社会学とは、そもそも何を研究する学問なのか?【稲葉振一郎『完全版 社会学入門』】
「社会学者の数だけ社会学がある」というイメージが覆される
初学者向けの定番となっていたロングセラー『社会学入門』に、のちに刊行された続編のエッセンスを加えたパワーアップ版として発売となった『完全版 社会学入門 資本主義と〈近代〉を捉えなおす』。講義録を活かした親しみやすい文体で、諸学問との比較を通じて「社会学」に共通するテーマを明らかにしながら、そのエッセンスを解説していく理想的な入門書です。
今回はその刊行を記念し、本書第1章「社会学の理論はどのようなものか」より、冒頭部分を公開いたします。
社会学の理論の現状
最初に、「社会学の理論とはどのようなものか?」という茫漠とした話から始めたいと思います。
この講義は社会学の「各論」ではなく「総論」です。しかし単なる「各論」としての寄せ集めで「総論」をやるのではなく、さまざまな「各論」の基底としての「総論」、というより「基礎理論」「原論」をやります。つまり、「産業社会学」だとか「政治社会学」だとかいった、いろいろな社会学について、顔見世興行、観光ガイド的な紹介をするのではなくて、そうしたいろいろな社会学が全体として共有している感覚について説明していきたいわけです(ところがここで「理論」といわず「感覚」といってしまっているあたりで、分かる人には分かるというか、何となくオチが見えてしまうのでしょうけれど)。
社会学のみならず、普通、学問研究においては、一人ひとりの研究者ないし一つひとつの研究グループは、それぞれ自分の問題関心に応じて、好き勝手なことをやっています。実際、皆で同じことをやっていてもしょうがないですから、そこは分業、というわけです。しかしそうなると、おのおののやっていることがあまりに違いすぎ、互いの研究テーマの間の関係が分からなくなってきて、話がともすれば通じなくなるということもありそうですよね。いや、実際にあるのです。
それでもいわゆる「自然科学」の場合、誰でも知っていて、それを共通の基礎としてふまえている「基礎理論」「一般理論」とでもいうべきものが、ある程度はっきりとあることが多いのです。「社会科学」の中でも、とくに経済学の場合には、そういう色彩が濃厚です(図1-1)。しかし社会学においては、「誰もが共通の土台としてふまえる基礎理論」がはっきりとは見当たらない。社会学者はそれぞれ、自分の問題関心に応じて、社会を理解するための理論を学び、あるいは自分で作ったりしているのですが、そういう理論が社会学の場合にはたくさんありすぎる。
もちろん社会学以外の他の学問も、それぞれの問題状況に合わせた多様な理論を作っていますが、それらの理論の基礎には共通のシンプルな「一般理論」「基礎理論」があり、そこから個別の「特殊理論」「応用理論」がどんどん枝分かれしているという感じです。ところが社会学の場合は、それぞれの理論の間の共通性がかなり希薄です。つまりそれらの理論の源流たる「基礎理論」「一般理論」のようなものが見当たらない。
もう少し正確にいいますと、社会学にはいろいろな個別研究、そしてそれらを導く応用理論の間を橋渡しし、同じ学問の仲間として基礎づけようとする「基礎理論」「一般理論」がないわけではないのですが、そうした「基礎理論」「一般理論」を作っている人たちがたくさんいて、それぞれの「基礎理論」「一般理論」の間にかなりの違いがある。多くの自然科学、それから社会科学においても経済学などでは、はじめはおのおの勝手なことをいっていたのが、だんだんと時間が経過するにつれて、皆で寄ってたかって一つの大きな理論を一緒に作っては壊し、直し、徐々に基礎理論が練り上げられていきます。ところが、社会学においては一向に収斂する気配がない。つまり、個別的な特殊研究だけでなく、基礎理論、原理のレベルで、めいめい勝手なことをいっている──それが社会学の、細かい実証研究のみならず基本的な理論レベルまで含めての現状です。
社会学のアイデンティティ問題
そうすると当然、「では全体としての社会学のアイデンティティとは何なのか? コミケ(コミックマーケット)にアルコール依存に学歴競争、かと思えば途上国の貧困に国際紛争……とまったく異なる対象を研究している人たちが、皆同じく「社会学者」を名乗っているけれど、この人たちを一つの仲間にまとめているものは何か? いったい彼らは何を共有しているのか?」という疑問が浮かび上がってきますよね。それこそがこの講義全体のテーマになりますが、今日はその前段の話をします。
