【天皇の命で海底100m潜って絶命】裸で引き上げられた悲劇の海女「男狭磯」の伝説
2013年に大ヒットした、岩手県三陸海岸沿いにある架空の町が舞台のNHK連続テレビ小説「あまちゃん」。その影響もあり「海女さん」という仕事が注目されるようになりました。
広大な海を目の前に、海女さんが素潜りで獲ってきた海産物を焼いてその場で食べられる「海女小屋」は、国内はもちろんインバウンド観光客にも大人気です。
実は海女さんは、日本列島では5千年くらい前の縄文時代中頃から存在していたといわれています。
そして、今から1500年ほど前の古墳時代のころ。
天皇の勅命のため、深い海底で命を落とし裸で引き上げられた「男狭磯(おさし)」という海女さんがいました。
今回は現在にも伝えられている、男狭磯の悲劇を紹介しましょう。
※海人(あま)は、男性「海士」、女性「海女」と表記されることもあります。男狭磯の伝承では、男狭磯は「男性の海士だった」説と「女性の海女だった」説がありますが、男狭磯の墓に奉納されている絵では女性として描かれているので、ここでは「海女」としてご紹介します。
古くから存在していた「海女」の仕事
海女さんは、平安時代中期に編纂された格式の式(律令の施行細則)をまとめた法典『延喜式(えんぎしき)』(928年)に登場しています。
「志摩の国の海産物をお供えする〝潜女〞は30人である。その潜女には衣服の代金として伊勢の国の税から稲束を与える」といった一文が残されています。
また、海女さんは古くから伊勢神宮との関係もありました。
伊勢神宮創建後、御神饌(ごしんせん/神の食事)を奉納するため、海産物を中心とした食物が必要となった倭姫命(やまとひめのみこと)は、志摩国の国崎(現在の鳥羽市)を訪れ、「オベン」という海女さんに出会います。
オベンは倭姫命に、御神饌として奉納するようにと、鮑(あわび)を献上しました。
それ以来、鳥羽市国崎で海女さんが獲った鮑は、伊勢神宮調進所にて伝統的な技法を受け継いだ長老たちによって「熨斗鰒(のしあわび)」という干物に加工され、毎年、伊勢神宮に奉納され続けています。
万葉集に登場する海女さんの和歌
海女さんは、『万葉集』『小倉百人一首』にも和歌の題材として登場しています。
万葉集の中で海女さんを詠ったものを、一部ご紹介しましょう。
︎飼飯の海の 庭好くあらし刈薦の 乱れ出づ見ゆ 海人の釣船(柿本人麻呂)
(けひのうみの にはよくあらしかりこもの みだれいづみゆ あまのつりぶね)意訳:飼飯の海(淡路島西岸一体の海)の漁場は、風もなく潮の具合もいいようだ。
たくさんの海人たちの釣船が、刈り獲った薦(イネ科の多年草)のように入り乱れてこぎ出ているのが見える)︎海神の 持てる白玉 見まく欲り 千たびぞ 告し 潜きする海女は (作者未詳)
(わたつみの もてるしらたま みまくほり 知度ぞのりし かづきするあまは)意訳:海の神が持っているという真珠を一目手に取って見たいと願い、何度も何度も唱え事を口にしていたよ、水に潜ろうとする海女は)
天皇に讃えられるほどの功績を残した「男狭磯」
素潜り漁をする海人・海女業は、命を落とす危険性も十分にある仕事だったために、没落商人・生活困窮者など、働き先がない人々が行なっていたこともあるそうです。
また、海女さんの場合、女性が裸で仕事をするため浮世絵や春画の題材にもなり、ときとしてエロティックな描かれ方もしていました。
ところが、徳島県鳴門市で生まれた伝説の海女さん「男狭磯(おさし)」は、ときの天皇に褒め称えられるほどの大きな功績を残し、海士・海女全体の地位を向上させた……といわれています。
けれども、その伝承は悲しいものでした。
男狭磯は、天皇の勅命を遂行しようとし海底で息絶え、裸のまま引き揚げられるという運命を迎えていたのです。
允恭天皇の勅命で命を落とした伝説の海女・男狭磯
