第17回『東宝映画スタア☆パレード』岡田茉莉子&有馬稲子 東宝に居場所を見つけられなかった〝悲運〟のヒロインたち
今でもスタジオ入口に『七人の侍』と『ゴジラ』の壁画を掲げる東宝。〝明るく楽しいみんなの東宝〟を標榜し、都会的で洗練されたカラーを持つこの映画会社は、プロデューサー・システムによる映画作りを行っていた。スター・システムを採る他社は多くの人気俳優を抱えていたが、東宝にもそれに劣らぬ、個性豊かな役者たちが揃っていた。これにより東宝は、サラリーマン喜劇、文芸作品から時代劇、アクション、戦争もの、怪獣・特撮もの、青春映画に至る様々なジャンルに対応できたのだ。本連載では新たな視点から、東宝のスクリーンを彩ったスタアたちの魅力に迫る。
ともに1951年、東宝のスクリーンで女優デビューした岡田茉莉子と有馬稲子。二人とも、自分が演じる役柄や作品についてはっきり主張をしたことで知られるが、結局は東宝に居場所を見つけられなかった〝悲運〟のヒロインということもできる。今回は二人の東宝時代の〝波乱〟の軌跡を追ってみたい。
伝説の二枚目俳優・岡田時彦を父に持ち、1933年1月に生まれた岡田茉莉子。子供時代はその存在を知らずに育つが、東宝の文芸部にいた叔父・山本紫朗の勧めで東宝演技研究所の聴講生となる。二十日も経たないうちに川端康成原作・成瀬巳喜男監督の『舞姫』(51)に起用されるという異例の厚遇を受けたのは、父の威光もあったろうが、なにより成瀬がその将来性を見出したからに他ならない。
岡田茉莉子の名付け親は、父の名前も付けた谷崎潤一郎。しかし、こうした特別扱いに研究所の仲間が反発、スタート時から「高慢・生意気な女優」というレッテルを貼られてしまう。岡田にとって、父の名声がむしろ重荷となったことは確かだ。
その年の秋には東宝専属となった岡田。同じく第三期ニューフェイスの小泉博と恋人役を演じた『青春会議』(52)で奔放な「アプレゲール」とみなされ、丸山誠治の『思春期』ではスカートをまくり上げた姿がポスターに採用され、これが盗まれるほどの騒ぎに発展。さらに、父の作品のリメイク『足にさわった女』(市川崑監督)出演に不満を覚えたり、豊田四郎の『春の囁き』で撮影技師からいわれなき非難を受けたりと、岡田の苛立ちは募る一方となる。
再度の成瀬作『夫婦』(53)や原節子と顔合わせした『白魚』でもアプレ女優のイメージを消すことができず、熊谷久虎や山本嘉次郎から教えられた演技術(スターは演技をしなくてよい)にも悩まされた岡田。そんな中でも『夜の終わり』や『坊っちゃん』では池部良、『吹けよ春風』では三船敏郎と共演。22本の作品に出て女優としての基盤を築きつつあった彼女に、ようやく完全なる主演作がもたらされたのが『芸者小夏』(54)だった。
▲『芸者小夏』を取り上げた「東宝ニュース」第25号(寺島映画資料文庫提供)
役柄が芸者とはいえ、岡田は初めて大人の女を演じる喜びに震える。入浴シーンのポスターが盗まれたのも『思春期』以来で、池部とのラブシーンも「とても素晴らしかった」と本人から褒められたほど。ラッシュを見た岡田が手応えを感じたとおり、映画はヒットに恵まれる。しかし、この映画の成功が重い足かせとなるとは、本人ですら想像もしていないことだった。
『風立ちぬ』『君死に給うなかれ』『潮騒』『宮本武蔵』などで、自分がやりたかった役が他の女優に回っていったことに不満を覚えていた岡田は、岸惠子と久我美子の文芸プロダクション「にんじんくらぶ」に加わった有馬稲子を意識したものか、54年秋の再契約を渋り、55年3月には東宝に退社の意向を示す。
