岡山県津山市「城東・城西地区」。城下町にある2ヶ所の重伝建の魅力を生かし、通過型から滞在型の観光をめざした街づくり
一つのエリアに城東・城西という2ヶ所の重伝建がある小京都・津山市
岡山県北部に位置する津山市。人口約9万5千人を有する、岡山県北部の中心都市だ。かつて美作国の中心部として栄え、江戸時代初期の1603年(慶長8年)には、織田信長の家臣として知られる森蘭丸(森成利)の弟・森忠政が18万6500石を領有する初代津山藩主になった。翌年に忠政は津山城を築城し、城下町を整備。その城下町が現在の津山市中心市街地の前身である。
津山盆地の中央に位置する津山城下は、姫路と出雲を結ぶ「出雲街道(出雲往来)」が東西に貫通しており、街道沿いに町人地を配置。津山は城下町であると同時に、宿場としても栄える。さらに岡山県三大河川の一つである吉井川が流れ、かつて津山は交通の要衝として高瀬舟が行き交い、繁栄した歴史もある。
津山市は県庁所在地のような拠点都市でないため、大規模な都市開発が少なかった。加えて戦災をまぬがれた津山の街は、現在も古い建造物や寺社が残っており、小京都としても知られている。さらに津山は江戸時代に「養生食い」の習慣として牛肉食が許されていた土地柄。そのため近年、津山市は「ホルモンうどん」や「ヨメナカセ」「干し肉」「そずり肉」など、独特の牛肉文化がある地域としても知られるようになった。
長い歴史がある津山城下には、「城東」「城西」という二つの重要伝統的建造物群保存地区(以降「重伝建地区」)が存在する。一つのエリア内に二つの重伝建地区があるのは、全国的にも少ない事例だ。両地区とも重伝建に選定にされたのは比較的最近で、城東地区は2013年(平成25年)、城西地区は2020年(令和2年)の選定である。
城東・城西という呼び名は、城下町の東側・西側に位置するために自然発生的に生まれた呼び名。両地区とも出雲街道を中心としている。現在も町家や寺社が多く建ち並び、江戸時代〜明治・大正時代の情緒が色濃く残る。
2010年代以降、2地区が相次いで重伝建に選定された津山市。重伝建選定に至るまでの津山市における町並み保存の取組みや現状、今後の課題などについて、津山市役所の観光文化部 文化課 文化財保護・活用係の廣瀬 幸子(ひろせ さちこ)主査に話を聞いた。
県による町並み保存地区指定が契機になった城東の町並み保存活動
廣瀬主査は「城東と城西では、町並み保存に取り組んだ経緯も時期も異なるのです。町並み保存のきっかけは城東が行政だったのに対し、城西は民間の活動がきっかけとなりました」と話す。「町並み保存の取組みが始まったのは、城東が早いです。取組みが始まる契機になったのは、1986年度(昭和61年度)に岡山県が独自に定めた町並み保存地区に城東が指定されたことでした」と廣瀬主査。
1986年度の町並み保存地区指定を受け、津山市では「城東町並み保存計画」を策定した。指定されたのは出雲街道沿いの約1.2kmにわたる区域。1988年度(昭和63年度)より対象区域内の家屋調査を開始する。調査結果を受け、1989年度(平成元年度)より町並み保存の推進のために津山市の独自事業として「町並保存対策補助事業」を始めた。建造物の修理・修景に関わる費用を補助することで、町並み保存をしやすくするものである。その後、市は「城東むかし町家(旧 梶村邸)」「作州城東屋敷」など、歴史的建造物を生かした施設の整備も行う。行政から始まった町並み保存の取組みは、次第に住民の意識も変えていったという。
廣瀬主査「2000年代以前も、城東地区の重伝建選定をめざしたことがありました。しかし条件面がクリアできなかったり、住民の方の同意を得るのが難しかったりして断念。そこで、津山市独自の町並み保存を行う道を選んだのです。その後、再び重伝建選定をめざす動きが出ました。そのきっかけは相次いで起こった災害です」
1998年(平成10年)、台風の影響で床上浸水が発生。さらに2001年(平成13年)以降、相次いで火災が発生した。2001年から2006年までの5年間だけでも、城東地区で8件の建物で火災があり、全焼したケースもあったという。行政や住民は「このままでは歴史的な遺産である町並みがいつかなくなってしまうのではないか」という危機感を持ち、重伝建の選定へ向けて動き出した。
