「また『渋谷La.mama』出身のバンドをつくっていきたい」。レジェンドに愛されるライブハウスのブッキングマンが描く未来
『渋谷La.mama(ラママ)』=有名アーティストを多数輩出してきたハコ。そうイメージする人は多い。単に多いだけでなく、あらゆる世代にこの印象が植え付けられているのがスゴい。JUN SKY WALKER(S)、フィッシュマンズ、ウルフルズ、THE YELLOW MONKEY 、Mr.Children、最近では9mm parabellum BulletにSuchmos、あいみょん……。ほかにも錚々(そうそう)たる面々がこのステージに立ち夢を叶えていった。そんな『La.mama』が、今どんな場所なのか、プロデューサー&ブッキングマンの石塚明彦さんに伺う。
老舗ライブハウスがコロナ禍で変わったこと。地下アイドルに助けられた日々
ずばり、『渋谷La.mama』がどんなライブハウスかを伺うと、石塚さんは完成度の高いバンドが出演する場所だと話す。
「2018年に僕が入ったときは、すでに音楽がちゃんと完成されたバンドの人が出るイメージがありましたね。完成されているというか、年齢層もある程度高いのかもしれない」
確かにスケジュールを見るとプロミュージシャンが出演するイベントも多い。1982年オープンの老舗は創業42年経った2024年現在も東京を代表するライブハウスのひとつで、この店のステージに立つことを目標とするバンドマンも多い。そんな『La.mama』に大きな変化をもたらしたのはコロナ禍だ。
「僕が店に入って2年目くらいかな。コロナ禍に入り、ここが大いなる転換点。出演キャンセルが続出して、困りましたね。バンドってコロナのときはやりにくかったと思うんだよね。メンバーが4、5人いて、メンバー内に1人でもライブをやることにためらいを感じる人がいたら、ライブはできなかった。
やっぱり、ライブハウスって空き日があると切ないから、スケジュールを埋めようと必死でした。スケジュールを埋めるために、僕はとにかくたくさんの人に出演のオファーをしたんです。そのときに助けてくれたのは、実はアイドルなんです。地下アイドルにたくさん出てもらいました」
あの頃の「ピリピリ」したムードを乗り越えて、今の『La.mama』がある
アイドルに出演してもらった話はこの連載でも何度か耳にしてきた。コテコテのロックのハコが新たな可能性を広げたという点で、コロナ禍は確かに大きな転換点といえるだろう。さらに石塚さんはこう当時を振り返る。
「今はもう、みんな忘れちゃったと思うんだけど、当時はけっこうピリピリしていたよね? ライブハウスがクラスターの原因みたいになって……。僕は喉元過ぎるとなんとやらで、すぐに物事を忘れるタイプだからもう忘れちゃっているけど、正直、何回も挫(くじ)けた。
例えばイベントが決まった矢先に、『やっぱり出られません』みたいなことがよくあった。キャンセルがあるとそのキャンセルを埋めないといけない。そしてまたキャンセルが出る。その繰り返しでした。
だから、あの頃はフットワークが軽い人たちには本当に助けられました。声をかけた次の日でも出てくれたり、1人でサッと出てくれるアイドル、ミュージシャンがありがたかったんですよ」
石塚さんの「ピリピリしていた」という言葉にハッとさせられる。2020年の初旬、コロナ禍に入ったばかりの頃はライブハウスが槍玉に挙げられた。真っ先に「クラスター」が騒がれたのがライブハウスだった。まだ「コロナ禍」という言葉が生まれる前の話だ。当時はまだ感染者も少なく、感染源となることだけでなく感染してしまうこと自体を誰もが恐れた。当時を思い出し切なくなってしまったが、「それでもね」と石塚さんは暗いムードを払拭するように話を続ける。その言葉にはむしろ、彼特有の明るさが宿る。
「でもね、『La.mama』としてはきっと良かった部分もある。ソロの弾き語りの人もアイドルも前より出やすくなった。昔じゃアイドルが『La.mama』なんて考えなかったでしょ。そういった新しい人が出る流れが生まれ、それは今にもつながっています。きっとね、うちだけでなくてどこでも皆さん苦労して同じような経験をしているはずです」
2017年に閉店した『新宿JAM』最後の店長が経験したこと
そこまで話すと、石塚さんは別のライブハウスの話を切り出した。彼は2017年に37年間の歴史の幕を閉じたライブハウス『新宿JAM』の最後の店長なのだ。