第一回目の講義では、なぜ社会学には共通理論が生まれなかったのかという話ではなく、社会学に限らず、社会科学、もっと大きくいって科学の研究にとって、そもそも「理論」とは何であり、何の役に立つのか、という話から始めます。他の学問ならまだしも、社会学の現状が今お話ししたようなものだとすれば、皆さんの中には、「少なくとも社会学の研究にとって、理論はいらないのでは?」という疑問を抱かれる人がいるかもしれませんね。しかし、研究者の間での共通了解、学者たちの間に共有される常識としての理論の役割は、なかなかに大きなものです。というわけでここでは、「理論はやはり重要で、必要なものなんだよ」ということを説明させてください。
この講義のテーマは理論ですから、実証研究それ自体の話はほとんどしません。しかもテーマの都合上、社会学の理論研究の抱える病理とでもいうような、困った話を重点的にとりあげていきます。それだけに一層、前もって、「理論というものは実証のための道具としても大事なんだよ」ということを大前提として確認しておかないと、皆さんにあらぬ誤解をされる危険がある。そこで最初に、理論と実証の関係についてお話しします。
統計調査にもとづく失業率の把握
社会学というより、経済学の分野にもまたがった話になりますが、とりあえずは具体的な例、ここでは失業率と自殺の関係を見ていきます。
一九九〇年代、日本は景気がどん底に悪かった。九〇年代末ごろは就職「超氷河期」といわれており、当時新卒だった人たちの少なからずは定職に就くことができず、長いことフリーターをやっていて生活が苦しく、「ロスト・ジェネレーション」などと呼ばれている……ということはご存知かと思います。
ところで、「景気が良い」あるいは「悪い」とは、いったいどういうことでしょう? 簡単にいえば、お金が儲かっている人が比較的たくさんいる状況が「景気が良い」という状況で、その反対が「景気が悪い」状況だといえるでしょう。もう少し踏み込んでいえば、たくさんの人がお金を儲けることができるとは、自分の作ったものやサービスを他人にたくさん買ってもらえている、ということです。そしてまたこうしてお金を儲けた人が、そのお金を使って他人からものやサービスを買えば、他の人々の儲けも増えていきます。景気が良い、好況とは、このように人々の間の取引が活発で、たくさんのものやサービスが作られ、消費されているような状況です。これに対して不況とは、どういうわけでか人々の間での取引が不活発になり、ものを作っても売れず、仕事をしようにも声がかからず、お金が儲からず、だから他人からものやサービスを買うことができず──という悪循環です。
どうしてこんなことが起きるのかを本格的に考えるためには、経済学を勉強していただく必要がありますが、それはこの講義の主題ではないので飛ばします(巻末の読書案内を頼りに、各自で経済学の勉強をしてください)。とりあえず不況とはこういうもので、時々起こってしまうものだ、ということだけ、頭に入れておいてください。
さて、現代の発達した資本主義的市場経済のもとでは、多くの人々は自分で事業を営まず、会社という組織に雇われて働き、会社から払われる給料を主な収入源としています。そのような状況では、不況は何よりもまず失業(働きたいのに職に就くことができず、働けない状態)の増加を意味します。この(正確にいえば「非自発的」)失業の度合を測るために、われわれは、失業率という数字を使います。これは働きたいと思っている人たちの中での、働きたいのに仕事がなくて働けない人たちの割合です。現代のほとんどの国では、官庁統計として失業率を定期的に測定しています。
たとえば、国勢調査というのは全数調査(「センサス」といいます。調査する対象の全部をしらみつぶしに調べます)ですが、とても大変なので五年に一回です。年に一回とか月に一回数字を出すような調査はサンプル調査をします。つまり、調査したい対象の中から、くじ引きなどをしてランダムに調査対象を選び出して調べます。この「ランダムサンプリング」というのは社会調査を行うときの基本中の基本ですから、社会調査の授業では注意して聞いて、よく勉強してください。失業率もまた、官庁が定期的に行っているこうした調査によって出されています。そしてこの失業率という数字でわれわれは失業という現象を捉えます。役所が測定している失業率がどれくらい正確かということについては、もちろんいろいろ問題がありうるのですが、それでもできるだけ正確な数字を算出するように関係者は苦労しています。実際、国の経済政策の基礎になっているこうした数字が不正確だと、いろいろ困ったことが起きますからね。
失業率と自殺率の数字の連動
この失業率という数字ですが、これだけ見ていても別にそれほどおもしろいことはない。他の数字との関連で見て初めて、社会科学的な意味でのおもしろみが生じます。経済学ではこの失業率とGDPや物価との関係などを調べていくのですが、社会学の場合はもう少し他のところに目をつけます。