廣瀬主査は「重伝建に選定されると、国から町並み保存に関わるさまざまな支援を受けられます。これは市や住民にとって町並み保存活動においてプラスになり、負担の軽減が期待できました」と語る。
そして一気に重伝建選定に向けた取組みがスタートした。2009年度(平成21年度)に市は「津山市歴史的風致維持向上計画」を策定し、国の認定を受けた。城東地区内の一部の無電柱化などの事業を実施する。こうして城東地区は県の町並み保存地区指定から約27年の歳月をかけ、ついに2013年8月に「津山市城東」として、重伝建に選定されたのである。
出雲街道沿いに発展した近世の商家町の趣を残す城東地区
城東地区は津山城下の一部であり、城下町東部に位置する。重伝建に選定されているのは、吉井川と並行するように東西に延びる出雲街道沿いの約1.2kmにわたる約8.1haのエリア。町人地であり、江戸時代から明治・大正時代を経て昭和時代の戦前ごろまで商家町として栄えた。
現在も江戸時代初期の町割りがよく残っており、江戸時代の町家を中心に、昭和戦前期までの町家建築が建ち並ぶ町並みが一体的に残っている。また街道は重伝建地区内で3ヶ所、カギ型に屈折する。これは城下町や宿場などで見られる防衛上の工夫であり、江戸時代の名残のひとつだ。
城東地区の町家は、江戸時代の町家に多かった間口が狭く奥行きが長い、俗に「ウナギの寝床」と呼ばれる敷地割。間口の幅は一定していないが、奥行きはおよそ17間が原則だったと考えられている。これらの特徴も多く残されているという。
城東地区のおもな町家は、切妻・平入を基本とした「厨子(つし)2階建」が多いことが特徴である。厨子2階建は、低い天井の2階を有した建物のこと。町人は2階建ての建物の建造を禁じられていたため、物置用途として低い天井の2階を設けた。城東には江戸時代の建物が多く残っているため、厨子2階の建物が多いのである。
また厨子2階建の町家の多くは、出格子窓(でごうしまど)や格子戸、虫籠窓(むしこまど)、なまこ壁、袖壁(そでかべ)などの意匠が施されている。
城東地区を代表する伝統的建築物として、津山出身の幕末を代表する洋学者・箕作 阮甫(みつくり げんぽ)の旧宅(史跡)があり、切妻・平入で厨子2階建ての城東にある典型的な町家である。また江戸時代に造り酒屋だった「旧苅田(かんだ)家住宅および酒造場」(重要文化財)、豪商だった旧梶村家住宅を整備した「城東むかし町家」(登録有形文化財)などがある。
ほかにも町家建築を生かし、飲食店や小売店・宿泊施設などが営業している。
住民の地域活性化の取組みから始まった城西の町並み保存活動
1986(昭和61)年から始まった城東地区の町並み保存活動に対し、城西地区での本格的な町並み保存の活動は2010年代後半からだという。もともと津山市街地は戦災をまぬがれたこともあり、城東地区以外にも歴史的な建造物は市内に点在している。城東以外の地区の中でも、城西には比較的多く建造物が残るエリアだった。1992年(平成4年)に津山市が、明治時代に銀行として建てられた建造物を「作州民芸館」として整備したが、これ以外に「面」としての町並み保存の目立った取組みはなかった。
城西地区では町並み保存の取組みより前に、地元有志による地域活性化の活動が行われている。1996年(平成8年)から毎年10月に「城西まるごと博物館フェア」というイベントを開催。これは地区内を博物館ととらえ、住民が地域の歴史や財産を知るとともに、訪れる人に地域の魅力を知ってもらうものだ。地区内の一部を歩行者天国にし、伝統工芸品の実演や販売が行われたり、露店がたくさん立ち並んだりし、かつての町人地らしさがあふれている。
廣瀬主査によると「2011年(平成23年)、城西地区で住民有志による『城西まちづくり協議会』が結成されました。城西地区の町並み保存活動が始まる契機となったのは、2013年に城東地区が重伝建に選定されたこと。また同年には、城西地区にある本源寺(ほんげんじ)の本堂・庫裏(くり)が重要文化財に指定されました。これを受けて、住民から城西地区の町並み保存の必要性の声が大きくなったのです」とのこと。
そして市は、2016(平成28)年度に「津山市景観条例」を施行。城西を景観形成重点地区に指定した。さらに地元住民から、城西地区の重伝建選定をめざしてほしいとの要望書が提出される。住民の声が、行政を動かしたのだ。
翌2017年度(平成29年度)から2年をかけて城西地区の保存対策調査を実施し、建造物の状況確認を始める。