「多分、もう言ってもいいと思うんだけど(笑)。僕は『JAM』がなくなるかも、という時期に店長になったんです。もともと同じリンキーディンク系列の吉祥寺のスタジオで働いていて。そしたら『JAM』のブッキングマンが2人辞めるという話が出て、僕にお声がかかったんです。2005年のことです。
僕はUnlimited Broadcastっていうバンドをやっていて、その時はそれが休止した直後で何をしていいかわからないというタイミングだった。『JAM』はブルーハーツやスピッツなんかも出ていたし、僕らもよく出演していたハコだから、声がかかって『今度は僕がバンドを支えてあげられたら』という気持ちになって。
でも、次の物件更新時に契約を続けないかも、ともいわれていた。2006年に終わってしまう可能性もあったんですよ。そこからなんとか12年間、ビルの老朽化で閉店を余儀なくされるまで続けられた。2010年に『新宿JAM』が30周年を迎えた頃は、100人集客できるイベントが年に100回以上あって、人が入るハコになっていた。普通に1日に7バンドとか出ていたし、あの頃ってバンドが多かったよね。
そう思うと、コロナ禍は『JAM』で経験していたこととけっこう似ていたんですよ。『JAM』のときも、ジャンルもレベルも関係なくいろいろな人に声をかけて出演してもらっていた(笑)。2011年の東日本大震災のときもそうでした。とにかく出演がしにくくなっている状況で、いろいろなミュージシャンにお世話になった。あのときの『JAM』の経験はコロナ禍のときにも生かせたんじゃないかな」
最近、またバンドに“やんや”言うようになった
では、この『La.mama』で石塚さんは今、どんなブッキングをしているのだろうか。今後の目標も含め伺うと、熱い言葉が返ってきた。
「やっぱりせっかく『La.mama』にいるので、このハコで昔活躍した人に戻ってきてもらえる場所にもしてみたい。実はね今、JUN SKY WALKER(S)はよく出演してくれるんですよ。年に何回か出てくれている。ほかにも50、60代の出演者は多くて、長年のファンを引き連れてきてくれるので、それもこの店らしさかもしれません。
と、同時に僕はやはりバンド出身者でもあるので『La.mama』生え抜きバンドを輩出したいなとも思っているんですよ。有名な人が出るイメージはまだ強いけど、うちで育てて成長させていくみたいなね。そういうことも、もう一回やりたい。『La.mama』出身です、と言ってくれるバンドを作りたいね」
ハコがバンドを生み育てる、なんて素敵なことだろう。新しい人が流入するなかで、「ロックのハコ」としての原点回帰も行われている。
「最近ね、バンドが戻ってきてるんですよ。出演者が増えると、こいつらとこいつらを組ませたいという気持ちが生まれて、いいイベントを立ち上げられる。そういった、コロナ禍前のライブハウスの空気は戻ってきましたね。
でも、今、バンドの売れ方って昔とは違ってきている。配信、YouTube、MVなどでちゃんと売れてからライブハウスに来るというイメージ。昔の感覚からすると逆輸入みたいな感じだよね。僕らの世代って音楽活動というと大半がライブだったけど、今の若い子たちはいろいろなことをやっている。どこでどうブレイクするか、わからないから。
そんな時代だからこそ、“あいつら『La.mama』のバンドじゃん”みたいなことがいわれるバンドが生まれたら、めちゃくちゃかっこええやん。それで、そのバンドに憧れて別のバンドがまた『La.mama』に入ってきたり。昔のライブハウスに完全に戻したいわけじゃないけど、そういうことができたらなと、今は感じています。
実際、いくつか気になるバンドも出てきていて、けっこう、ああしろとかこうしろと“やんや”言うようになりました。やっぱりブッキングマンとして、このバンドはオレが見守ってきたんだよ、みたいなことは言いたいじゃない(笑)。『JAM』のときにやっていたようなことをもう一度ね! コロナ禍の頃はとてもできなかったことなので、うれしいですね。
だから、バンドマンの心が折れないようにもしないと(笑)。バンドってさ、けっこう試練があるじゃない。曲ができない、集客できない、メンバーとうまくいかないとか。団体でやっているから、とかく問題が起きやすい。そんな試練に負けないバンドを、ライブハウス叩き上げを作っていけたらいいですね」
音楽だけでなく、お笑い界の登竜門でもある『La.mama』。情熱があるから続いている
