徳学校と命名
慶徳学校児童数50人未満(現慶徳公園内「慶徳小発祥の地」)
9.9 慶徳堀町に校舎を新築し 慶徳小学校と改称
10.2 西南の役で消失 現在地に新校舎新築
17.3 失火により全焼
19.8 新校舎成る(現在地)山崎小学校を併合する
熊本市立慶徳小学校ホームページより とあり、ものすごい歴史を知る事が出来ました。 記者の出身校は比較的新しいものなので、西南の役で消失したり、全焼したりがあった事を知り、驚きました。
そして長六橋へ
ゆっくりゆっくり歩き、長六橋が見えてきました。
さて、今回は渡りませんが、青空に映える長六橋。
最初に作られたのは1601年( 慶長 6年)との事。
車で通る時はびゃーっと一瞬ですが、立派な橋をたまにはゆっくり眺める時間もいいですね。ここは夜もとても綺麗でしょう。飲んだ帰りの酔い冷ましに見る川と橋と光のコントラストはまるで夢の中のようかと想像いたします。
祇園さんの水
長六橋を渡らずに、河原町を過ぎて、祇園橋の方へまっすぐ。
祇園橋駅。平日ですが車が多いですね。
もう少し歩いて、体育堂さんの手前に
「祇園さんの水」というものがありました。
綺麗な水が流れております。
でろんとなって見えませんが、熊本は素晴らしい湧水地がたくさんあるという事が書いてありました。
周辺案内板。
こちらの祇園さんの水は熊本地下水PRのためのものですので、飲用水ではありません。
でも街中に突然に現れるその清らかな水は、一時あわただしさをかき消してくれるようです。
雨の日はここに波紋が広がるのでしょう。信号が青になっても、もう一回遅らせて眺めていたいような、そんな素敵な親水施設です。
こちらの注意書きをお守りくださいませ。
おてもやん永田いねパーク
お隣には公園がありました。
おてもやん 永田いねパーク。 肥後ジャーナルでの「おてもやん」の記事はこちら。火の国祭りは中止だし、することないから「おてもやん」の謎解きしてたら子孫まで見つけた話。 | 肥後ジャーナル - 熊本の今をお届けするメディアサイトまだ見てないという方は是非ご覧になってくださいね。
小さな公園ですが、ゴミ一つ落ちていない綺麗な公園です。
説明書きにはこうあります。 「おてもやんと永田いね」 江戸末期の米屋町三丁目に、「糀屋」という味噌製造所があった。この永田家は細川家に多額の御用金を献納して、名字帯刀や家紋三柏の使用を許されていた。 永田いねは、元治元年の年の瀬も迫った12月24日、「糀屋」の主人永田大八の一人娘として出生した・母・辰さんの希望で、四歳の時から踊りを習い始め、やがて琴・三味線・笛・太鼓等幅広く芸事に精通していった。 井芹川で舟遊びしていて唄ったのが、横手の細川邸まで聞こえ、殿様(護久公)の所望によって舞や唄を披露し、脇差を戴いたこともある。 明治15年には、亀甲屋嵐亀乃助と名乗り女芝居一座を組んで、大阪・名古屋方面まで巡業に出た。一座を解散した後は、沢山の弟子をかかえて踊りや三味線・唄の師匠としていたが、その稽古は厳しく、少しでも間違えると扇子や煙管でビシビシ叩いて特訓をしていたので、「気違い師匠」のあだ名があった。 民謡「おてもやん」は、いねが、春日の五反で師匠をしていた頃作られたもので、この節が名古屋さんざい(名古屋甚句)によく似ておるのは、名古屋巡業の際に影響を受けたであろう。 (「五福百年」より)
お花がとても綺麗に植えられております。頭の中のBGMはもちろん、突然の「おてもやん」です。 まだ化粧をしたての頃、チークの加減が分からずに赤くしすぎると、今は祖母に「なーんな!あた、おてもやんのごたる!」と言われていたような、そんな記憶が蘇ってきます。今の若い子たちだったら、なんて例えるのでしょう。
ここは細工町5丁目。
可愛い張り紙がありました。地域の方々と五福小の児童さんで綺麗にされているそうです。ゴミ箱はありません。お持ち帰りをよろしくお願いいたします。
およそ20分程の街中お散歩もひとまずここで終わり。出費は駐車料金200円でした。 「一つ山越え も一つ山越え あの山越えて 私ゃあんたに惚れとるばい 惚れとるばってん言れんたい」 この歌詞の意味が分かるって、バイリンガル並みにすごい事かもしれないなぁと思ったり。どの年代の方まで分かるのでしょうか。 お気に入りのフレーズを歌いながら、帰路へ着きました。桜の開花を楽しみに。