社会学的な関心からすれば、失業率との関連でよく注目されるのは、たとえば犯罪に関する数字です。「犯罪」と一口にいっても、警察や法務省などの役所が調べて出している犯罪にまつわる数字には、犯罪被害者数や犯罪発生件数があり、更に犯罪発生件数の中でもたとえば暴力犯罪や知能犯罪などでは、それぞれ数値の推移の仕方が異なっています。それでもおおまかにいうと、失業率と犯罪に関する数字はかなり連動する。とくに、いわゆる経済犯、窃盗などがはっきり連動する傾向にある。平たくいえば、失業が増えると泥棒のたぐいも増える、ということです。
更にここまでくれば、当然思いつくのは自殺ですね。「不況になると自殺者が増える」とはよくいわれます。もちろん、個別のケースを見ていけば、「人生いろいろ」でそれぞれに原因が考えられますが、一つひとつのかけがえのない人生の個性にはあえて目をつぶって、全体としての傾向を見たときには、自殺率と失業率は似たような動きをしている、ということが分かります。こういうふうに、単に一つの数字だけを見ていてもあまりおもしろいことはないのであって、連動している複数の数字の組み合わせを見つけ出していくことが、統計数字を見ながら社会について考えるときの基本です。つまり、複数の数字を見たときに、それらの数字の間に一定の規則的な関係が成り立っているらしい、ということを見つけ出していく作業が、社会の科学的な分析の第一歩であるといってもよい。
社会科学の存在理由
ただし、ここで重要な問題があります。いくつかの数字が同じ方向に動いている──たとえば失業率が上がっていると、その一方で泥棒や自殺が増えている──といった規則性(と見えるもの)が発見できたからといって、それでただちに社会科学的な話になるというわけではないのです。なぜこれらの数字が連動しているのか、その理由を考えなくてはいけない。数字の連動という現象の背後にある現象を生み出すメカニズム、つまりどのような因果関係があるのかを考えないといけないわけです。このメカニズムを説明するものが「理論」です。
社会科学は一般に、政策科学としての側面をもちます。経済学という学問は、まず何より経済の効率を増すためにある。人々の間の取引がスムーズに進み、社会全体としてたくさんの有益なものやサービスが生産され、人々が豊かに暮らせるようになるために存在している。もちろん、個人としての経済学者の中には、世の中をよくしようとは毛頭考えておらず、ただただ子供のような知的好奇心で世の中の仕組みをより深く理解したいと願い、そうした知識が何かの役に立とうが立つまいがどうでもよい、という人もいるでしょう。しかし、そういう人たちも含めて経済学者たちがたくさんいて、世の中でお給料を払われたり研究費を与えられたりしている理由は、いったい何でしょうか? 経済学者の分析を純粋に娯楽としておもしろがってお金を払ってくれる「経済学ファン」もいないわけではないでしょうけれど、小説や映画の愛好者のようにたくさんいるとはとても思えません。そうではなくて、やはり経済学の研究が、経済の調子を、つまりは世の中をよくしてくれる経済政策のために必要な知識を提供してくれるから、つまりは世のため人のために役に立つ(と思われている)からこそ、経済学者たちは給料を払ってもらっているのではないでしょうか。
社会学の場合には、経済学の場合よりは「ファン」の貢献度は相対的に大きいと思われますが、それでもやはり社会学の重要な存在理由、すなわち大学に講座もあり、国や公益団体からお金をもらえるその理由は、やはり「世のため人のため」に「役に立つ」(と思われている)からでしょう。つまり、単なる知的な娯楽であるにとどまらず、実際に社会問題の解決に役立つ知識を提供する、と。
しかし、社会問題の解決に社会学が役に立つためには、社会学が世の中をどのように理解していなければならないでしょうか? そこで重要なのは、社会問題を引き起こしている因果関係のメカニズムについての理解です。先ほどの話に戻れば、どうして失業率と犯罪発生件数や自殺率には連動関係があるのか、その理由を考えなければならない。
原因と結果をつきとめる
ここで「自殺者を減らしたい」「犯罪を減らしたい」という政策目標を立てたとしましょう。そうすると、ただ単に失業率と犯罪発生率・自殺率という数字を眺めて「この数字とこの数字が連動していますよ」というだけでは困るわけです。なぜなら、それらの数字が連動しているだけでは、そのうちのどれが原因でどれが結果に当たるのかは分からないのです。今念頭に置いている失業と犯罪・自殺との関係の場合だと、われわれは直観的・常識的に「勤めている会社が倒産して失業すると、自殺したり犯罪に走ったりすることがよくある」と判断し、だから「失業が原因で、犯罪や自殺が結果に決まっているではないか」と思ってしまう。そしてこの場合、たぶんそれで間違いではない。でも、犯罪の方が原因で、失業や自殺の方が結果だ、という可能性はまったくありえないのか? そういうことは考えられないのか?
