夏目漱石も「この仕事向いていないかも……」と悩んでいた。仕事との向き合い方に苦悩した29歳
多くの人が人生の転機やライフステージの変化を迎える29歳。各界で活躍しているあの人や偉人も29歳のときはあなたと同じように悩み、もがいていました。
彼ら、彼女たちは当時どのような苦悩を抱え、いかにして乗り越えてきたのかを掘り下げる連載「ぼくらの29歳」。
今回は小説家 夏目漱石の29歳を振り返ります。
英語の教師になるも現実とのギャップに苦悩した29歳
『吾輩は猫である』『坊っちゃん』『三四郎』『こころ』……長く読み継がれる名作の数々を残した日本を代表する小説家、夏目漱石。デビューは38歳と意外と遅めで、小説家になるまでは、英語教師として働いていました。
明治時代が始まる1年前に生まれた漱石は、西欧の文化がどんどん入ってくるのを、まさに肌で感じながら育ちました。
何かしらの分野で長い間修行をして、立派な人間になって世間に出たい――。学生時代からそう考えていた漱石は、時代の流れを受けて、こう実感しました。
「これからは英語をしっかり勉強しなければならない」
そこで大学では英文科に進学。卒業後は東京高等師範学校の英語教師になりました。
しかし、「教育者として学生の模範にならなければ」というプレッシャーから、未熟な自分には無理だと感じたようです。当時のことをこんなふうに振り返っています。
「 教育者として偉くなり得るような資格は私に最初から欠けていたのですから、私はどうも窮屈で恐れ入りました 」
よほど場違いだと思ったようで「肴屋が菓子屋へ手伝いに行ったようなもの」とも言っています。漱石はたったの1年で愛媛県松山の中学校へと赴任することになりました。
松山の中学校で、漱石はできるだけわかりやすい授業を心がけ、生徒の評判もよかったようです。そんな生徒たちのことを、漱石も最初はかわいがっていたのですが、やがて学習意欲の低さに失望。松山も約1年で立ち去ることになりました。
明治29年4月14日、漱石は熊本の第五高等学校へと赴任します。このとき、漱石は29歳。 30歳を目前にした転機が、その後の人生に大きく影響を及ぼす ことになります。
仕事に対する姿勢を変え、見えてきた自分のスタイル
熊本の第五高等学校に赴任した漱石。その授業を受けた学生たちは口々に「厳しい」「怖い」と振り返っています。松山の頃とは違い、生徒に容赦なく接することにしたようです。
特に予習をしてきていない生徒に漱石は厳しく、単語の意味を聞かれて「忘れました」と答えようものなら、「忘れたのではなかろう。知らないのだろう。調べてきてないのだろう」と責め立てました。その一切妥協しないスタイルに、生徒からは恐れられていたようです。
嫌味を言うこともたびたびだったので、生徒たちが団結して立ち上がったときもありました。徹底的に予習して、みなで挑んでいきましたが、漱石の豊富な英語の知識にはかなわなかったとか。結局、困らせることはできませんでした。
ですが、次第に生徒たちは漱石の厳しさは、教育への情熱からきていることに気づき始めます。漱石はただ突き放したわけではなく、学習意欲のある生徒にはきちんと向き合いました。課外授業を積極的に行い、ほぼ毎日午前7時から8時までの特別授業を行ったといいます。
それだけではありません。夏休みまで生徒に1回約2時間の英語指導を行いました。「こうやって家で教えるものはいいもんだよ」とさえ漱石は口にしていたそうです。
こうした面倒見のよさは、これまでの漱石には見られなかったこと。おそらく漱石は、これまでの経験から「人間的にみなに手本になるような立派な先生」になろうとすると精神的につらくなるし、かといって「授業がわかりやすく生徒に優しい先生」になろうとしても、レベルの低さにフラストレーションがたまってしまう。
だから生徒とは距離を保って、言い訳を許さずに授業中は厳しく接する。けれども、学生が意欲を見せたときには、できるだけ応えてみせよう……と、 仕事に対する姿勢を変えながら、自分の働き方のスタイルを見つけていった のです。
自分をリスペクトする学生たちと交流するうちに、漱石の気難しさも変わっていきました。自宅に書生を住み込ませたり、困窮した学生に学費を援助したりするなど、英語以外の場面でも漱石は学生に寄り添った優しさを見せるようになったのです。
