《連載》もっと文楽!~文楽技芸員インタビュー~ Vol. 9 豊竹芳穂太夫(文楽太夫)
美声を生かしたダイナミックな語りが魅力の豊竹芳穂太夫(47)。近年は、ベテランの三味線弾き、野澤錦糸と組むことで、その表現に繊細な抑揚も加わっている。国立劇場第十六期歌舞伎俳優研修生から文楽入りするという異色の経歴の持ち主である彼は、どのように文楽にたどり着き、この道を歩んでいるのだろうか?
文楽と無縁の家庭で育つ
大阪の芸能である文楽の世界の標準語は、大阪弁。このため、大阪以外の出身者は苦労すると言われる。そんな中、芳穂太夫さんは本場、大阪の東淀川区に生まれ育った。ただし、父は東大阪の会社に勤めるサラリーマン、母は専業主婦という一般家庭で、文楽とは無縁の生活を送っていたという。
「両親は義太夫にもお芝居にも特に興味はなく、僕自身も、例えば時代劇が好きな子供だったというようなこともありませんでした。姉二人はピアノを習っていたけれど僕は拒否したそうで習わず。こう見えて体が弱く喘息持ちだったので、体力をつけるためにスイミングスクールに通わせてもらいました。少年野球にも参加していましたし、中学では水泳部、高校では柔道部と、運動は色々とやっていましたね。今に繋がることがあるとすれば、アニメオタクだったこと。『ドラゴンボール』などのアニメを見て声優に憧れ、カセットテープに自分の声を吹き込んで聴いてみて、『なんて変な声なんだ!』などと思っていました」
舞台との出会いは、学校で見に行った演劇。
「僕が通った高槻市の高校は社会問題に対する啓発活動が盛んで、差別を扱った韓国系の女性の一人芝居や、劇団の人がやっている精神病院が舞台の『カッコーの巣の上で』などを観ました。『カッコーの巣の上で』はいわゆる健常者が障害のある人の演技をするのがすごいな、と。大人の人が真剣にお芝居をやっている姿は、それまで見たことがなかったので新鮮でしたね」
高校卒業後は、倉本聰の富良野塾を受けるが合格ならず、テレビ・映像制作・俳優の学校である放送芸術学院専門学校へ。
「バレエ、ジャズダンス、ヒップホップ、日本舞踊など一通り学びました。何が自分の道として合うのか、あれこれ模索していた時期です。卒業後に日本舞踊の世界へ行った同級生もいたけれど、僕はそこまでではなくて。ハマったのはパントマイム。先生から『筋がいい』と言われました。そのパントマイムの経験は、結構今に生きている気がするんですよ。というのも、パントマイムに必要なのは、想像力。物を持っていないのに持っているように見せるには、その重さ、大きさ、形などをイメージする必要がある。物事や登場人物の感情や仕草などを言葉で説明する太夫も、具体的なイメージなしに語ったら中身のないものになってしまうので、そういう意味では通じるものがあるのではないかと考えています」
先生からパントマイムの道に誘われたが、演劇に惹かれていたのでそちらの道には進まず。専門学校の卒業生が入っていた小さな事務所に入り浸っていたところ、事務所の人に「古典も知っておくべきだから、大阪市主催の歌舞伎のワークショップに行ってみてはどうか」と勧められ、「どうせ落ちるだろう」と思いながら臨んだオーディションに、合格。夏の間、京都での稽古に通うことになった。
≫歌舞伎のワークショップで口上、にらみも!
歌舞伎のワークショップで口上、にらみも!
