誰も言わないけど、長生きって幸せじゃないよね?
一年ぶりに会う友人との飲み会で、つい最近、オヤジが死んだと聞かされることがあった。
お正月気分の残る1月の寒中、乾杯に続きまずはお悔やみを伝える。
「いいんだ。もういい年だったし、介護も大変だったし」
そんな友人の話に“あてにいきたいこと”があり、少し深堀りする。
「実はウチのオヤジ、55歳で死んだんです。でも今から思えば、早死したことを良かったとすら思ってます」
「それそれ!変な言い方だけど、そうなんよ。羨ましいよ」
そこから思いがけず、「親は早く死ぬべき」という話が盛り上がりをみせることになる。
新年早々にとんでもない狂人たちだと思われるだろうが、少しお付き合い願いたい。
「年上の女性をどう思う?」
話は変わるが、もう30年ほども前の1995年のこと。
年明け1月か2月だったか、大学3年生だった私は大阪伊丹から1人、JALの最新鋭機・ボーイング747-400D型機に乗り羽田に向かっていた。
フライト時間はわずか60分ほど。
そんな中、機内サービスをテキパキと済ませたスチュワーデスさん(現在のCA:キャビンアテンダントさん)が話しかけてくることがあった。
「こんにちは、桃野さんですね?」
「はい、そうです」
「今日は頑張ってね、一緒にお仕事できるといいですね」
(…??)
何のことかわからず、頭が真っ白になり言葉にならないことを答えただろうか。
21歳の大学生にとって、垢抜けた美しすぎるスチュワーデスさんから個人的に話しかけられるなど、まったく意味がわからないハプニングだ。
片思いの女性からいきなり頬にキスされたような、舞い上がりに近い混乱を感じる。
さらに着陸間際、別のスチュワーデスさんが安全確認で巡回してきた際にも話しかけられる。
「桃野さん、いよいよですね。頑張ってね!」
「え…?あ、はい!」
2度めは妙に力強く答えた気がするが、なんとなく状況を理解できた。
その時私は、JALの自社養成パイロット試験で、役員面接に向かっているところだった。
フライト前、空港カウンターで名前を告げると見慣れないチケットが手渡されたので、きっと社内用のなにかだったのだろう。
そしてCAさんに、顧客情報が共有されていないわけがない。
エアラインパイロットになるのは、子供の頃からの夢だった。
しかし航空大学校を2度落ちてしまい、就職活動の年に「最後の悪あがき」のつもりで受験したJALのパイロット試験である。
ただ当時は、就職氷河期まっただ中でANAはパイロットの採用を中止、JALもわずか30名まで大幅削減した年だった。
加えて、応募書類にはこんな申告事項まであった。
「航空大学校を何回受験したか」
「その時の結果はどうだったか」
「(落ちた人に対して)合格できなかった自己分析を記入」
私はそれに素直に、2回受験し、ともに学科は合格したこと。視力が足りずに最終合格できなかったと分析していると記入した。
言い換えれば、「2回が2回とも、視力が足りずに落ちました」と言っているのである。
学科で落ちたならまだしも、リカバリーが難しい視力で航空大学校を2回も落ちたというのなら、そもそも書類選考で落とすのが合理的だ。
当時の航空大学校は運輸省(現・国土交通省)の直轄であり、1泊2日の精密な航空身体検査を実施した上で落としたのだから、なおさらである。
にもかかわらずここまでたどり着き、美しいCAさんから個人的にエールをもらうなど、もう夢見心地でしかない。
さらにその後も、思いがけない出来事が続く。
羽田空港内にあるJALの施設に到着し、指定された狭い会議室のような部屋で待機していると、スチュワーデスさんが3人、入室してくる。
「よくここまで勝ち残ったね。緊張してると思って、ちょっと覗きに来ました!」
「はい、とても緊張しています…」
「リラックスしてね。いつも通りの実力を出せれば、きっとうまくいくから」
「はい、頑張ります」
(…騙されるな、これは面接の一部に決まっている。どこかに隠しカメラがあるかも)
警戒し、とにかく気を緩めない。
そんな中、3人目の女性がこんな事をいう。
「ところで君は、なぜパイロットになりたいと思ったの?それから、年上のスチュワーデスのことって、どう思う?」
パイロットになりたかった理由は、答えた。
年上のスチュワーデスさんをどう思うか聞かれたことについては、どう答えたのか正直、ドキドキしすぎてしまいまったく覚えてない。