本業の傍ら熱中した俳句がその後の人生を変える
熊本時代の漱石にとって、もう一つ重要だったのが俳句との出会いです。
この時期、漱石は正岡子規と文通を重ね、俳句に深く熱中しました。生涯に詠んだ約2600句の俳句のうち、1000句近くを熊本で詠んでいます。英語教師としての日々のなかで、日本語の美しさや表現の奥深さに目を向けるようになったのです。
厳しい授業と課外指導に明け暮れる毎日でしたが、俳句を詠むことは漱石にとって心の拠り所となりました。
英文学を教えながら、日本の伝統的な文学形式に親しむ――。
この二つの世界を行き来する経験が、後の小説家・夏目漱石の独特な文体や視点の基礎を築いたといえるでしょう 。
そして何より、熊本で過ごした約4年間は、漱石に 「人とのつながり」の重要性 を教えました。
東京や松山では、理想の教師像を追い求めて苦しんだり、学生のレベルに失望したりと、人間関係に距離を置いていた漱石。しかし熊本では、厳しくも誠実に向き合った学生たちとの絆、書生や困窮した学生への支援を通じて、人と人とが支え合うことの意味を実感したのです。
この「人とのつながり」というテーマは、後の作品群にも色濃く反映されています。『坊っちゃん』での師弟関係、『こころ』での複雑な人間関係―― 漱石文学の核心にあるのは、常に人と人との関わり です。
名作の原点は漱石が大切にした“人と人との関わり”
生徒と向き合い、自分自身の働き方のスタイルを模索、多くの人との出会った熊本時代の経験は、直接的に作品としても結実しました。
明治30年の大晦日、友人と訪れた小天温泉での体験をもとに『草枕』を執筆。また、明治32年に友人と挑んだ阿蘇登山で嵐に遭遇した経験は、『二百十日』として描かれました。これらの作品には、熊本の自然や人々との交流が鮮やかに映し出されています。
29歳で迎えた熊本への赴任。それは単なる赴任ではなく、教師として人間として、そして後の小説家として成長する、まさに人生の転機となりました。
教師の頃は学生を導いた漱石でしたが、小説家になってからも門下生に温かい言葉をかけたことがあります。
門下生の一人である森田草平に手紙で「僕は君くらいの年輩のときには今君が書く三分の一のものもかけなかった」と告白。さらに、こう続けました。
「 今でもご覧の通りのものしか出来ぬが、しかし当時からくらべるとよほど進歩したものだ。それだから、僕は死ぬまで進歩するつもりでいる 」
そして「君なども死ぬまで進歩するつもりでやればいいではないか」と激励しています。
自分の実力不足を痛感したときが、むしろ成長の始まりです。現状を把握すれば、あとは理想とのギャップを埋めるために、ひたすら前進あるのみ。
行き詰まったときに、地道に積み重ねていくことが何よりも大切だと気づかせてくれる、漱石の言葉を思い返してみるのもよいかもしれません。
【参考文献】
夏目漱石「私の個人主義」『ちくま日本文学全集 夏目漱石』(筑摩書房)
『夏目漱石 新潮日本文学アルバム』(新潮社)
真山知幸『偉人名言迷言事典』(笠間書院)
真山知幸『逃げまくった文豪たち』(実務教育出版)
真山知幸『文豪が愛した文豪』(彩図社)
プロフィール
真山 知幸(まやま ともゆき)
伝記作家、偉人研究家。1979年、兵庫県生まれ。2002年、同志社大学法学部法律学科卒業。上京後、業界誌出版社の編集長を経て2020年より独立。偉人や名言の研究を行い、著作は60冊以上。『ざんねんな偉人伝』『ざんねんな歴史人物』は、計20万部を突破しベストセラーとなった。大学講義や経営者向けのセミナーでの講師活動やメディア出演のほか、雑誌やweb媒体への連載も数多く持ち「東洋経済オンラインアワード2021」のニューウェーブ賞、「東洋経済オンラインアワード2024」のロングランヒット賞を受賞した。
代表著書
『大器晩成列伝(ディスカヴァー・トゥエンティワン)』
『偉人 大久保利通(草思社)』
X(旧Twitter)
真山知幸
プロフィール
竹田 嘉文(たけだ よしふみ)
1982年生。名古屋市出身。東京都在住。デザイン事務所でモーショングラフィックデザイナーとして勤務。その後2010年よりフリー。イラストレーターとしての活動を開始する。
公式HP http://www.takedayoshifumi.com/