「オーディションでは歌舞伎の『待てえええ』という台詞を、当時の市川右近さん、今の市川右團次さんが見本でなさって『はい、やって』。全員、『ええっ!』となりながら、見様見真似で声を出しました(笑)。合格したのは20人くらいでしょうか。この時の仲間のうち、落語家の林家染二さん、林家染雀さん、さっぽろ人形浄瑠璃あしり座の東華子さんといった方々とは、今でも交流があります。一ヶ月ほど京都での稽古に通い、今は無き中座(なかざ)で発表会をしました」
発表会で芳穂太夫さんがやったのは、口上。
「使用する鬘は、澤瀉屋の方々がワークショップやイベントで使っているもので、鬘が頭に合うかどうかで役が決まりました。僕は最初、『伽羅先代萩』の荒獅子男之助の鬘をつけたのですが合わず、じゃあ口上で、と。男之助は総被りだからサイズがぴったりでなければならないのですが、口上の鬘は月代(さかやき)の部分がないので比較的入りやすいんです。なんと、本来は成田屋にしか許されない“にらみ”までやったんですよ! 『これから発表会をやらせていただきます』という口上のあと、『一つ、にらんでご覧にいれます』と、肩肌抜いて三宝持って」
この経験ですっかり歌舞伎にのめり込んだ芳穂太夫さんは、歌舞伎俳優を志す。
「右近さんから『松竹座で芝居をする時、何日か付き人が来られない日があるから代わりに来てくれないか』と言われ、そこから楽屋に入ったりお食事に連れて行ってもらって色々なお話を聞かせてもらったりするうちに面白い世界だなと思い、弟子入りしたいとお願いしたのですが、『急に弟子が増えてしまったから、まずは研修生に』と勧められ、国立劇場の歌舞伎俳優の養成研修コースに入ることにしました。実は直前になって『一人辞めたから直接入ってもいいよ』と言われたのですが、『基礎から学びたいので研修生になります』と答えました」
これが運命の分かれ道となった。
≫歌舞伎から文楽の道へ
歌舞伎から文楽の道へ
歌舞伎の研修生として2年間の研修に励むこととなった芳穂太夫さん。ここで初めて、文楽というものの存在が身近になる。
「女流義太夫の竹本朝重先生の、義太夫節の授業がありましたし、研修の一環として文楽が東京に来ると舞台稽古を見学させてもらいました。最初はわからず、『伽羅先代萩』の竹の間の段で寝てしまったり……罰当たりですよね(苦笑)。文楽の研修生も東京公演中は同じロッカールームを使うので顔見知りになり、『おはよう』『今回はいつまでいるの?』なんて会話をして、飲みに行くことも。特に仲良くなったのが、同じ時期に研修生になった(文楽三味線弾き・鶴澤)友之助くん。ある時、『歌舞伎の三大名作というのがあって』と教わったばかりのことをドヤ顔で話したら、『それ全部、文楽から始まっているんだよ』と言われ、『え!?』と。それから文楽の新聞記事などが目につくようになり始め、(野澤)錦糸さんの襲名の記事を見て『血縁でなくとも襲名できるんだ』と思ったり、滅多に上演されない『堀川波の鼓』成山忠太夫内の段を語る(八世豊竹)嶋太夫師匠のインタビューを読んだり。そしてある日、NHKで『人間国宝ふたり ~吉田玉男・竹本住大夫~』という番組を見て、ガーンと打たれたような感じになったんです。そこからは友之助くんを質問責め。研修生は長唄の三味線は習うのですが、義太夫の三味線も弾いてみたくなり、控室で弾かせてもらって。三味線の扱い方がよくわからずかなり雑だったので、友之助くんはハラハラしていたことでしょうね」
歌舞伎の研修生を修了した芳穂太夫さんは、文楽入りを決意し、養成課の職員の口添えで嶋太夫に弟子入りすることに。ところが弟子入りする前に師匠が病気休演したため、1年間、“浪人”する。