会社から遺留を受け、渋々ながら11月に再契約に応じた岡田。その間出演した『浮雲』(55:またも入浴シーンが評判となる)で、成瀬に「上手いね」と演技を評価されはしたものの、〈役を演じること〉への疑問は募るばかり(※1)。続く『男ありて』(珍しく普通のお嬢さん役)への出演に会社が反対していると知るや、岡田は撮影所長と直談判に及び、この役を獲得する。特定の役ばかり演じることに、ほとほと嫌気がさしていたのであろう。
その後、森繁久彌や三船との共演作(※2)もあったが、「女優としてのイメージと闘う」日々が続く岡田に、会社が要求したのは、またもや芸者役=『芸者小夏』の続編だった。
56年の成瀬作品『流れる』では、父と共演経験のある栗島すみ子、田中絹代、高峰秀子や、山田五十鈴、杉村春子と演技を競い合う貴重な体験をしたものの、今度も芸者役だったことにウンザリした岡田は、いよいよその年11月の再契約を保留、57年3月に正式にフリーの立場を選ぶ。よって成瀬とのコンビも、この映画が最後となった。
▲『流れる』を紹介する「東宝」55年11月号グラビア(寺島映画資料文庫提供)
後年、東宝時代の思い出は「原節子と結髪部屋で食事を共にし、楽しく話をしたことしかない」と語った岡田。彼女にとって東宝は、やはり居心地の良い会社ではなかったのだろう。
▲「東宝」56年2月号・同7月号表紙(寺島映画資料文庫提供)
一方の有馬稲子は1934年4月生まれ。複雑な家庭環境のもと、韓国と日本を往復する幼少期を送り、戦後、漁船での密航という劇的な方法で引き揚げると、大阪の実父のもとで辛い少女時代を過ごす。
過酷な現実から抜け出すべく受験した宝塚音楽学校に、難関を突破して合格(943人中69人)したのは、養母から習った日舞の腕もさることながら、中学の学芸会で「美少年」と称された端正な容姿が買われたものであろう。
翌49年に進んだ宝塚歌劇団では花組に編入。養母の名を継いで「有馬稲子」を名乗る。
50年、早くも頭角を現した有馬は、東宝『寶塚夫人』(51)で映画初出演。映画に向いていたのか、豊田四郎監督『せきれいの曲』のヒロイン(音楽学校の生徒役:美智子上皇后も記憶に残ると有馬に語った)に抜擢、千葉泰樹監督『若人の歌』では池部良の恋人役を務める。
52年秋、東宝から『ひまわり娘』への出演を請われ、渋っていた歌劇団側も了承。53年1月に東宝入りが決まった有馬(※3)が「演技の勉強になる仕事にだけ出してほしい」、「俳優座で演技の勉強をさせてほしい」と求めたことや、『二十四の瞳』の原作権を得るべく自ら壷井栄のもとに出向いた逸話からは、彼女の強い上昇志向が窺える。
「第二の原節子」として売り出しを図る東宝が有馬に与えたのは、水谷八重子の娘役『母と娘』、池部良とのコンビ作『都会の横顔』、小泉博と結ばれる『幸福さん』など、いずれも主役級の役柄ばかり。しかし、彼女の満足度は低く、マスコミへの対応を拒んだりしたことが会社の不興を買う。
「ごてネコ」と綽名されたばかりか、『都会の横顔』の清水宏監督などは「あいつは生意気だからほっとけ!」と、食事を共にすることもなかったほど。『幸福さん』の千葉泰樹からも「えらく暗い子だね」と評されたという。
左翼系プロダクションによる『にごりえ』(今井正監督)出演が難しかったのは当然としても、54年1月の再契約の際に認めさせた他社出演はなかなか叶わず、『雪国』など、自ら提案した企画で実現したのは『泉へのみち』(55)のみ。市川崑の『わたしの凡てを』(54)や、やっと使ってもらった成瀬巳喜男の『晩菊』も小さい役でしかなく、やはり今井正の独立プロ作品『ここに泉あり』出演を拒否された有馬は、(東宝所属のまま)「にんじんくらぶ」への参加を決意する。