2018年度(平成30年度)に 「津山市歴史的風致維持向上計画(第2期)」を認定し、さらに2020年度(令和2年度)には「城西伝統的建造物群保存地区保存活用計画」を策定した。これは城西地区の伝統的建築物群の保存活用計画を定めたもの。
これらの計画により、同年に城西地区は重伝建に選定されたのである。そして翌2021年度(令和3年度)より、城西地区の伝統的建築物の修理・修景事業が開始された。一見すると昭和の雰囲気をした外観でも、建物の躯体としては伝統的な建築が残されているものが多いという。そのため重伝建に選定されたのだが、外観を往時のものに復原するために修理していく作業が必要なのである。
また城西地区では寺町の特徴を生かし、住職の案内による街歩きと坐禅体験を組み合わせたイベントなど、趣向を凝らした行事も実施されているという。「城東地区という良い前例がありますので、城西地区も町並み整備を地域のにぎわい向上につなげていきたいですね」と廣瀬主査は期待を寄せている。
近世の寺町・商家町と近現代の近代建築が特徴の城西地区
城西地区は津山城下の一部で、城下町の西部にあたる。出雲往来沿いの町人地で、江戸時代より商家町として栄えた。また地区内西部は寺町であり、歴史ある寺院が多く所在する。江戸時代の商家町としての町家と寺院、そして明治から昭和戦前期の近代建築が織りなす町並みが、城西地区の特徴だ。
森忠政は城下町整備に伴い、城下の東・西・北に寺町を配置した。これは城下町で多く見られ、戦時に城の防衛の砦にする意図がある。城西地区の寺町は津山城下最大の寺院集積地で、「西寺町」の地名が付けられた。ちなみに東の寺町は、城東の重伝建地区の北側にある。
明治時代になると1897年(明治30年)に鉄道が開通し、中国鉄道の津山駅が設置された。当時の津山駅は、現在のJR津山口駅にあたり、城西地区の吉井川を挟んだ対岸に位置する。そのため城西地区は、旧城下町だった津山市街地の玄関口になった。人やモノは、城西地区を通過して津山市街地と駅を往来したことで、商業地として栄えたのである。
城西地区も城東地区と同じく、街道沿いに江戸時代の商家町の町割りをよく残す。また、城西地区の町家ならではの特徴として「軒切り(のきぎり)」がある。昭和初期に自動車の普及にともなって、自動車が通行しやすくするために行われた。軒の道に飛び出た部分を切り落とし、軒を支える柱を内側に移動させ、1階の下屋(げや)部分を撤去して新たな庇(ひさし)が設けられている。城西地区のうち、西今町で多く見られ、町内で一斉に実施されたとみられる。
明治以降の近代建築として特筆すべき建築物が「作州民芸館」(国登録有形文化財)である。鉄道開通後の1909年(明治42年)に地元の資産家・土居家の個人銀行・土居銀行として建てられた。近代に津山の玄関口として栄えた城西地区の歴史を象徴している。ルネサンス調の洋風木造建築で、城西の町並みの中核的な建造物といえよう。
城西地区の寺院の中で、とくに規模が大きいのが「本源寺」である。江戸時代初期の1607年(慶長12年)に創建された臨済宗の寺院で、森家の菩提寺であった。城西地区で最古の寺院である。本堂と庫裏(くり)等が国の重要文化財に指定されており、荘厳な総門(高麗門)は江戸時代後期に建てられた。西寺町には、江戸時代に本源寺をはじめ22の寺院があったとされ、現在も13の寺院が西寺町に残る。
このほかにも重伝建地区の範囲からは外れているが、城西地区には国登録有形文化財になっている旧中島病院本館だった「城西浪漫館」や、武家屋敷だった旧田淵邸の敷地に整備された「津山城下町歴史館」などもある。
重伝建選定によるイメージアップやブランド力向上により、出店者や移住者が増加
重伝建に選定されたことにより、津山市にはどのような影響があったのだろうか。廣瀬主査によれば「城東は重伝建の選定から約10年が経ちました。重伝建選定以降、空家だった町家を生かしたさまざまな商店が増えています。飲食店、小売店、宿泊施設などが多いですね。それに合わせて人通りも増えました」とのこと。
しかも観光客が増えただけでなく、さきほどの店の中には地元住民に人気の店もあるという。地元の人が訪れる割合が増えたのも、重伝建の大きな効果の一つだろう。
