京大卒27歳で脱サラ後、「エリックサウス」で南インド料理ブームを起こせたワケ。
鶏や羊などの肉を使った濃厚なカレーをナンやチャパティで食べるのが特徴的な北インド料理に対して、スパイシーでサラサラとしたスープ状のカレーを長粒米で食べる南インド料理。2010年ごろに都内にほんの数軒しか存在しなかった南インド料理店は2018年前後からメディア上で「ブーム」と囁かれるようになり、その数は今では60軒以上に登ります。
「南インド料理ブーム」の火付け役にして日本に定着させた立役者が、料理人・飲食店のプロデューサーも務めるイナダシュンスケさん。2011年、東京駅の八重洲地下街に開いた南インド料理店「エリックサウス」は現在、全国11店舗に拡大しています。
著書『南インド料理店総料理長が教える だいたい15分!!本格インドカレー』(柴田書店)は、3万部を超えるヒットを記録し、2023年にはセブンイレブンとのコラボしたビリヤニ「エリックサウス監修 ビリヤニ」を発売。南インド料理の伝道師として活躍を続けるイナダさんは、分野問わずあらゆる食べ物を探求する自身のことを「フードサイコパス」と表現します。その留まることを知らない「食」への好奇心は幼少期から培われてきたものだったのです。
「よその人は徹底的に潰すよ」。飲食店マスターの厳しい言葉
イナダ家は、単に「おいしいものが好き」なグルメ一家とは一味違い、「味わうことにどん欲な家庭」だったそうです。
「食事の時はみんなで目の前の料理の話をします。味はもちろん一番大事なポイントですが、それだけでもない。学校で何をしたとか、そういう話題は出ませんでしたね(笑)。また、両親ともに麺を打つところからラーメンをつくったり、食について知りたいこと、気になることを『自分でやってみる!』という雰囲気もありました」
家庭で育まれた味を見分ける舌に加え、「やってみる!」の精神も受け継いだイナダさんは、子どものころから台所に立って包丁を握りました。
趣味の料理が本格化したのは、故郷の鹿児島を出て京都大学経済学部に進学し、一人暮らしを始めてから。1Kのアパートの狭いキッチンに調理器具を揃えてラボ化すると、心の赴くままに「実験」を繰り返しました。大学時代のアルバイト先であるイングリッシュパブでは料理の腕を見込まれてメニューの開発を任されるようになり、ビーフストロガノフ、タコライスなどを提供するようになります。
「普通の飲食店のバイトは決まったレシピに基づいていかに忠実に作るか、ですよね。若いうちからレシピ自体を考える経験を積めたことは幸運でしたし、お客さまに喜んでもらえるのはひたすら快感でした。その経験があったからこそ、飲食店をやりたい、料理人になりたいという気持ちが具体的になっていったのだと思います」
イナダさんはプロの料理人に「特殊な能力を持つ別世界の人」と畏敬の念を抱いていましたが、料理を振る舞う快感に目覚めたことで、「このまま料理の道に進みたい」という思いが芽生えます。
ある日、行きつけのバーのマスターに「就活を辞めて、京都でお店をやりたいなって思っているんですよね」と冗談半分で打ち明けると、いつもかわいがってくれているマスターが、急に真顔になりました。
「うちに通うお客さまは君に親切にしてくれると思うけど、それは学生さんやからやで。京都で商売をする言うたら話は違うし、京都人はよそから来た人は徹底的に潰すよ」
この時、マスターは「いいね!」と適当な言葉をかけることもできたでしょう。そうせずに、浮かれた様子の若者に釘を刺しました。この言葉で我に返ったイナダさんは、「やっぱり自分が料理人と肩を並べるのは無理だ。会社員として飲食店に携わろう」と就職活動を続けサントリーに入社することに。イナダさんは現在もマスターに感謝していると言います。
「舞い上がっていた私が冷静になれたのはマスターのおかげ。あの日、あそこまで厳しく言ってもらえて本当に良かったです」
料理人は「異世界の人間ではない!」
サントリーでは地域の飲食店を巡り、自社のビールを売り込む営業部に配属されました。多様な飲食店を訪ね、それまで「異次元の存在」だと思っていた料理人たちと会話を重ねるうちに、イナダさんはあることに気付きます。
