あの日から30年、今も神戸の人たちの心を支え続ける阪神淡路大震災復興支援の曲となった 内山田洋とクール・ファイブ「そして、神戸」
ムード歌謡コーラスグループがヒット最前線をにぎわせた時代があった。「お座敷小唄」や「愛して愛して愛しちゃったのよ」などのヒットで知られる和田弘とマヒナスターズが、そのジャンルの開拓者であり、確立させた立役者と言えようか。1957年に作曲家・吉田正門下に入り、ムード歌謡コーラスグループとしてデビュー。58年に出した「泣かないで」が、ムード歌謡〝マヒナ〟の人気を決定的なものにした。翌59年のNHK紅白歌合戦にも初出場を果たしている。その時代は、ムード歌謡というジャンルでは、フランク永井や松尾和子などが活躍しているが、ことグループとなるとマヒナスターズの独占市場のような感じだった。
時を経て60年代後半になると、「ラブユー東京」「たそがれの銀座」の黒沢明とロス・プリモス、「小樽のひとよ」「君は心の妻だから」の鶴岡雅義と東京ロマンチカ、「知りすぎのねた」「コモエスタ赤坂」のロス・インディオス、「思案橋ブルース」の中井昭・高橋勝とコロラティーノなどが次々にヒット最前線に躍り出し、70年代に入ると、「わたし祈ってます」「星降る街角」の敏いとうとハッピー&ブルー、コミックバンド出身の平和勝次とダークホースまでもが「宗衛門町ブルース」をヒットさせている。そんななかで、内山田洋とクール・ファイブも69年に「長崎は今日も雨だった」でデビューした。
オリジナルメンバーは、リーダーでギター担当の内山田洋、メインボーカルの前川清、キーボード担当の宮本悦朗、ベース担当の小林正樹、サックス&フルート担当の岩城茂美、ドラムス担当の森本繁。全員九州出身だ。それぞれの顔を思い浮かべることができるのは、75年に放送が始まった〝欽ちゃん〟こと萩本欽一の人気バラエティ番組「欽ちゃんのドンとやってみよう!」(フジテレビ系列)に、前川清はじめ全員がレギュラー出演し、欽ちゃんとのやりとりでメンバーのコミカルな個性が引き出されたためだろう。前川清も欽ちゃんにより、〝天然ボケ〟のような自身のもつ喜劇的側面を引き出され人気者になった。
69年2月にリリースしたメジャーデビュー曲「長崎は今日も雨だった」が大ヒットし、オリコンシングルチャートでも2位まで上昇した。第11回日本レコード大賞では「風」のはしだのりひことシューベルツ、「真夜中のギター」の千賀かほる、「みんな夢の中」の高田恭子とともに新人賞を受賞した。最優秀新人賞はピーターの「夜と朝のあいだに」だった。ちなみに大賞は佐良直美の「いいじゃないの幸せならば」、最優秀歌唱賞は「港町ブルース」で森進一が受賞している。受賞発表の模様がTBS系列で12月31日に生放送されるようになった最初の年で、司会を昭和の名アナウンサー高橋圭三と、この年ブームの人となった浅丘ルリ子が務めていた。
NHK紅白歌合戦にも、いしだあゆみ、奥村チヨ、由紀さおり、森山良子らとともに初出場を果たした。その後も初のオリコンシングルチャート1位となった「逢わずに愛して」、「愛の旅路を」、「噂の女」などヒット曲を出し、紅白歌合戦には通算11回出場している。前川清がマイクを片手に、直立不動で歌唱する姿が特徴的で、表情も変えることなく歌の詩情を表現する歌唱力は特筆に値するだろう。生真面目な人間性ともとらえられるその姿は、大衆にも好感をもって受け入れられた。昨年12月に放送され話題になった71年の紅白歌合戦では、前川清が急病のため出場できず、当時の前川の妻だった藤圭子が自身の持ち歌の後にクール・ファイブの「港の別れ歌」をクール・ファイブのメンバーをバックコーラスに披露し、話題になった。
クール・ファイブ14枚目のシングルとして「そして、神戸」がリリースされたのは72年の11月だった。オリコンシングルチャートでも6位というヒットだったが、その年の紅白歌合戦にはなぜか出場していない。作詞は「わたしの彼は左きき」「なみだの操」「ひと夏の経験」の千家和也、作曲は「終着駅」「舟歌」「石狩挽歌」の浜圭介、編曲は「君といつまでも」「わたしの城下町」「よろしく哀愁」の森岡賢一郎で、浜圭介はレコード大賞作曲賞を受賞している。また、楽曲は日本有線大賞の大賞を受賞している。紅白歌合戦では内山田洋とクール・ファイブとして「そして、神戸」が歌唱されることはなかった。
前川清がクール・ファイブを脱退してソロ活動を本格的に始めたのは87年だった。クール・ファイブ時代にも、82年にはソロ歌手として、糸井重里作詞、坂本龍一作・編曲の「雪列車」などをリリースしていた。クール・ファイブのボーカルとはまた趣を異にする、歌手・前川清の新たな魅力が引き出されたような楽曲だった。そして、91年にソロとして初めて紅白歌合戦に出場したときの歌唱曲が「そして、神戸」だった。前川清としては2008年まで連続18回紅白歌合戦に出場しているが、なんと4回も「そして、神戸」を披露している。
阪神淡路大震災が起こった95年の紅白で、前川は被災者への応援メッセージの意味も込めて「そして、神戸」を歌った。「そして、神戸」は別れを綴った歌詞であったため、被災し多くの大切な人たちとの別れを体験した神戸の人たちにとってつらい曲ではないかと考えた前川は、いったんは「そして、神戸」の歌唱の封印を決めたが、その封印を解いたのは他ならぬ被災者の想いだった。
美しい神戸の風景、愛する人たちの笑顔と、その想い出は、辛い別れがあっても、後に残された人たちにとっては決して忘れることのできない大切なメモリーであり、むしろ生きてゆく勇気につながったのかもしれない。それは震災を経験し、たとえようのない悲しみを背負った人でなければわからないが、95年の紅白歌合戦に前川の出場が決まったとき、被災者の多くから、前川へ、そしてNHKにも「そして、神戸」への多くのリクエストがあったと聞く。前川の歌声に、神戸の夜景の生中継が重ねられた。神戸の人たちは、どんな想いでその景色をみているだろうかと想像したとき、胸がしめつけられた。
「そして、神戸」は、被災者の心の支えになっていたのだ。その思いを知った前川は、大震災から30年経った今も、神戸の人々の心を支え続ける「そして、神戸」を、震災を経験した人たちの悲しみに寄り添いながら襟をただして歌い続け、「この歌を誰もぼくのようには歌えないと思っています」と言い切る。使命としてこの曲を歌い続けるといった強い心を感じさせられる。
歌い出しの「神戸、泣いてどうなるのか」という歌詞がなんとも切なく心に響く。その後2004年の紅白ではゴスペラーズとの共演で、2007年にはクール・ファイブとの共演で、披露している。ぼくは大震災の前年の94年に、当時編集を担当していた雑誌で、関西国際空港の開港をベースにして「素顔の神戸」という特集企画を組み一週間近く神戸の街を取材し、多くの人たちの温かい心に触れた。震災の模様を伝えるニュース映像からは、あまりにも様変わりした、ぼくの知らない神戸の街が映し出されていた。取材のときも、そうだったが、毎年1月17日の声を聞くと、ぼくの頭の中で「そして、神戸」のイントロが流れ始める。それにしても「そして、神戸」というのは、なんていいタイトルだろう。
文=渋村 徹 イラスト=山﨑杉夫