豊臣の「平和」はなぜ終わったか? 「豊臣兄弟」の歩みを明らかにする【秀吉と秀長】
2026年大河ドラマ「豊臣兄弟!」で時代考証を担当される、歴史学者の柴 裕之さんによる著書『秀吉と秀長 「豊臣兄弟」の天下一統』が発売されました。
華々しい出世を遂げた兄・秀吉の陰に隠れ、これまで知られることがなかった弟・秀長の生涯。しかし、その実像に光を当てると、秀長の存在なくして秀吉の飛躍は成し得なかったことが明らかになっています。兄弟の出生から、織田家臣としての活躍、そして本能寺の変後の主導権争いを勝ち抜き、「天下人」に登り詰めるまで――。秀吉と秀長はどのように支え合い戦国の世を生き抜いたのか。秀長亡き後、時代はどのように動いたのか。
刊行を記念し、本書のイントロダクションを公開します。
日本の戦国時代(十五世紀後半から十六世紀)は、国内各地では戦乱が相次ぐ状況にあり、それまでの政治手法や社会の秩序が揺らいで、新たなあり方が求められていた時代であった。そのなか、尾張(おわり)国中々(なかなか)村(愛知県名古屋市中村区)の百姓の子として生まれた羽柴(豊臣)秀吉(一五三七~九八)は、織田信長(一五三四~八二)に仕えて、「才覚」を発揮して出世を遂げていく。そして、主君の信長が謀反によって討たれた「本能寺の変」の後は、競い合う諸勢力との戦いに勝ち抜いて、中央に君臨した国政の主導者(天下人)となり、国内諸勢力を率いていった。こうした秀吉の生涯と業績については、江戸時代(十七世紀から十九世紀後半)以来の『太閤記』をはじめとした書物の影響で、そして現在では教科書やテレビ番組などにも取り上げられるなどして、よく知られている。
しかし、秀吉の業績は、彼一人だけで成し遂げられたわけではなく、秀吉の台頭を陰ながら支え続けた多くの人たちがいた。そのなかでも特に欠かすことのできない人物が、弟の羽柴秀長(一五四〇~九一)である。現在では、堺屋太一氏の小説の影響もあって、彼は華々しい出世を遂げた兄を支える「補佐役」として注目され、その人間像について興味関心が持たれている。けれども、彼自身の実像については、兄の秀吉に比べて彼を知るための史料(歴史研究の素材となる古文書や古記録などの資料)は多くなく、業績も秀吉の歩みに隠れてしまっている。そのため、知名度のわりにまだわかっていないことが多い。しかし、秀長の存在があったからこそ、秀吉は天下人へと飛躍を遂げることができた。彼の早すぎる死が、その後の天下人秀吉を主宰者とした政権(豊臣政権)の行く末に影響を与えていったことは間違いない。
そこで、秀吉・秀長兄弟がどのようにして織田信長のもとで台頭していったのか。そして信長死後の政治情勢のなかで、どのように秀吉は天下人へと飛躍し、秀長は兄の秀吉を支え、また天下人となった秀吉のもとで豊臣政権を成立させ、国内諸勢力の統合としての「天下一統」を達成させていったのか。その後、豊臣政権はどうなっていったのか。本書では、これらのことを、秀吉・秀長兄弟の歩みをたどりながらみていきたい。
その歩みをたどるにあたって、後世に編纂された史料は後世の人による評価を伴うため扱いに慎重を期し、できる限り彼らが活躍した時代に近い“同時代史料”を使用する。また、背景にある当時の時代・社会を強く意識したうえで、彼らの歩みをみていきたい。それは、現在の私たちは彼らの主君である信長も含めて、自分たちが生きる時代や社会に引きつけて彼らの人物像をとらえ、時代や社会を変革する存在のような評価をしてしまいがちだからだ。彼らの実像は、彼らの活躍した時代や社会に基づいて、その時代や社会に生きた“同時代人”としてとらえていく必要がある。本書では、“同時代”という観点を強く意識して、彼らの歩みをみていき、その実像にも可能な限りせまりたい。
なお、筆者はこれまでに秀吉・秀長の主君であった信長については、同様の観点から、単著『織田信長――戦国時代の「正義」を貫く』(平凡社〈中世から近世へ〉、二〇二〇年)、秀吉については編著として『図説 豊臣秀吉』(戎光祥出版、二〇二〇年)を上梓している。本書の執筆にあたっては、それらの記述内容もふまえているので、合わせて読んでいただければ幸いであるが、本書には最新の成果をできる限り取り込んだ。しかし、なかにはまだ検討を要するもの、研究者間でも論争となっている点もある。これらは、今後解明されていくべきものである。また、記述内容のなかには現時点の知見を加え、それまでの筆者の見解を改めたところもある。したがって、本書の記述が、秀吉・秀長兄弟および豊臣政権についての筆者の最新成果であるととらえてもらって構わない。
本書の主人公である羽柴秀吉・秀長兄弟は、一般的には「豊臣秀吉」「豊臣秀長」として知られている。しかし、これから本文でみていくが、豊臣は天正十三年(一五八五)九月に秀吉が関白職を独占すべく朝廷に申請して創出した氏姓(氏族としての苗字)であり、羽柴は家の苗字である。通常、例えば織田信長を「平信長」、秀吉死後の天下人となった徳川家康(一五四二~一六一六)を「源家康」といわないように、当時の人物は氏姓ではなく、苗字を冠して呼ぶのが一般的である。そこで、本書では秀吉・秀長兄弟とその親族(甥の秀次〔一五六四?~九五〕や秀吉の後継・秀頼〔一五九三~一六一五〕など)を羽柴苗字で表記する。ただし、天下人の秀吉を主宰者とした中央政権、さらには中央による地方統率のもとで国内諸勢力を統合することにより成った「天下一統」の進展に伴っての全国政権については「豊臣政権」、その従属下の領国大名・小名(しょうみょう。郡規模の小大名)については、「豊臣大名・小名」とする。また、細かいことではあるが、本書ではそれぞれの家権力体に「○○家」、その運営に携わる主体としてあった家長・当主とその周辺の権力中枢の人物(妻や一門、宿老・側近)らを含む呼称として「○○氏」を使用する。
続きは『秀吉と秀長 「豊臣兄弟」の天下一統』をお楽しみください。
柴 裕之(しば・ひろゆき)
東洋大学・駒澤大学非常勤講師。1973年生まれ。東洋大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得退学。博士(文学)。現在、東洋大学・駒澤大学非常勤講師。著書に『徳川家康──境界の領主から天下人へ』『織田信長──戦国時代の「正義」を貫く』(ともに平凡社)、『清須会議──秀吉天下取りへの調略戦』(戎光祥出版)、編著書に『豊臣秀長』『図説 豊臣秀吉』(いずれも戎光祥出版)など多数。
※刊行時の情報です