「料理人って、意外と普通の人なのかも」
「料理人って、自分が修業してきた分野に関してはプロフェッショナルだけど、つくったことのない料理に関しては詳しくないんだな」と感じることが多々ありました。また、おいしい料理はつくれても、なぜこう調理するのかという「理屈」を知らないことも少なくなかったそうです。
さまざまな料理を研究していたイナダさんは、営業をしながら「技術は及ばなくとも料理に関する知識は自分の方がある」と実感しました。それは、遥か彼方にいると思っていた料理人の背中が見えた瞬間でした。
また、サントリーで仕事を続けるうちに、学生時代に思い描いた「会社員として飲食店に携わる」ことは自分には難しいと分かってきます。会社で求められているのは飲食店の管理運営で、現場に立ちたいというイナダさんの希望とはかけ離れていたのです。営業先の料理人たちがやりがいを持ってはたらく姿を間近に見たイナダさんは、「自分がやりたいのは料理を作ることだ」と確信しました。
そんな時、同時期に食品会社の営業をしていた友人の武藤洋照さんが退職して居酒屋を開くと耳にしました。武藤さんは、当時の稲田さんにとって食に関する価値観を共有できる唯一の存在。イナダさんが「初めて出会った自分以外のフードサイコパス」と評する武藤さんから手伝ってほしいと言われ、二つ返事で承諾することに。
両親から「絶対に後悔する。あんたが思っているような生易しい世界じゃない」と言われながらも1997年、27歳でサントリーを退職し、武藤さんが設立した株式会社円相フードサービスに参画。岐阜市内にオープンした居酒屋で、かねてからの夢であった料理人としての道を歩み始めます。
料理人が集う居酒屋で「セルフ修業」の日々
居酒屋のコンセプトは「自分たちが本気で行きたい店」。2人のフードサイコパスがこだわり抜いたお店は、すぐに繁盛店になり、そのうちに近隣の同業者が集まるお店となりました。舌の肥えた客が増えたことで、二人のモチベーションは一層刺激されます。
「僕らの性格として、たとえばイタリアンのシェフに中途半端なパスタを出すことはできないんです。本職の人を納得させるためにはそのジャンルのマナーに沿った『正しい料理』じゃなければいけない。なので、彼らを満足させるためにその分野の知識を得て、料理を学ぶようにしました。そうやって自分たちを追い詰めて、セルフ修業していましたね」
いろいろなジャンルの料理人が来れば来るほど、料理の知識とレパートリーが増えていく。それは、イナダさんにとってアドレナリンが溢れ出る環境でした。
「レシピや技術という自分のコレクションが増えていく感覚なんです。カードゲームって、手持ちのカード多ければ多いほど最強デッキが組めるじゃないですか。私はコレクターのようにカードが増えていくことに喜びを感じるんです。だから、すごく楽しかった」
どんな料理人にも認められる料理を出そうと研究しているうちに、オールジャンルに対応できる腕と実力がつきました。その味はさらにお客さまからの評判を呼び、2店舗目、3店舗目とお店は拡大していきます。開業当初「ちょっと手伝うつもり」だったイナダさんは、いつの間にか主力の料理人に成長していました。
「知識ゼロ」からシェフがいなくなったカレー店を引き継ぐ
3店舗目にエスニック系の居酒屋がオープンした直後、イナダさんは知り合いから川崎にあるテイクアウト専門のカレー屋のコンサルティングを依頼されました。これが、カレーと向き合うきっかけとなります。
その店は、シェフが毎日熱心にはたらいていて、お昼になれば行列もできるのに、利益が上がらないのが課題でした。それまでインドカレーをつくったことがなかったイナダさんは、味ではなく調理の効率を上げることを目指し、料理の工程を改善しようと考えました。恐らく職人気質だったシェフは、それが耐えられなかったのでしょう。ある日、突然姿を現さなくなり、そのまま退職してしまいます。
困り果てた店舗のオーナーから「店をやってくれないか」と頼まれたイナダさんは、カレーに精通していなかったこともありあっさりと断りました。そこで折れずに粘ったオーナーが口にした「好きにやってくれていいんです」という言葉に、レシピコレクターの心が動きます。
