すべての人は対等な関係にある――岸見一郎さんが読む、アドラー 『人生の意味の心理学』#1 【NHK100分de名著ブックス一挙公開】
岸見一郎さんによる、アドラー 『人生の意味の心理学』読み解き
人生は、変えられる──。
その思想を平易に紹介した『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』がベストセラーとなり、注目を集めている心理学者・アドラー(1870~1937)。
『NHK「100分de名著」ブックス アドラー 人生の意味の心理学』では、ドイツ語を母語とするアドラーが初めて英語を使って書いた著書『人生の意味の心理学』を、岸見一郎さんが解説します。
今回は、本書より「はじめに」と「第1章」を全文特別公開いたします(第1回/全7回)
すべての人は対等な関係にある(はじめに)
『人生の意味の心理学』の著者アルフレッド・アドラー(一八七〇~一九三七)は、今から一世紀ほど前に活躍したオーストリア生まれの心理学者・精神科医です。日本においてはごく最近まで、その名をほとんど知られていませんでしたが、欧米ではフロイトやユングと並ぶ「心理学の三大巨頭」の一人として高く評価されてきました。
アドラー心理学の特徴は、あらゆる対人関係は「縦」ではなく「横」の関係にあり、人と人とは対等であると考える点にあります。対等という考え方は、民主主義が浸透しているはずの今日でも、残念ながらまだ本当の意味では実現できているとはいえません。今も多くの男性は女性を下に見ていますし、上司は部下よりも上だと思っています。子どもについては、今なお大人よりも下の立場にあると考えている人は多いです。二十一世紀に入った現代でさえそのような状況なのに、アドラーがすでに一九二〇年代に「一緒に仲良く暮らしたいのであれば、互いを対等の人格として扱わなければならない」(『人はなぜ神経症になるのか』)と主張していたことを考えると、彼こそはまさに時代の先駆者であったといえますし、時代はまだアドラーに追いついていないといっても間違いありません。すぐに見るように、アドラーは「あらゆる悩みは対人関係の悩みである」といっていますが、その対人関係の問題を解決するためにアドラーが提言している数々のことは、もしも人と人とが対等であるということの意味が真に理解されていなければ、かえって対人関係を損ねることにもなってしまいます。
私が初めてアドラーの著書に触れたのは、結婚して第一子が生まれた三十代の頃でした。当時、私の家庭では妻が外で働いていたので、比較的時間を自由に使えた私がもっぱら子どもを保育園に送り迎えしていました。子どもは理想的に従順であるはずはなく、親の思い通りに行動しないので、思いがけず子どもとの日々は大変なものになりました。それで、どうすれば子どもとよい関係を築けるだろうかと精神科医の友人に相談した時に薦められたのが、アドラーの『子どもの教育』という本でした。この本を読み、それまで私は子育てについて何も知らないまま子どもと接していたことに気づきました。親に育てられたからといって、子どもを育てられるわけではないのです。手強い子どもと日々関わる中で、アドラーの著書を次々に読みました。
やがて、もともと古代ギリシア哲学を研究していた私が、アドラーの著書の翻訳に取り組むようになったのは、アドラーの考えを知ることで子どもとの関係がよくなったことを強く実感したので、多くの人にアドラーの考えを知ってほしいと考えたからでした。哲学者である私が心理学の研究をしていることを不思議に思う人がありますが、心理学はもともと哲学から発したものなのです。心理学は英語ではpsychologyといいますが、これはもともとプシューケー(psyche)とロゴス(logos)というギリシア語を組み合わせてできた言葉で「魂(精神、心)の理論」という意味です。ソクラテスは、この「魂(精神、心)」をできるだけ優れたものにすることを「魂の世話」といっています。英語のサイコセラピー(psychotherapy、心理療法)は、ギリシア語の「魂(psyche)の世話(therapeia)」に由来しています。もしもソクラテスが現代に生まれていたら、精神科医かカウンセラーになっていたかもしれません。アドラーの息子で精神科医のクルト・アドラーは、父は、「肘掛け椅子にすわり観念だけを追い求めるインテリとは正反対の存在であった」といっています(ホフマン『アドラーの生涯』)。私は、毎日アテナイで青年と対話をして過ごしていたソクラテスに、昼間は患者を診察し、夜はカフェで友人と談笑していたアドラーの姿を重ねてしまいます。
今回はアドラーの多くの著書の中から『人生の意味の心理学』を名著として選びました。これは、ドイツ語を母語とするアドラーが初めて英語を使って書いた著書です。他のアドラーの著書と同様、専門用語が使われていない本書を、アドラー心理学全般について知りたい人は興味深く読むことができるでしょう。
アドラー心理学は、最初に述べたように、日本ではこれまでほとんど知られていませんでしたが、アドラー心理学を哲人と青年との対話という形で紹介した『嫌われる勇気』(古賀史健との共著、ダイヤモンド社)がベストセラーになって以来、多くの人に知られることになりました。アドラー心理学に関心を持ち、さらに今度はアドラー自身の著作を読みたいという人に読んでほしいのが、この『人生の意味の心理学』です。アドラーは決して特別なことを説いているわけではありません。常日頃、常識や、他者から押しつけられる価値観に疑問を感じていた人が、常識の自明性を疑っていいことに気づくはずです。
先にあげたクルト・アドラーが、父は「人間の尊厳を取り戻した」といっています。それが一体どういう意味なのかを少しずつ明らかにしていきたいと思います。
著者
岸見一郎(きしみ・いちろう)
哲学者、カウンセラー。専門の哲学に並行してアドラー心理学を研究。『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』(古賀史健との共著、ダイヤモンド社)、『アドラー 人生を生き抜く心理学』(NHKブックス)などアドラー関連の著書・翻訳多数。アドラー関連以外の著書に『三木清『人生論ノート』を読む』、プラトン『ティマイオス/クリティアス』など翻訳も手がける(ともに白澤社)。
※著者略歴は全て刊行当時の情報です。
■100分de名著ブックス『アドラー 人生の意味の心理学』(岸見一郎著)より抜粋
■書籍に掲載の脚注、図版、写真、ルビなどは、記事から割愛しております。
*本書は、「NHK100分de名著」において、2016年2月および同年10月に放送された「アドラー『人生の意味の心理学』」のテキストを底本として一部加筆・修正し、新たにブックス特別章「〝ありのまま〟の価値」や読書案内を収載したものです。なお、本書におけるアドラーの著作をはじめとする海外文献の翻訳はすべて著者によります。