【岡山の古墳】市街地に眠る巨大な前方後円墳「神宮寺山古墳」に行ってみよう!(岡山市)
歴史・観光スポットは、事前にしっかり予定を組んでおかないと行けない場所にあるものが多いですよね。しかし、古代の史跡が豊富な岡山には気軽に行ける穴場歴史スポットがたくさんあります。今回は、最寄りのJR法界院駅から歩いて約10分の距離にある岡山市の「神宮寺山古墳」をご紹介します。市街地の中に突如現れる大型の前方後円墳を一緒に散策してみましょう! 今回は「おまけ」として、謎に満ちた穴場歴史スポットも最後にご紹介します。
<予備知識1>「前方後円墳」とは?
「前方後円墳」の独特の形状にはどのような意味があるのでしょうか。みなさんも一度は疑問に思われたことがあると思います。そもそも、“前が方形で後ろが円形”って…?
その成り立ちには諸説ありますが、基本的には円形の部分がお墓の本体で、そこへ儀式などを行なう祭壇として方形の部分を組み合わせたと考えられています。便宜上“前方”や“後円”と呼んでいますが、実際には古墳の向きに前や後ろがあるわけではありません。
神宮寺山古墳(岡山市北区中井町)
JR岡山駅から1駅のJR法界院駅を出て、住宅街のなかを約10分ほど歩くと「神宮寺山古墳(じんぐうじやまこふん)」に着きます。鳥居と狛犬、そして長い階段があるのは後円部に「天計神社(あまはかりじんじゃ)」が鎮座しているからです。ご祭神が工匠の神様なので、名前に“計り”が入っているんですね。
神社の階段を登る前に、ふもとから「後円部」を見上げてみます。何も知らなければ普通の山にしか見えず、思わず“ふもと”と言ってしまうくらいの大きさがあります。しかしよく見ると後円部が3段になっていて、人工の構造物であることがはっきりと視認できます。
ちなみに、全国第4位の大きさで知られる「造山古墳」(岡山市)は、もとからあった自然の山を削ってつくられたそうですが(それも大変な労力であることに変わりはありませんが)、「神宮寺山古墳」は平地に土を盛ることで築き上げたものだそうです。
それでは、階段を登って後円部の墳頂を目指します。すごい高さと角度です! クドイようですが、これだけの構造物を機械などを使わず人の手だけでつくったという事実にあらためて驚かされます。
後円部の墳頂に到着して神社へのお参りを済ませたら、社殿の下部を要チェック! なんと、建物の基礎の下に竪穴式石室の天井石が見えています。
「後円部」から「前方部」を見下ろしてみます。古墳の周囲は戸建て住宅や集合住宅、小学校などに囲まれていて、今にも市街地に飲み込まれそうです。墳丘の一部も削られていて、前方部は半分ほどが墓地になっています。
それでも、墓地の右下のほうを注意して見ると前方部がしっかりと2段になっていることが確認でき、古墳としての威厳をギリギリのところで保っている感じがします。
今度は「前方部」へ下りて「後円部」を見上げてみます。市街地に囲まれているため全景を見渡すことが難しい古墳ですが、前方部からはこの古墳が持つ壮大さを実感することができると思います。
「神宮寺山古墳」は市街地に埋もれそうになりながらも、まだまだ強烈な存在感を放っていました。ぜひ現地を訪れて、先人の労力に思いを馳せたり、悠久の時の流れを感じてみてください。
<予備知識2>「古墳時代」とは?
前方後円墳が日本各地でさかんにつくられた時代(3世紀後半~7世紀頃)を「古墳時代」と呼びます。前方後円墳は権力者にとって重要なステータスで、古墳時代中期(5世紀頃)には巨大化し、全長が400mを超えるようなものまで出現しました。
それらと比較すると「神宮寺山古墳」は全長約150mですので、それほど大きくないと思われるかもしれません。しかし、「神宮寺山古墳」は古墳時代前期(4世紀頃)に築かれていますので、完成した当時は全国でも有数の大きさだった可能性があります。同様に、現在は全国第4位の大きさである「造山古墳」(岡山市)も、完成した当時は全国最大規模であった可能性があり、古代吉備の権勢をうかがい知ることができます。
「三野公園」は巨大な前方後円墳!?