「浪人中は、大阪で公演があるたびに舞台を見て自習していました。嶋太夫師匠には一度、病院にもご挨拶に伺っていましたが、2003年の1月公演で復帰された時に改めて楽屋へ行き、2月には自費で東京へ行って、半ば強引に弟子入りしました。僕は25歳と年が行っていましたから。」
そんな紆余曲折を経て、晴れて弟子入り。「芳穂」という名をもらう。「芳」の字の部首は師匠から「十十や」と言われたことから、可能な時には草かんむりではなく十を2つ並べて書くようにしているのだそう。
≫八世豊竹嶋太夫師匠のもとで
八世豊竹嶋太夫師匠のもとで
細やかにしみじみと情の世界を語った嶋太夫は私生活でも細かかった。ある朝、芳穂太夫さんが師匠の泊まるホテルの部屋のドアを3回叩いたところ、ガチャっとドアが開き、「ノックは2回や」と注意されたという。そんな師匠から、若き日の芳穂太夫さんはこんなふうに言われた。
「『お前のような“立ち声”は、下手が際立って聴くに耐えない』と。どうしたらいいんだろう、と悩みましたけれども、要は出し方、つまり技術の問題なんですよね。技術が足りず、全部まっすぐに大きい声でわーっと言ってしまう。そうではなく、例えば節を回すのでもタンタンタンとただ同じ音量で同じ間(ま)で下りず抑揚をつけた下ろし方をするとか、歌うところの表現の仕方とか、そういうところに気をつけなければいけないということだと僕は受け止めたんですけれども、その時はなかなか、本当には分からなかった。でも最近、師匠が素浄瑠璃で語っている映像を見たら、師匠は全く動かないのに、語りには様々なニュアンスがあり、ボワーンと滲み出るものがあるんですよね。そしてそれは、今の師匠(豊竹若太夫)がおっしゃる『体幹で語る』にも通じます」
そんな嶋太夫の輝かしい舞台のうち、芳穂太夫さんが特に忘れられないのは『桂川連理柵』帯屋の段だ。
「僕は白湯汲み(太夫の最高位、“切語り”の太夫のために白湯の入った湯呑みを運び、語っている間は太夫右側床下に控える)をさせてもらうことが多かったのですが、ずっと師匠の方を向いて座っていても客席のお客さんがむちゃくちゃ喜んでいる様子を感じるんです。チラッとそちらを見たら、老若男女問わず皆さんものすごく楽しそうな笑顔で。あんなふうに聴いてもらえる太夫になることが理想ですね」
兄弟子からも様々なことを教わった。中でも豊竹呂勢太夫には大きな恩を感じているという。
「呂勢さん兄さんは入門した時から、若いのに実力があって伸びやかな声で節もよく回って、すごいなと、憧れの存在。そして、今の僕がいるのは呂勢さん兄さんのおかげと言っても過言ではないくらいお世話になりました。芸の上でもアドバイスをくださっていたのですが、要求に容赦がないんですよ。ちょっとできると思ったら、『これ、挑戦してみようよ』というのがずっと続く。3日目くらいまでは頑張ろうと思えるのですが、途中から『え、まだ……!?』と。もちろん、一生懸命やるわけなんですけど、際限がないんです(笑)。面倒見がいいし、怒るべき時はちゃんと怒ってくださって、本当に有り難かったです」
≫若太夫師匠に弟子入り、そして先輩の野澤錦糸と
若太夫師匠に弟子入り、そして先輩の野澤錦糸と
嶋太夫は2016年に引退し、2020年に他界。芳穂太夫さんは2021年、豊竹呂太夫のもとに弟子入りした。
「とても社交的でフランクな方という印象だったのですが、弟子入りしてみてわかったのは、芸に関しては非常に緻密で、『ここはこの音で、ここの音でこの音で』と計算し尽くしていらっしゃること。『地合(じあ)い(情景や人物の心理描写など三味線の旋律を伴って描くもの)だけでなく、詞(ことば)(旋律を伴わず語る人物の言葉など)も全てきちんと決まってるんや。それをまだ全然聴けてない!』と言われます。確かに、語尾の止め方から息継ぎの仕方から全部決まっておるのに、無意識のうちに語尾で力を抜いて下がってしまうようなところがあるんですよね。でも『わしはこうやっている』といった師匠の話を聞くと、僕なんかまだまだサボっているなと思ってしまうんです」