結局私はこの面接で落ち、パイロットの夢は夢に終わった。
ブドウは決して酸っぱくない
ここまで駄文を読んで頂き申し訳ないのだが、お伝えしたいことがある。
先程までのJALスチュワーデスさんとの思い出は、きっと妄想だ。
いや正確にいうと、それらしい出来事はあった。
パイロット採用試験で羽田まで呼ばれ、その道中、機内でエールをもらったこと。
面接の前に、びっくりするくらいキレイなスチュワーデスさんに取り囲まれたこと。
その時におそらく、なんとなく茶化した質問にドキドキしたこと。
どんな言葉であったかはともかく、平成初期というコンプラ感の時代を考えても、きっとなにかそういうやり取りはあったのだろう。
その上でここでお伝えしたいのは、こんなことだ。
長年の夢が破れ、言葉に出来ないほどに辛く悔しい想い出のハズなのに、今となっては美しい記憶に結晶化しているということ。
なんなら、楽しかったことしか思い出せないということ。
レアな体験にワクワクした、若い日の想い出の1ページになっていること。
私はきっと、記憶を美化し、200%増しで上書きしてしまっている。
そして話は冒頭の、「親は早く死ぬべき」についてだ。
どう考えても私は、早死したオヤジと“仲良し親子”ではなかった。
悪くもなかったが、特別良いわけでもなく、ありふれた親子関係に過ぎなかった。
そんなオヤジが55歳の若さで死ぬと、葬式には驚くほど大勢の人が参列してくれた。
さらに毎年、命日には多くの人が、仏壇に線香をあげに来てくれた。
そんなオヤジの“客観的評価”に接しつつ、5年、10年といろいろな記憶が風化していく中、溶け落ちずに最後まで残ったのが「良い思い出」だった。
第一志望の高校に合格した時、掲示板の前で自分のことのように一緒に喜んでくれたこと。
職場に無理やり連れて行かれ、自慢の息子だと部下に嬉しそうに紹介されたこと(迷惑だったが)。
深夜に腹が減り冷蔵庫を漁っていると、無理やり車に乗せられ、近くのラーメン屋に連れて行かれたこと…。
振り返れば、そんな記憶の断片が強く結びつき、美しく結晶化してしまっている。
55歳という若さで、現役時代に死んだこともありなおさらである。
その一方で、介護で大変だったと語る友人は、
「オヤジのことは、いい思い出だけのままに見送りたかった」
という意味のことを繰り返す。
誤解してほしくないのだが、これは
「だから親は惜しまれるうちに、誰にも迷惑かけずにさっさと死ぬべき」
というオチに落とす話ではない。
友人も私も“自分の死に方”を、“親の死に方”に投影しているという話だ。
やがてくるであろう自分の死に際して、周囲の皆から惜しまれ、共に過ごした時間を良い思い出として記憶に残して欲しい。
そう思った時、気力・体力ともに充実し、社会のお役に立てている時に死に場所を得るのも、悪い話じゃないよね、ということだ。
親や誰かのことではなく、自分自身の生き方の話である。
そしてきっと、もし私がパイロットになれていたなら、昔の記憶はさほど美しくなっていなかったはずだ。
それどころか、人間関係や仕事のストレスに潰され、パイロットを辞めてしまっていれば、最悪の想い出にすらなっていただろう。
イソップ童話で有名な「手の届かないところにあるぶどうは酸っぱい」という例えだが、私はそう思わない。
手が届かなかったからこそ、憧れと美しさが色褪せること無く、記憶の中に残り続けることだってある。
失いたくない時に失ってしまったからこそ、追憶の想いとともにいつまでも心に残り続ける、強烈な感情がある。
お互いのオヤジを想い、生き方と死に方、死ぬべき時について語り合った、正月早々の酒だった。
“門松や 冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし”
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【プロフィール】
桃野泰徳
大学卒業後、大和證券に勤務。
中堅メーカーなどでCFOを歴任し独立。
主な著書
『なぜこんな人が上司なのか』(新潮新書)
『自衛隊の最高幹部はどのように選ばれるのか』(週刊東洋経済)
など
出張先ではなぜか、深夜に出かけて唐揚げでビール、仕上げのラーメンとかやらかしてしまいます。
出張先だから良いじゃんと思うのですが、良いわけない…(泣)
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