また『La.mama』は「お笑いの登竜門」でもある。コント赤信号の渡辺正行プロデュース「ラ・ママ新人コント大会」は恒例イベントとして知られている。
「ラジオとかでお笑い芸人さんがよくこの店の話をしてくれているらしいですね。お笑いの世界でも普通に『La.mama』という言葉が通じる。今でこそ、お笑いの劇場は多いですが昔はハコがなかったんでしょうね。僕の担当イベントではないのですが、渡辺さんの情熱がスゴいという話は聞いています。渡辺さんの熱意でここまで続いている。
有名な芸人さんのなかにも『La.mama』に出ていた人はたくさんいて、その関係で今も出演してくれる人もいるんですよ。2023年にはドラマ『だが、情熱はある』の舞台のひとつになったり、爆笑問題さんにも出ていただいたりして話題になりました」
平日昼間というライブハウスの盲点を狙う、その先駆者になりたい
さらに『La.mama』は新しい取り組みも進めている。「すごいしょうもないことなんですけど」と笑いながら石塚さんはこんな話をしてくれた。
「平日の昼の部のイベントを作っていきたいと思っているんです。お手軽に出てもらえるし、ライブの練習という気持ちで出演してもらってもいい。落語って昼からずっとやっているけれど、そういうふうにライブハウスを活用しているハコってないんですよね。もし、他にも広がっていったら先駆者になれるかも。
若手のバンドや、やり始めのバンドに出てもらったりしています。今は20歳くらいの子もいるし、けっこう若い子も多い。ソロアーティストやアイドルな方が出る場としてもいいと感じています」
バンドが出てくれているのは、ブランド力ではなく居心地のよい場所だから
率直に、全然「しょうもないこと」ではないと感じた。平日の昼間はライブハウスの盲点だろう。この取り組みはライブハウスの新しい活路となるかもしれない。そして何より『La.mama』にはこれまで培ってきたブランド力がある。そう話すと、石塚さんからは意外な回答が返ってきた。
「ブランド力……僕はブランド力は感じていないかな。今の若いバンドはブランド力よりも逆に自分の居心地のいいライブハウスを探してるようにも思う。『La.mama』のブランドに憧れるのじゃなく、好きだから出ている。居心地がいいから来てくれる」
では、その居心地のよさのために何を心がけていますか? そう尋ねると石塚さんに一笑されてしまった。
「僕はもう昔から飲めよって言ってる。とにかく楽しく演奏したらええやん、飲んだらええやん。僕はずっとそういうノリなんですよ。そのスタイルは変わらない!」
なるほど、変わらない……20年近くも前の『新宿JAM』の記憶が蘇る。実は筆者は当時バンドとしてもソロとしてもよく出演させていただいていて、石塚さんにもほかのスタッフにもたくさんお世話になった。
バンドではなく初めてソロでライブに出演したときにブッキングを担当してくれたのが石塚さんだった。たまたま、それなりに友達に来てもらった記憶があり、チケットノルマを少し超えることができた。ライブハウスではノルマを超えた分のお金が「バック」されることがあるが、このとき石塚さんは、いろいろと苦労しただろうから、これでラーメンでも食べて帰りなよと1000円札を1枚多くくれたのだ。そんな思い出話をすると石塚さんはこう返す。
「焼き肉は食われへんけど、ラーメンでも食って帰れってか(笑)」
僕はあの日、何を食べて帰っただろう。記憶にないなあ。思い出されるのは、石塚さん、当時のスタッフ、友人たち、そしてバンドマンと『新宿JAM』でたくさんの音楽を聴き、たくさんのお酒を飲んだにぎやかな夜の情景だけだ。
この、連載のタイトルは「ライブハウスは家である」。まさに家のような温かさがあの店にはあった。そして、場所は変わったが石塚さんは『渋谷La.mama』で同じことをやっている。文章にするのは簡単だけど、それってとんでもないことじゃないか。石塚さんが育てた『La.mama』生え抜きのバンドを見に、近くオーディエンスとして店を訪れたい。
La.mama(ラママ)
住所:東京都渋谷区道玄坂1-15-3 プリメーラ道玄坂B1/オフィス201/アクセス:JR・私鉄・地下鉄渋谷駅から徒歩4分
取材・文・撮影=半澤則吉
半澤則吉
ライター
1983年福島県生まれ。ライター、朝ドラ批評家。町中華探検隊隊員。高校時代より音楽活動を続けており、40歳を迎えた今もライブハウス、野外フェスに足を向けることも多い。