オムニバス作品『愛』(54:若杉光夫監督)で初めて、強硬的手段により他社出演を果たした有馬。続いてオファーがあった日活『愛と死の谷間』と新東宝『億万長者』も出演を認められず、東宝への不満は募る一方。『君死に給うなかれ』では病気降板の憂き目にも遭う(代役を務めたのは司葉子)。
かくして、念願の企画『夫婦善哉』撮影中止(再開の折は淡島千景が有馬の役を演じた)の一件で東宝との軋轢は決定的となり、自宅に引き籠った有馬は辞表を提出。『泉へのみち』公開後の55年3月に退社が認められ、フリーの立場で松竹入社の運びとなる。
女優意識の高さ・自己主張の激しさから、穏やかな社風の(池部良は「サラリーマン会社」と称した)東宝を飛び出した岡田と有馬の二人は、移籍先の松竹でもライバル関係を運命づけられる。
渋谷実監督『もず』(61)では、「淡島千景の娘」役(二転三転の末、岡田から有馬にスライド)を巡ってトラブルに発展。松竹が配慮したものか、そもそも少なかった二人の共演作は同じく渋谷実の『大根と人参』(65)くらいしかない(※4)。
そんな二人が東宝時代に共演したのが『愛人』(53)という映画だ。市川崑のスピーディーでテンポの良い演出に酔わされる本作で、有馬は映画監督・菅井一郎の娘、岡田は舞踏家・越路吹雪の娘に扮し、親同士の結婚により二人は義理の姉妹となる。
映画監督一家が住む洋館は成城で撮影され、ロケを目撃した方に聞くと、このとき岡田はお付きの人に、「私は今日、ご機嫌がよくない」と言って、不貞腐れた様子を見せていたというから、すでに不満が溜まっていたのだろう。
有馬にとってはやりがいを感じ、市川と危ない関係になるきっかけともなった本作。自著では、撮り直しを要求した有馬に監督が簡単にOKを出したことに、岡田がかなりカチンときていた様子が記されている。二人が並び歩く成城桜並木シーンからは、のちのライバル関係を見越したかのような緊張感が伝わってくる。
▲『愛人』で成城の桜並木を歩く二人 イラスト:Produce any Colour TaIZ/岡本和泉
翌54年の『結婚期』でも共演した二人。有馬が主演の鶴田浩二から求婚を受ける役だったのに対し、岡田はここでも芸者役という相変わらずの扱い。これでは会社を辞めたくなるのも無理はない。
不満の塊だった二人の東宝時代。しかしながら、これらの出演作に光を当ててほしいと願うのは、もしかすると当のご本人たちかもしれない。二人の東宝映画には、実際それだけの魅力が備わっている。
※1 岡田は自著に、高峰秀子や森雅之は「役を演じているのではなく、自分自身を演じていたのだろう」と記している。
※2 のちに岡田は、三船敏郎と『人間の証明』(77)と『制覇』(82)で共演。有馬稲子のほうは、初主演作『ひまわり娘』で共演した三船との再会は果たしていない。
※3 このとき有馬が住んでいたのは砧六丁目。奇しくも成瀬巳喜男邸と早坂文雄邸に挟まれた家だったが、成瀬とは『晩菊』(54)で組んだのみとなる。
※4 のちに二人は吉田喜重『告白的女優論』(71)で共演を果たす。
高田 雅彦(たかだ まさひこ)
1955年1月、山形市生まれ。生家が東宝映画封切館の株主だったことから、幼少時より東宝作品に親しむ。黒澤映画、クレージー映画、特撮作品には特に熱中。三船敏郎と植木等、ゴジラが三大アイドルとなる。東宝撮影所が近いという理由で選んだ成城大卒業後は、成城学園に勤務。ライフワークとして、東宝を中心とした日本映画研究を続ける。現在は、成城近辺の「ロケ地巡りツアー」講師や映画講座、映画文筆を中心に活動、クレージー・ソングの再現に注力するバンドマンでもある。著書に『成城映画散歩』(白桃書房)、『三船敏郎、この10本』(同)、『七人の侍 ロケ地の謎を探る』(アルファベータブックス)、近著として『今だから! 植木等』(同2022年1月刊)がある。