生死の瀬戸際で、もう一人の自分が囁く「もっと面白くしよう」という誘い。『書くことの不純』著:角幡唯介
『書くことの不純』著:角幡唯介
探検家にしてノンフィクション作家。角幡唯介氏の肩書きはそうなるだろう。
しかし、この肩書きこそが彼を悩ませる要因となっている。探検家(行為者)としての自分と、作家(表現者)としての自分。前者は純粋に自分の内なる声や欲求に突き動かされて行動しているのに対し、後者は探検中の危険な状況で「ここでもっとシビアな選択をすれば話はさらに面白くなる」と不純な動機で行為者を支配しようとする。物書きという側面がある限り、この不純な表現者の干渉は逃れられないのだろうかという悩みである。
彼はこう書く。「作品化を前提にした途端、行為者という〈純粋に生きる存在〉は表現者に侵食され、汚され、その不純さに葛藤することになる。もしこうした不純に気づかない書き手がいるとすれば、それは鈍感なだけだろう」
書き手の存在を消して話を進めるという「自然さ」がウソである、もしくはウソに傾く危険があることを自らの文章の中で明かす作家はほとんどいない、自分が知る限りでは沢木耕太郎だけだ、と。
ノンフィクション作家が陥りがちな悩みのようだが、そのことに言及しているのが著者と沢木氏だけというのはどういうことだろう。他のノンフィクション作家は鈍感なのか。それともそうした「不純」に気づきながらも割り切り開き直って執筆しているのだろうか。対して角幡氏はその「不純」を見て見ぬふりができなかった。そこに彼の正直さというか、「かっこつけない」というか、自分の関心事や気持ちに正直に生きる態度が表れている。
後半は探検家が陥るもうひとつの矛盾が語られる。人は生のその先、究極の先端部に到達したいと思い冒険や探検をする。しかしその先端に触れることができる者は遭難死した者だけである。生還することが大前提の冒険では、生きて戻ってくる限り、目指す生の完全燃焼(=死)には到達できないという矛盾である。ここでは日本人作家の名前を挙げて論が展開される。自決により死の余白を埋めようとした三島由紀夫、ギリギリまで死に近づいた後、釣りへ傾倒した開高健の二人である。冒険と近代の作家がこんな風につながるとは思ってもみなかった。
冒険家、探検家はそれをしない者(私)にとっては未知で興味深い人々である。冒険中の「この危機的局面をどのように乗り切るか」という悩み(?)は想像できたが、書き手としての悩みや冒険後にも懊悩があるとは。
どの職業、どの人にもそれぞれの悩みがあるのである。
著者:プロフィール
角幡唯介
1976年、北海道芦別市生まれ。早稲田大学政治経済学部卒。同大探検部OB。2002年~03年冬に、長い間「謎の峡谷」と呼ばれていたチベット、ヤル・ツアンポー峡谷の未踏査地域を単独で探検し、空白部を調査した。03年に朝日新聞社に入社、08年に退職後、ネパール雪男捜索隊に参加する。09年冬、再び単独でツアンポーの探検に向かい、二度のツアンポー探検を描いた『空白の五マイル』で10年に開高健ノンフィクション賞、11年に大宅壮一ノンフィクション賞、梅棹忠夫・山と探検文学賞を受賞した。次作の『雪男は向こうからやって来た』は12年に新田次郎文学賞受賞。
『書くことの不純』
著者:角幡唯介
中央公論新社
¥1760(税込)
[テキスト/奥原未樹子]
1977年福岡県生まれ。2003年よりリブロ西新店勤務。2011年よりリブロ福岡天神店勤務。2021年より文喫福岡天神にて文芸書を担当。