その師匠は今年5月、「若太夫」を襲名。弟子として襲名披露に携わり、口上にも列座したのは記憶に新しい。
「師匠に万が一何かあったら大変なので、どうサポートできるか考えて実行するのが弟子の務め。大切なのは、何事もなく、何のストレスも感じず、舞台へ行って終わってお帰りいただくということを公演の間ずっとしていただくこと。そのために弟子達はてんやわんやでしたが、当たり前のことですよね」
若太夫のもとで研鑽を積みながら、近年はベテラン三味線弾き、野澤錦糸とのコンビが続いている。錦糸と組むようになってから、芳穂太夫さんの力強い語りに繊細なニュアンスが加わるようになった。
「毎回、まずは対面でお稽古してもらうのですが、錦糸兄さんの脳内には、(竹本)住太夫師匠をはじめ往年の素晴らしい太夫の語りが残っている。ですから僕が語ると違和感があるようで、最初の頃はちっとも稽古が進みませんでした。でも、今から思えば本当に不自然だったと思います。要求は難しいけれど、おっしゃっていることはよく分かる。それがはっきり分かり始めてからは、より感謝して取り組むようになりました」
今年2月には、その錦糸との素浄瑠璃の会を、大阪と東京で開催。来年の開催も予定されている。
「今年は(『菅原伝授手習鑑』の)寺子屋の段を丸一段やらせていただいて。お稽古自体も当然厳しいのですが、合間にご注意いただく一言二言に、ヒントが多くて。例えば、『語るところなんて全体の2割ぐらいしかないんやで。あとは読むだけ』。自分はやっぱり、重たい段なので全部に力が入ってしまって、内容を語ろう、語ろうとしてしまうのですが、『重い』『隣でいたたまれなくなる』と言われ、『ここぞというところだけガッと語って、あとはさっと読む。浄瑠璃の8割は読むんや』。勿論、素通りするわけではないですが、要は僕はやり過ぎだと。力の込め具合とか、間(ま)の使い方とか、一定のリズムで運ぶのではなく、最初(ゆったりと)持っておいて次に詰めて、最後にまたちょっとだけタイム、といった具合に、ものすごく細かく引き出しを増やす作業を、根気よくやってくださっているんです。そうしたらある時、稽古場から、モニター越しに聴こえる浄瑠璃の聴こえ方が以前とは違うことに気が付きました。耳が変わってきているんです」
9月文楽鑑賞教室で、その錦糸を相手に語るのは、『夏祭浪花鑑』釣船三婦内の段。侠客の団七九郎兵衛は恩義のある家の御曹司・磯之丞とその恋人・琴浦を悪侍から守るため、二人を仲間の三婦の家に預けている。そこへ団七とは義兄弟の契りを結んだ一寸徳兵衛の女房・お辰がやってきて、おつぎから磯之丞を預かってほしいと頼まれ快諾するが、三婦は若く美しいお辰に磯之丞は預けられないと言う。するとお辰は自分の顔に焼けた鉄弓を当てて傷を作ってみせ、感服した三婦は磯之丞を預けることにする……という物語だ。
「今回は世話物なので、これまで語ることが多かった時代物とはまた違う引き出しが必要になってくると思います。自分のできる準備をして体当たりで稽古に臨んで、錦糸さんからどんなことを言われるか、そしてどんな引き出しを開けてくださるのか、楽しみにしたいです。この芝居は、夏祭りの日に任侠の人達が織りなすドラマですから、その雰囲気をしっかりと出したいですね」
錦糸に胸を借りる一方、29歳の若手三味線弾き、鶴澤燕二郎とも毎年、「みのり会」という勉強会を開いている芳穂太夫さん。悩み多き20代を経験した自身の思いも、そこには反映されていた。