奈良時代に成立した日本の歴史書『日本書紀』は『古事記』と並び、もっとも古い史書の一つで、養老4年(720年)に完成したものです。
その『日本書紀』巻第十三の十九代允恭天皇の条に、阿波国(現在の徳島県)の海女さん「男狭磯」が登場しています。
舞台になっているのは淡路島。当時の淡路島は「御食国(みけつくに)」(天皇が食される海産物を中心とした食物を納めた国)で、さまざまな食べ物を捧げていたそうです。
『日本書紀』や兵庫県の伝承から「男狭磯」のストーリーを簡単にご紹介しましょう。
あるとき、允恭天皇が淡路島に狩りにやってきました。その当時の淡路島は、鹿・猪・鴨・渡り鳥ほかたくさんの動物が生息し、狩猟の宝庫でした。
けれども、その日は、まったく獲物を捕まえることができなかったのです。
不思議に思った允恭天皇は、その理由を占ってみたところ、淡路島にある日本最古級の神社、伊弉諾神宮(いざなぎ神宮)の神様からお告げがありました。
それによると「私が獲物を獲れないようにしている。もし赤石(明石)の海底にある真珠をとってきてそれを私に祀れば、この島の獲物をすべて獲らせよう」ということでした。
允恭天皇は、淡路島のすべての海人達を集めて、海に潜らせます。ところが海の深さは60尋(109m)もあり、深過ぎて誰ひとりとして海底までたどり着くことはできませんでした。
「誰か潜れるものはいないのか?」と允恭天皇が家臣に問うたところ、「阿波国の長村に『男狭磯』という海女がいて、ほかの者よりも数倍深く潜れるそうです」という報告が届きます。
早速、呼び寄せられた男狭磯は允恭天皇の勅命に従い、腰に長い縄を結んで明石の海底目指してどんどん潜っていきました。
一度、浮かび上がってきた男狭磯は、「50尋(1尋=約1.6m:約80m)潜ったところで、光り輝く大きなアワビを発見した」といいます。
「それが神様のお告げにあった真珠に違いない」
「どうにかして獲れないものか」
「しかし、さっきは50尋も潜っている。もう限界だ」
など、口々に話す船上の人々。
「あと少しのところで手は届きそうだけど…」と迷った男狭磯でしたが、しばらくして意を決したように再び海に潜っていきました。
男狭磯が腰に結んだ縄はどんどん伸びていき、やがて60尋を超えようとしたときに、縄をぐっとひっぱる合図があったのです。
「それっ!」とばかりに船上の人々が縄をどんどん引き上げたのですが、残念なことに男狭磯は裸のまま、すでにこと切れた姿になっていました。
遺体となって海の底から戻ってきた男狭磯でしたが、なんと腕には大きな鮑がしっかりと抱かれていました。
割ってみると、中から桃の実ほどの大きな大きな真珠が現れたそうです。
允恭天皇は伊弉諾神宮にその真珠を納めたところ、お告げ通りに狩りでたくさんの獲物を得ることができました。
允恭天皇は男狭磯の功績を讃えて、赤石の海を見渡せる山の上に墓を立て、丁寧に弔ったそうです。
「男狭磯(おさし)」の墓とされる「石の寝屋古墳」
明石海峡を一望する高台には、合計8基からなる「石の寝屋古墳群」があり「男狭磯の墓」と伝えられています。(出土した須恵器(※)の年代から6世紀後半につくられたと見られ、允恭天皇の時代とは合致しないという説も)
※須恵器とは、古墳時代中頃(5世紀初頭)に朝鮮半島から伝わった青灰色をした硬い土器
さらに、徳島県鳴門市里浦町里浦にある十二神社にも、男狭磯の屋敷にあった「蜑井(あまのい)」と呼ばれる井戸や、「蜑井碑(あまいのひ)」「蜑の男狭磯の墓」があります。
そして、蜑井碑に奉納されている「男狭磯の絵」には「アワビおこしと思われる剣のような道具を片手に持ち、果敢に海中を及ぐ裸の海女」が描かれています。
参考:
︎兵庫県歴史博物館
︎兵庫県学校厚生会(PDF)石の寝屋 淡路町岩屋
︎淡路島日本遺産「石の寝屋古墳群」
︎徳島県神社庁
︎あわじ石の寝緑地
︎日本書記「允恭天皇(十六)淡路嶋の神の祟りと男狹磯」
文 / 桃配伝子 校正 / 草の実堂編集部