「カレーの知識はほぼゼロに近い状況でした。だから、これはゼロから研究する許可が出たということだなと(笑)」
店には、辞めたシェフが残していった冷凍カレーとスパイスがありました。店を再開するなら、まずそのカレーを再現しなければいけません。イナダさんは、店にこもってカレーづくりに没頭しました。その様子を見にきた友人からは「ずっとニヤニヤしていて、怖かった」と言われるほどの熱中ぶり。
およそ1カ月かけてカレーを完成させて店を再開すると、評判は上々。店が入るオフィスビルのIT企業ではたらくインド人エンジニアもよく買いに来るようになりました。そんなある日、ムンバイ出身のお客さまから「南インドのカレーに似ている」と言われたそうです。
「本場の味は意識せず、日本人の舌に合わせたレシピを考えたのですが、それが偶然南インド風になったんです」
南インド風のカレーができあがったそのお店の名前は「エリックカレー」。店を去ったシェフが自分の師匠の名前からとった店名でした。
野菜と塩だけでなぜおいしい?南インドで感じた衝撃
自身のカレーが南インド風と評価されたことで興味が湧いたイナダさんは、南インド料理の名店として知られる都内の老舗「ダバインディア」を訪ねました。そこで本格的な南インドカレーやミールス(野菜メインの副菜、複数のカレー、長粒米を一皿に盛った定食)を知り、虜になります。
「知らない味がどんどん出てくるんですよ。最初は何がおいしいのかよく分からないんだけど、背景の文化を知ってそれを何度か食べると、ある時突然、ストンと腑に落ちて目覚めるんです。真のおいしさを発見したようで楽しかったですね」
まだ南インド料理店が少なかった当時、「ダバインディア」に通いながらほかの店にも足を伸ばしました。それでますます興味が募り、洋書のレシピを購入して研究を重ねることに。それでも飽き足らず、ついには南インドへ旅立ちました。フードサイコパスにとって、そこは魅惑のワンダーランドでした。
「特に驚いたのは、ベジ(野菜)料理ですね。和食だったら出汁や醤油、味噌などの調味料で味付けするし、イタリアンやフレンチだったら、肉やシーフードと組み合わせる。でも南インドでは塩だけで成立させてしまう。これがもうショッキングでした。野菜と塩だけでなんでおいしくなるのか、さっぱり分からない。おいしくなるはずがないと思っていました。でも、彼らと同じやり方をすると、おいしくなる。これは和食、中華、洋食にもない技術なんです」
インドで現地のレシピ本を大量購入して帰国。この時、エリックカレーのレシピは完成していたため、「個人的な趣味」の研究でした。
イナダさんはどこに出す当てもない南インド料理をひたすらつくり続けます。そして、このレシピが後に活かされることになるのです。
リスペクトされる店をつくるために必要なこと
イナダさんは、南インド料理に夢中になりながら、エリックカレーの経営に頭を悩ませていました。川崎にお店を出店したのち、西新橋と岐阜市に出した店舗が「大コケ」してしまったのです。川崎店が成功したのは、人口がそこそこいるのに競合が少ないオフィスビルという特殊な立地が大きな要因でした。それが分かっていなかったため、立地で失敗してしまったのです。さらに飲食店を経営するうえでもっと根本的な要因もありました。
「西新橋と岐阜の店は、安くておいしい店としてお客さまにかわいがられてはいました。でも、少なくとも『この店すげえ!』という味へのリスペクトは感じなかったんですよ。私は好きな店を、本当にリスペクトしています。ということは、飲食業で生き残っていくために自分たちの店もお客さまにリスペクトしてもらわないといけないんです」
東京駅と直結する八重洲地下街の開発を手掛けるデベロッパーから「エリックカレーのような店を出さないか?」とオファーが来たのは、西新橋と岐阜での敗因を分析し終えたころ。イナダさんは考えました。
「次の店は、リスペクトを集めたい。そのためには、本場の味を出す以外にない」