出典:国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスより作成(2020年撮影)
「神宮寺山古墳」から約1kmほど北にある「三野公園」(岡山市北区三野本町)は桜の名所として市民に親しまれている歴史のある公園ですが、実は以前から「ここは古墳ではないか?」というウワサがあるのです。今回は“おまけ”としてその可能性を検証してみたいと思います。
まず、上空から撮影された写真を見てみると一目瞭然! 中央に見えている山が「三野公園」で、その形状はまるで前方後円墳です。ちなみに前方部に相当する場所にあるのが「三野公園」で、後円部に相当する場所には「天神社」(てんじんじゃ)があります。
もしこれが本当に古墳だとしたら全長500m超! ダントツで日本一の大きさとなり、日本史の常識がひっくり返るかもしれません。それでは、少し時代をさかのぼってこの地形について検証してみましょう。
出典:国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスより作成(1975年撮影)
これは1975年に撮影されたものです。樹木が伐採されているので後円部に相当する部分が段になっていることが確認できます。いかにも古墳らしい感じもしますが、高度経済成長期の開発による造成の可能性もありそうです。時代をもう少しさかのぼって確認してみましょう。
出典:国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスより作成(1947年撮影)
この写真は1947年に撮影されたもので、現在の状況とほとんど変わらないように見えます。私の調査で確認できた最も古い写真は米軍が1945年に撮影したもので(ここには掲載できませんが)、その様子は1947年のものと大差ありませんでした。また、明治30年頃の古地図を確認してみたところ、等高線から読み取れる山の形状はやはり前方後円墳のような姿をしていて、近代以降の造成という可能性は低そうです。
それでは現地へ行ってみましょう。
この写真は「三野公園」から約1kmほど北にある中原橋から撮ったもので、中央に見えているのが「三野公園」と「天神社」のある山です。向かって左側の前方部に相当する部分は低く平らになっていて、右側の後円部に相当する部分は少し高くなっています。やはり横から見たシルエットも前方後円墳っぽいですね。
「三野公園」へ着きました。この写真は公園まで続く階段の途中で撮ったもので、斜面が段になっているように見えます。こういった段状の地形が公園内の各所で見られますが、ここには戦国時代に城があったそうなので、いつの時代にこのような地形になったのかが重要になります。また、斜面の一部には大きな岩盤が露出している箇所もあり、もし古墳だとすれば山を削ってつくられたもの、ということになります。
「三野公園」から「天神社」の方向を見てみます。このあたりの雰囲気は「造山古墳」とよく似ている気がします。「天神社」へ向かうには、ふもとからの参道もありますが、「三野公園」から「天神社」へ直接登ることもできます。
後円部に相当する場所に鎮座している「天神社」です。境内には大きな岩がゴロゴロしていて厳かな雰囲気が漂っています。ご祭神は天御中主(あめのみなかぬし)という創造神です。ここでの“天”というのはおそらく北極星のことで創造神の象徴です。中国では「天皇大帝」と呼ばれ、これが天皇の語源ではないかという説がありますので、何だか意味深ですね。こちらもぜひ訪れてみてください。
まとめ
今のところ、「三野公園」周辺から古墳の証拠となるものが見つかったという話は聞きませんが、例えば「造山古墳」(岡山市)では埋葬施設がまだ確認されていませんし、「こうもり塚古墳」(総社市)では埴輪も葺石も見つかっていません。こうした事例を考えると、古墳として必須の要素があるわけではなくて、“古墳のような姿をしていること”が一番重要なのだと思います、たぶん(笑)
もし、「三野公園」が山を削ってつくられた古墳で、何らかの理由で不完全な状態であるとしたら…? 古墳だと考えた方が絶対に楽しいと思うのです。全国の「我こそは!」という歴史ファンや考古ファンの皆様は、お花見がてら現地を訪れて、この謎に挑戦してみてはいかがでしょうか。