「結果さえよければいい?」「自由はどこまで許される?」功利主義から考える、個人の自由とは──『哲学史入門Ⅳ』
現代に生きる功利主義──誰もが幸福な社会を目指して
第一人者とのインタビュー形式で、哲学史の流れと論点を大きくつかむ“まったく新しい入門シリーズ”『哲学史入門』が、読者の皆様の声により、ついに再始動!
2025年9月10日発売のシリーズ第4巻『哲学史入門Ⅳ 正義論、功利主義からケアの倫理まで』では、倫理学を学ぶ意味から、功利主義、正義論、ケアの倫理など、複雑極まる現代を私たちがどう生きるべきか、正しさとはなにかを考えさせる「倫理学」の魅力を幅広く伝えます。
人文ライターの斎藤哲也さんが、古田徹也さん、児玉聡さん、神島裕子さん、立花幸司さん、岡野八代さん、ブレイディみかこさんというトップランナーと向き合う本書より、児玉聡さんが指南役を務める第1章「現代に生きる功利主義 誰もが幸福な社会を目指して」を一部公開します。
聞き手:斎藤哲也
功利主義の誤解を解く
──功利主義は何かと批判されがちです。利己主義と混同されることも多いように思いますが、そもそも、どうしてそんなに批判されるんでしょうか?
児玉 功利主義の特徴って、シンプルでわかりやすいぶん、高尚さに欠けると見られやすいんです。それを魅力と感じる人もいれば、逆に「哲学として粗野だ」と感じる人もいる。
また、ご指摘のように「利己主義」と混同されがちです。古代ギリシア以来、快楽主義といえば「自分の快楽」や「自分の苦痛」が問題とされてきた流れがあります。でも、近代の功利主義の特徴は「全体の幸福」を目指す点にあります。
ただ、それがなかなか理解されず、「功利的な人」といえば「自分の幸福しか考えない人」という利己主義と混同されてしまう。日本でもそういう誤解が根強くありました。ただ最近は、私だけでなく、多くの人が功利主義をわかりやすく説明しているので、少しずつ誤解は減ってきているのではないかと思います。
それと、いわゆる「豚の哲学」という批判も昔からありますよね。「快楽を追求するなんて、志(こころざし)が低いんじゃないか」「人間は快楽や幸福よりももっと価値あるものを追い求めるべきなんじゃないか」というような批判です。ジョン・スチュアート・ミルの『功利主義論』(一八六一)は、そもそもそうした批判に応えるかたちで書かれた本で、ミルは「快楽には質の違いがある」と主張しています。つまり、単に身体的な快楽だけでなく、精神的な快楽もあると。たとえば、将棋を指す楽しみとか、数学の問題を解く楽しみとか、いわゆる「高尚」とされる活動のなかにも快楽はあるというわけです。
そういう意味で、功利主義は決して低俗な快楽だけを追求するものではありません。ミルがとくに強調していたのは、人間はより高いものを追求すべき存在だということです。だから「功利主義とは、ただ餌を食べて満足していればいい〝豚の哲学〟ではないか」という批判に対して、ミルは明確に反論しました。彼にとって功利主義は、「より優れた人間になること」や「社会全体の幸福をより大きくすること」といった、高尚で意義ある目標の追求と両立しうるものでした。
帰結主義=結果オーライではない
児玉 他にも、功利主義は「結果さえよければいい」という考え方だと誤解されることもあります。たとえば、政治の善し悪しを「結果で判断すべきだ」と考える。これこそが功利主義だとする見方もありますが、どういう意味で「結果」と言っているかが問題です。
あるいは夫婦別姓の制度を導入すると、それによって社会がどう変わるか。一〇年後に結果が明らかになるとして、その結果を見てから「よかった・悪かった」と判断するのは、功利主義とは違う考え方だと言えます。
──事後的に、善悪を判断する思想ではないと?