「そんなの屁理屈だよ」といいたくなるような代物ですけれど、そういう理論をでっち上げることもできなくはありません。先進国においては、失業が原因で、犯罪とか自殺が結果というのは圧倒的に自明な結論だといえそうですが、世界の中には、必ずしもそういう常識が成り立たないところもある。日本なんかは、治安が安定していて、裁判所や警察にまずまず信用が置ける国です。でも、そうではない国だとどうだろうか? 警察は賄賂を渡さないとまともに働いてくれないし、裁判もめちゃくちゃで、マフィアが幅を利かせている──そういう状況だと逆の因果関係が働くかもしれない。そもそもビジネスというものは、平和な世の中でなければ成り立たないわけです。まじめに働き、正直な商売をする方が儲かるという社会でないとビジネスは発展しない。人の命や財産が尊重されていない社会では、まじめに働くとバカを見てしまう。先進国においては成功への道であるようなことがあまり意味をもたなくなる。そういう世界のことを考えると、逆の因果関係の方が働いているかもしれない。つまり、法と秩序がきちんと確立しておらず、犯罪が横行しているからこそ経済活動が停滞し、失業も増える、というメカニズムが成り立っているかもしれないのです。
数字の連動を示すだけでは、まだその背後にある関係について何かをいったことにはならないのです。一緒に変動している二つの数字──ここでは失業率と犯罪・自殺率──があったとして、いったいそのどちらが原因で、どちらが結果なのか? あるいは、われわれが気づいていない第三の要因があって、それが失業と自殺の両方を上げたり下げたりしているけれど、失業と自殺との間には、特別何の関係もないのかもしれない。こういう状況を社会調査などでは「擬似相関関係」といいます(「擬似相関関係」とは、ある変数同士が統計的には相関していても、実際には両者の間に因果関係、影響関係がない状態を指します。「擬似」とはいっても「偽の」ということではありません)。
一方、「相関関係」というのはただ単に、いくつかの数字の変動が連動していることだけを指します(相関関係には、因果関係も疑似相関関係も含まれます)(図1-2)。数字と数字の間の相関関係は、もちろん、高い確率で何らかの因果関係がその背後にあることを予想させます。ただ、断言はできない。まったくの偶然である可能性さえ、少しは残っている。したがって、相関関係は「ここが怪しいぞ」という印でしかない。
では、因果関係自体はどうやって発見するのでしょうか? 実は、因果関係を統計数字だけから直接発見する方法はありません。因果関係はわれわれが考えて、推測するしかないのです。相関関係の背後にどのようなメカニズムが働いているのかを考える、それが普通の意味での科学的な理論です。
さて、話を政策の問題、社会問題の解決という話題に戻しましょう。
実際には、失業も自殺もどちらも立派な「社会問題」であって、どちらも少ないに越したことはないのでしょうけれど、とりあえずここでは便宜的に「自殺を減らす」という政策目標を掲げているとしましょう。さてここで、自殺率と失業率との間に強い相関関係があったとします。まずは、この両者の間の関係は単なる見かけの関係、擬似相関関係やまったくの偶然にすぎないのではないか、と疑ってみる必要がある。その上で「やはり関係がありそうだ」となったとしても、どういう関係があるのかを検討してみなければならない。もしも失業の方が原因で、その結果自殺が増えたり減ったりするのであれば、自殺を減らすためには失業を減らす、景気を良くするという手段をとればよいことになる(実際にはそれはそれで難しいことですが)。ところが関係がその逆だとすれば、失業対策、景気対策それ自体には、自殺を減らす効果はないことになり、自殺を増やす原因を他に探す必要が出てくる。このように、社会問題の因果メカニズムが分からなければ、その解決のための手を打てないし、因果メカニズムを理解するためには、ただ丹念に事実を観察するだけではだめで、理論が必要となるのです。
著者
稲葉振一郎 (いなば・しんいちろう)
1963年、東京生まれ。一橋大学社会学部卒業後、東京大学大学院経済学研究科博士課程単位取得退学。専攻は社会倫理学。現在、明治学院大学社会学部教授。著書に『滅亡するかもしれない人類のための倫理学』『AI時代の資本主義の哲学』『AI時代の労働の哲学』(いずれも講談社選書メチエ)、『市民社会論の再生』(春秋社)、『社会倫理学講義』『社会学入門・中級編』(ともに有斐閣)、『ナウシカ解読 増補版』(勁草書房)、『「新自由主義」の妖怪』(亜紀書房)、『政治の理論』(中公叢書)、『不平等との闘い』(文春新書)、『増補 経済学という教養』(ちくま文庫)、『「公共性」論』『モダンのクールダウン』(ともにNTT出版)、『「資本」論』(ちくま新書)、『リベラリズムの存在証明』(紀伊國屋書店)など。
※刊行時の情報です。
■『完全版 社会学入門 資本主義と〈近代〉を捉えなおす』より抜粋
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