近年、国内では海外からの観光客が増加している。津山市においても外国人観光客が増えているという。とくに台湾からの観光客が多いとのこと。津山市は台湾の彰化市と観光協定・相互交流促進共同宣言を締結しているのに加え、岡山空港には直通便がある。そのため彰化市は、城東・城西地区を中心とした津山観光の情報発信に力を入れており、その影響が大きいと考えられる。
さらに移住者が増加しているのも、重伝建選定の大きな効果だという。「重伝建によって津山という地名の知名度が向上し、イメージアップやブランド力アップにつながった印象です。城東の町並みの魅力に引かれて、移住や商店の出店を決めたという話も聞いています」と廣瀬主査。
また城東地区では2021年より、朝市「作州城東朝市」が毎月第2・4土曜日に開催されている。重伝建の選定は、地元の活性化にもつながっているという。廣瀬主査は「今後は、2020年に重伝建に選定されたばかりの城西地区の魅力向上や地域活性化に期待しています」と語る。
今後は滞在型の観光をめざした施策を
廣瀬主査は、津山市として感じている城東・城西の2ヶ所の重伝建地区の課題を次のように語る。「重伝建に選定されたから、それで終わりというわけではありません。今後も必要な整備を行い、活用方法を考えていかなければならないのです。城東地区は景観整備が進み、町並みが整って観光客が多く訪れるようになりました。そこに至るまでに、重伝建の選定から約10年の歳月がかかっています。2020年に選定された城西地区も、おそらく同じくらいの歳月が必要でしょう」
城西地区では今後、建築物の修理・修景や一部電柱の撤去、路面の補修といった整備が必要とされる。しかし建築物の修理・修景などは所有者の意向や状況に左右される部分があり、すぐに実施できないものもある。「津山市としては、所有者が必要としたタイミングで、必要な支援を行えるようにしたいです」と廣瀬主査は語る。
ほかに城東・城西共通の課題として、自動車交通の課題を挙げる。両地区を通る旧出雲街道は、地元の生活道路であると同時に、抜け道として利用されることもある。地区内を散策する観光客への安全を考慮し、抜け道としての利用を控えてもらうための有効な対策を模索しているという。
また廣瀬主査は、観光面での課題もあると話す。「長年、津山市の観光における課題になっているのが『通過型観光』であることです。津山の周囲には『美作三湯』と呼ばれる人気の温泉地があります。また北へ行けば、すぐに鳥取県に出ます。そのため津山で観光を終えると、すぐに近隣の温泉地や鳥取県へ移動する方が多いのです。いかに津山に滞在してもらうかが、津山観光の課題といえます」
滞在型観光のポイントとなるのが「いかに街を周遊してもらうか」という点だという。津山市街地は津山城跡(鶴山公園)を中心に、十字型に観光スポットが存在する。津山城跡の東に城東地区、西に城西地区、北に大名庭園の衆楽園がある。南の吉井川対岸にはJR津山駅があり、隣接地に鉄道遺産である旧津山扇形機関車庫を有する津山まなびの鉄道館も所在。そして中部の津山城跡周辺には、商店街がある。
廣瀬主査「周遊しやすくするための手段として、『ごんちゃり』という自転車のシェアサービスが始まっています。24時間365日いつでも利用できるサービスです。サイクルポートは、市街地の東・西・南・北・中部にあります。さらに市街地各所でさまざまなイベントを開催し、足を延ばすきっかけづくりにも力を入れています」
また津山市では滞在型観光をめざした取組みとして、2022年に「津山まちじゅう博物館構想」を策定した。そのアクションプランの一つとして、民間事業者の力を借り「津山城・城下町泊プロジェクト」を始めている。市が所有する文化財を活用し、宿泊施設や飲食店を整備するものである。ほかに民間独自の事業としても、城東地区に町家を生かした分散型の宿泊施設がオープンしている。
「津山市は人口減少も大きな問題になっています。観光地としての魅力向上を通じ、滞在型観光をめざすとともに、移住者の増加にもつなげていきたいです。二拠点居住の推進など、さまざまな方法を模索したいと考えています」と廣瀬主査は語る。
一つのエリアに2ヶ所の重伝建地区を有する小京都・津山市。滞在型観光をめざし、歴史ある城下町に残された伝統的な文化財を生かした津山市の取組みに注目だ。
※取材協力:
津山市
https://www.city.tsuyama.lg.jp/
津山まちじゅう博物館
https://tsuyama-machijuu.jp/