児玉 はい。基本的には結果そのものよりも、むしろ結果の事前予測が重要なのです。
たとえば酔っぱらい運転をして、たまたま事故が起こらなかったとします。でもそれで「結果オーライ」だからよかった、とはならない。酔っぱらい運転が悪いのは、それによって他人に危害を加える可能性が高いからです。このように、功利主義の本質は、予測される結果をもとに判断することにあります。これが本来の「帰結主義」です。
だから、終わった後に「結果がよかったからオッケー」みたいな単純な話ではないんです。そういった理解が、功利主義に対する誤解を生んでいる部分もあると思います。
──功利主義の特徴として「帰結主義」があるから、結果オーライと勘違いされやすいんですね。
児玉 「結果論」という日本語がありますけど、功利主義における「帰結主義」とは、似て非なる概念です。帰結主義では、あくまで行為の前にその結果を予測し、その予測にもとづいて行動の善し悪しを判断する。そう理解してもらえればと思います。
もちろん、現実には裁判などで「結果」が大きく影響することもありますよね。たとえば、同じような行為でも、実際に何が起こったかによって判断が変わることもある。でも、だからといってそれがとくに功利主義的だというわけではありません。
功利主義は、ある政策や法律がどういう影響をもたらすのかを事前に予測して、その予測をもとに判断する。そういう意味で、予測が非常に重要な要素になります。
功利主義が生き延びてきた理由
──さまざまな誤解があったり、批判を受けたりしながらも、功利主義が生き延びてきた理由はどこにあるのでしょうか。
児玉 そこなんですよね。実は、「ほんとうに生き延びてきたのか?」という問題もあって。たとえば、政治哲学の分野だと、まず功利主義が登場し、それをロールズが乗り越え、さらにアマルティア・センやマーサ・ヌスバウムがその先を行く、というような史観もあります。ウィル・キムリッカの『現代政治理論』や、日本だと川本隆史(たかし)先生の『現代倫理学の冒険』がそういう見方をしています。
この見方だと、功利主義は「最初に出てきてすぐ叩かれる理論だ」という位置づけですね。とはいえ、そうした浮き沈みがありつつも、やはり消えることなく残っている。批判されやすいからこそ、議論の対象になり続けている面もあると思います。
同時に、それだけではなく、重要な思想家たちが功利主義をしっかり擁護してきた歴史もあります。歴史を振り返れば、ベンサムが功利主義を打ち出したものの、一八六〇年くらいまではマイナーな立場で、評価も低く影を潜めていたんですね。でも、ミルが力強く功利主義を主張して、その後もヘンリー・シジウィックやJ・J・C・スマート(一九二〇‐二〇一二)、R・M・ヘアなどがさまざまな批判に応答しながら功利主義を支持しました。
そして現在では、ピーター・シンガーのような大きな影響力を持った思想家がいます。シンガーの影響を受けたフォロワーも国際的に増えていて、功利主義を説得力のあるかたちで擁護しようという流れはいまでも続いています。
また、功利主義は医療や公衆衛生をはじめとした応用倫理の分野で非常に実践的な力を持っています。カントの義務論でもそうしたテーマを議論することはできますが、具体的な問題で「カントならどう言うか?」と考えるのはけっこう難しい。でも功利主義だと、帰結を考えることで、ある程度答えを導きやすい。そういう意味で、実践性が高いという強みが功利主義にはあると思います。
自由と功利主義の関係
──先ほども名前が挙がったジョン・スチュアート・ミルは、ベンサムの功利主義の継承者であるのと同時に、『自由論』(一八五九)の著者としても有名です。ミルのなかで、自由と功利主義はどのようにつながっているのでしょうか。
児玉 ミルの場合、あくまで第一原理として功利原理があって、その下に自由とか正義があります。つまり、最上位にある原理は「最大多数の最大幸福」という功利原理であって、その下に位置づけられるかたちで「自由」や「正義」といった価値がある。ミル自身、『自由論』の第一章(はじめに)でこうした考え方を示唆しています。ミルの言葉を引用してみましょう。
私の見るところ、効用こそがあらゆる倫理的な問題の最終的な基準なのである。ただし、それは成長し続ける存在である人間の恒久の利益にもとづいた、もっとも広い意味での効用でなければならない。
―――『自由論』斉藤悦則訳、光文社古典新訳文庫、三二頁
「自由」というのは、しばしば自然権や天賦(てんぷ)の権利として基礎づけが不要なものだと理解されますが、ミルはそうではなくて、功利性によって自由の価値を基礎づけようとする。つまり、自由はそれじたいですばらしいのではなくて、自由を認めることが人類全体にとって長期的な利益になるからこそ重要だという立場です。