「若い頃はやっぱり、芸に対してすごく悩みますよね。でも、一生懸命取り組むことが眼の前にあったら、悩みどころではなくなります。それで、燕二郎くんを『一緒にやろう』と誘って。最初は嶋太夫師匠がご存命の時、まだみのり会とも名付けず小さなスペースでやったあと少し空いたのですが、僕が今の師匠のところに行くことになって再開を決め、2021年にみのり会第1回として改めてスタートしました。錦糸さんからは事ある毎に『太夫が主やで。君がしっかりせなあかんのや』と言われるのですが、三味線弾きさんが先輩だとどうしてもその動向が気になってしまう。一方、燕二郎くんは後輩ですから、自分がしっかりして引っ張っていくつもりでやらなければいけない。次のみのり会では、先輩後輩が入れ替わってもきちっとできるようにすることが、自分の中での課題です」
こちらも9月に予定しているみのり会第3回公演では、『ひらかな盛衰記』松右衛門内より逆櫓の段を語る。今年の5月文楽公演でも逆櫓の段を語ったが、松右衛門内から語るのは大きな挑戦となる。
まもなく50代。年齢は特に意識していないというが、修業の成果が実る充実の時期に入ることは間違いない。
「とにかく一つひとつの演目や役と向き合って、どれだけ掘り下げられるか。その作業の繰り返しだと考えています。周りには8歳や10何歳で初舞台という人もいる中、僕は26歳の時で、まだ21年しかキャリアがありません。環境に恵まれた人達だって努力しているわけですから、自分にはどんな努力できるのかという話。一段一段、確実に成長できるようにしていきたいです」
≫「技芸員への3つの質問」
「技芸員への3つの質問」
【その1】入門したての頃の忘れられないエピソード
入門して割とすぐの頃だったと思うのですが、大失敗をしました。文楽劇場の稽古場でお稽古をしていて、師匠の床本を「明日持って来るように」と言われて預かって。その時は生駒の会館だったのですが、文楽劇場の控室に忘れて帰ってしまったんです。で、翌日、「師匠の床本は?」と兄弟子に言われて「あああああ、忘れてる」と真っ青に。その日はお役がなかった呂勢さん兄さんが取りに行ってくれ、移動の途中で呂勢さん兄さんから連絡を受けた、生駒の会館の近所に住む(豊竹)始(太夫)兄さんが原付で最寄駅まで行って床本を受け取って生駒の会館まで届け……という連携プレイで、どうにか間に合わせてくださいました。びっくりしたのは、師匠は色々なことで怒る方だったのに、その時は「ああ、間に合うやろ」の一言で終わったこと。師匠は重大事項には余り怒らない方でした。兄さん方に申し訳なかったのと、師匠が全然怒られなかったことなど、全てが印象に残っています。
【その2】初代国立劇場の思い出と、二代目の劇場に期待・妄想すること
初代国立劇場は歌舞伎の研修でもお世話になった場所。足の怪我をしたトンボ道場など思い出深いです。文楽でいえば、御簾内か舞台裏で、よく台本を開いて過ごしたことでしょうか。嶋太夫師匠も兄さん方も「楽屋でぼーっとせず、暇があったら舞台を聴け」とおっしゃっていましたから。
やっぱり本拠地があると、リラックスできるんですよね。新しい会場だと、どんな空間なのか、楽屋はどうなっているのかもわからないし、緊張感がすごいんです。だから二代目の劇場は、とにかく早くできてほしいです。
【その3】オフの過ごし方
公言しているのはサウナ巡りですが、ほかに、ノンフィクションの本を読むのが好きです。いわゆる重大犯罪を犯した人達の話などをよく読みます。僕らは人間の所業を、虚を実に語らなければならない。心中したこともなければ人を殺したこともないですけど、そういうシーンも勿論あるわけで、そこでは想像力が重要になります。例えば、高師直が塩冶判官に刀を抜かせるためにはどういういやらしい表現をしたらいいのか、とか。実際の事件などについて読みながら、どうしてこんなことが起きたのか、人間の心の動きや周りの人との関係は……といったことを想像しています。
取材・文=高橋彩子(演劇・舞踊ライター)