西新橋や岐阜で出した「安くておいしい店」では、同じ失敗を繰り返してしまいます。そこで、エリックカレーで出している濃厚なインドカレーとともに、本格的な南インドカレー、ミールスやビリヤニをメニューに組み込むことにしました。現地のレシピ本を見て独学していたから、すべてのレシピは頭の中にあります。
提供メニューを知ったほかの社員から「なんでわざわざそんなことするんですか?」「普通のカレーを出せばいいじゃないですか」と異論が出たそう。しかし、イナダさんは意に介しませんでした。
2011年9月、日本人の好みに媚びない、南インドの味を再現した料理が並ぶ「エリックサウス」をオープン。店舗名にも「南」への思いを込めました。
マニアを惹きつける手法は知っている
2011年当時、都内に南インド料理を出す店は数軒しかありませんでした。イナダさんは、そこにポテンシャルを見出していました。
「ニッチなお店なのは誰の目にも明らかですよね。ニッチなものを売るには、広範囲からマニアを集めるしかありません。マニアの人たちは熱量が高いから、彼らが認めてくれればSNSやレビューサイトにも好意的にプッシュしてくれるだろうと期待しました」
エリックサウスの存在を、マニアにどう届けるか。イナダさんは、マニアの琴線に触れるような情報をSNSで発信し始めました。それは、難しいことではありませんでした。なぜならイナダさん自身がマニアだから。自分の心が動くようなことを投稿すればいいのです。
次第に遠方に住むマニアが興味津々で訪ねてくるようになりました。その時に期待外れだと思われたら、辛辣な批判を浴びるため料理のクオリティには人一倍気を遣いました。岐阜の料理人が集まる店で厨房に立っていた時と同じ緊張感でしたが、不安はありませんでした。
「自分もマニアだから、マニアのツボはわかるんです。自分が食べたいもの、自分が好きなものを出せば良いと思っていました」
日が経つにつれて、レビューサイトに高評価が掲載され始めました。そこには、一般客が読んでも理解が追いつかないような難解な言葉が並んでいます。それこそ、イナダさんが求めたものでした。
「レビューに暗号文みたいな謎のコメントが並んでいて、そこに高得点がついている。その状態になると、マニアじゃない人がネガティブなコメントを気軽に書けなくなるんです。たとえ、口に合わなかったとしても自分が分かってないのかなって思うでしょう。早くこの状態になるように、戦略的に考えていました」
マニアはマニアを惹きつけます。エリックサウスは少しずつその名前を知られるようになり、やがて本格的な南インド料理を出す店の一つとしての地位を確立しました。
新時代のフードサイコパスの楽園をつくる
エリックサウスは現在11店舗まで増えました。書籍を出し、セブンイレブンとコラボし、コロナ禍には通信販売「おうちdeエリックサウス」もスタート。2011年の八重洲店オープンからおよそ13年、あの手この手で南インド料理を広め、深めてきたイナダさんは今、心境の変化を感じています。
「しばらくはむやみにレシピカードを増やすのではなく、手持ちのカードの使い方を研究したいですね。たとえば、東京と大阪では同じカードデッキでは勝負できないんです。社会や環境の変化に合わせてデッキを組み替えなきゃいけない。それが今のテーマです」
イナダさんはさらに、これまでにない楽しみを見出しました。
「エリックサウスのコンテンツは、ほぼゼロから自分が作りました。だけどここ数年、自分より新しいものを生み出すことに長けたスタッフが続々と現れているんです。彼らの姿からはかつての自分の残像を感じつつ、自分からは絶対この発想は出てこなかったという発見が同時にある。それを食べることに興奮するんですよね。うちのスタッフはみんな変態だなと思います(笑)」
エリックサウスに集結したフードサイコパスたち。彼らの才能を目の当たりにしたイナダさんは、新たな使命を抱いています。
「クリエイターのアイデアを実現しやすい環境と、クリエイターが内部から生まれ育っていく環境を整えるのが、自分の使命です。その使命を果たしたら、彼らの様子をニヤニヤしながら眺めることができる。それって私にとっては最高のご褒美なんですよ」
(文・川内イオ 写真・トヤマタクロウ)