だから、短期的には自由を制限したほうがよいように思える場合もあるかもしれません。でも、自由があることで人は多様な生き方を試し、成長できるし、たとえ失敗して一時的に不幸になるとしても、他者がその失敗から学べるという利点もあります。その経験が他者の教訓になるという意味で、社会全体の利益に資するというわけです。
ただ、当然そこには批判もありますよね。たとえば、『自由論』のなかでミルがあれだけ「自由は絶対的に守られるべきだ」と強く主張しているのに、ほんとうにそれが功利主義で正当化できるのかと。言い換えれば、多数の幸福のためなら、自由を制限してもよいのではないかという批判が常に出てくる。
──自由をどのくらい重視するかは、功利主義者によってもグラデーションがあるんですね。ミルは、自由を強く重視する功利主義者と考えていいですか。
児玉 その印象は間違ってないと思います。ミルとは逆のタイプも当然いて、エドウィン・チャドウィック(一八〇〇―九〇)のように、一九世紀前半に大きな社会問題となったロンドンのスラムの撤去や上下水道の整備など、公衆衛生や生活環境の改善のためには、個人の自由が制限されることを肯定するような功利主義者もいます。ベンサムの場合は、どちらの側面もあるように思いますね。
ミルが自由の重要性に意識的だったのは、当時すでに自由が侵害されつつあることに対して、強い危機感を抱いていたからです。とくに、法律によって自由が制限される動きには、非常に敏感でした。
たとえば公衆衛生の名のもとに、人々の住環境や行動に干渉する。あるいは「労働者はお酒を飲みすぎるから」という理由で、酒税を引き上げたり、果ては禁酒法のような制度に至ったりする。
当時、言論の自由は、フランス人権宣言やアメリカ独立宣言の流れのなかでだいぶ確立されてきた。でも、個人のライフスタイルや選択の自由については、まだまだグレーな領域があった。そこに、ミルは明確な線引きをしようとしました。それが有名な「他人に危害を加えない限り人は自由に行為できる」という「他者危害原則」です。
これは裏を返せば、本人の幸福に役立つからといって強制的に介入することは許されないということです。わかりやすい例だと、シートベルトの装着義務がそうです。ミルの考えに従うと、「シートベルトをつけたほうが安全ですよ」「命を守ってくれますよ」と説得はしたほうがいい。でも、それを法律で義務化して強制するのはよくないという立場になります。
これにも逆の立場があって、「シートベルトくらい義務化すべき」という主張もあります。一九七〇年代にオーストラリアでシートベルトの義務化が始まったとき、ピーター・シンガーがこうした趣旨のことを述べていました。功利主義にもとづいて自由が正当化されている以上、シンガーのように、状況によっては自由を制限してもよいという結論が導かれてしまう可能性も当然あるわけです。
──まさに「自由はどこまで許されるか」という問題ですね。
児玉 そうです。シートベルトの義務化はおそらくそれほど問題ではないとしても、ミルが問題にしていたような自由の抑圧は、現代でも依然としてあると思うんですよ。
『自由論』を読むと、民主主義や大衆社会の到来によって、多数派による自由の抑圧が進むのではないかという危機感が、ミルには強くあったことがうかがえます。ミル自身は「同調圧力」という言葉は使っていませんが、「周囲に合わせなければならない」といったかたちで自由が抑圧される状況は、当時もいまもあるように感じます。
現代ではSNS上での誹謗中傷(ひぼうちゅうしょう)をどこまで規制するかという問題もありますよね。ミルは言論の自由を最大限に守るという理由から、誹謗中傷のようなものも「法律や官憲が介入すべきことがら」ではなく、「世論が個々の事例の状況にかんがみて判断をくだすべき」だとしています。当然、反論はあると思いますが、ミルの議論は、いま私たちが直面している課題に対しても、考える手がかりを与えてくれるのではないでしょうか。
『哲学史入門Ⅳ 正義論、功利主義からケアの倫理まで』では、
・倫理学に入門するとは何をすることなのか
・現代に生きる功利主義――誰もが幸福な社会を目指して
・義務論から正義論へ――カントからロールズ、ヌスバウムまで
・徳倫理学の復興――善い生き方をいかに実現するか
・なぜケアの倫理が必要なのか――「土台」を問い直すダイナミックな思想
・「地べた」から倫理を考える
という6章構成で、倫理学の魅力とその可能性に迫ります。
児玉聡
1974年、大阪府生まれ。京都大学大学院文学研究科教授。京都大学大学院文学研究科博士課程研究指導認定退学。京都大学大学院文学研究科准教授などを経て現職。博士(文学)。専門は倫理学、生命倫理学。著書『功利主義入門』(ちくま新書)、『オックスフォード哲学者紀行』(明石書店)など。
斎藤哲也
1971年生まれ。人文ライター。東京大学文学部哲学科卒業。著書に『試験に出る哲学』シリーズ(NHK出版新書)、監修に『哲学用語図鑑』(プレジデント社)など。