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「触らないでください」との張り紙があった!:伊東和彦の写真帳_私的クルマ書き残し ASA1000GT:#37

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晴海の朝、夢を追いかけて

いま、思いおこせば、1960年代の外車ショー(東京オートショー)は、クルマ好きのなったばかりの私を含めた子供たち(大人もだ)にとって、貴重なカーウォッチングの場であった。街ではまず遭遇できないめずらしいクルマを、“たくさん”観ることができたからだ。

輸入車ディーラーが催す独自の顧客対象のショーも盛んに開催されていたようだが、たとえそれを知ったとしても、私たち中・高生にとっては敷居が高すぎて近寄れる雰囲気ではなかった。いっぽう、チケットを買えば入場できる輸入車ショーは欲求を満たしてくれる場であり、朝早くから晴海の国際見本市会場までカメラを抱えて仲間と行くことが楽しみになった。

新車の他に中古車を展示する会場もあり、1968年(確か)に、初めて見るシルバーの小型2座クーペに目が吸い寄せられた。近くに置かれたポルシェ911やアルファロメオ・ジュリア・スプリントGTにくらべて小振りながら、ボディラインからそれほど知識のない私でもイタリア車だと感じ取れた。
 
だが、スタイリング以上に目を奪われたのは、ボンネットに無造作に貼られた注意書きの紙で、「軽合金ボディのため触れないでください」と書かれていたことにおおいに興味を抱いた。中学生の知識ではボディはスチールが一般的であり、軽合金とはアルミ製なのかと、意味が理解できたわけではないが、「タダモノではないのだろう」と強く印象に残った。

これが私にとってはじめてのASA1000GTとの接近遭遇の時。ボンネットに無造作に貼られた注意書きの紙で、「軽合金ボディのため触れないでください」とあった。

説明書きにはASA1000GTとあったが、150万円の中古車価格と出品会社(ポルシェディーラーの三和自動車とあった)だけが記され、諸元の表示はないため、私にとって初めて目にしたクルマについての概要はわからなかった。

だが、いつもこうした場に一緒にいた博学のI君とM君が概要を説明してくれたこともあり、私のASAなるクルマへの好奇心は多いに高まった。M君がデザインはジウジアーロが担当したと話してくれ、フェラーリ好きのI君が、もともとはエンゾ・フェラーリが発案した、V12フェラーリより安価な1000cc級以下の排気量ながら、高性能で高品質な小型グランツーリスモ計画、「850グランツーリスモ」がルーツであり、“フェラリーナ”のニックネームで呼ばれたことを教えてくれたことが決定打になった。

果たして後述するように、後年になってからカタログやFIAホモロゲーションシート、パーツリストを見て、高度なメカニズムにベルトーネ時代のジョルジェット・ジウジアーロがボディを描き上げるという、250GTシリーズをスケールダウンした、正に“小型フェラーリ”に相応しい設計が成された事実を知ることになる。

友人が購読していた自動車専門誌で調べてみると、1965年11月に開催された第7回東京オートショーが日本市場でのデビューとなり、66年のショーにも展示されていることがわかった。また、輸入代理店はロータスで知れた東急商事であり、日本での販売価格は295万円だったことも知った。さらに1965年のショーを終えたあとで、ハイクラスのクルマ関係アパレルや用品を開発販売していた“Racing Mate”を率いる式場壮吉氏が編集に携わっていた時期の『Car Magazine』誌(ベースボールマガジン社刊)に3ページの試乗記が掲載されていることを先輩から教えられた。だが、周囲に雑誌を持つ者はおらず、記事を読むことができたのはずっと後になってからだ。

この出会いから長い時を置いて1980年代後半に、足繁く通っていたヒストリックカー整備工房のBUGATHÉQUEで、おそらく外車ショーで初対面したASAと思われるクルマに再会した。工房を主宰するUさんが入手したばかりで、日本に正規輸入されたものだと聞いたことであのクルマだと思えた。気さくなUさんに許しを得て、しげしげと細部まで観察して、工房の周囲で少し運転させてもらい、初対面以来の好奇心のモヤモヤを完全に果たすことができた。そして精緻なメカニズムを実際に目にして、おおいに興味を持った。

これ以降、ASA社の情報を集めるように務め、雑誌編集者の仕事に就いてからは、ASA1000GTの特集記事を企画したくらいのめり込んでしまった。この際にASAオーナーで詳しいTさんを友人から紹介され、情報交換ができたのは幸いだった。彼からは『Car Magazine』誌(ベースボールマガジン社刊)に掲載された試乗記を読ませてもらい、さらに海外の雑誌に掲載されたASA関連の記事コピーをいただけた。このASAを核とした交友関係は暫く続いたが、Tさんの急逝によって突如途絶えてしまった。

これは、私がASAを調べはじめてから知り合い、情報交換を楽しんだTさんが当時所有していた1000GT。このようにヘッドランプの形状には仕様の違うものが存在した。

茶封筒に詰まった時間の記憶

さらに情報が増えたのは、2010年にフリーランスになった挨拶に行った日本の輸入車業界での実務経験が長いH氏に、なにげなくASAとの出会いを話した時だった。話がASAに及ぶと、その資料ならここにあるよと茶封筒を探し出し、他の資料とともに“私の独立祝い”にと譲ってくださった。

封筒に入っていたのは、ASA1000GTの数枚のカタログとFIAのホモロゲーション資料だった。さらに後日、輸入車販売に詳しいY氏に尋ねたところによれば、東急商事では2台しか正規輸入されたに過ぎないことを教えられた。

詳しく知りたくなった時にH氏から譲られた多数の資料の中に“ASA関係”と書かれた茶封筒が存在した。その中にはカタログが数枚あった。フェラーリと同一の設計を持つ鋼管フレームの写真もあった。
このカタログを見てスパイダー仕様があることを知った。
カタログを見開いたところ。魅力と訴求点はこの1032cc(69×69mm)から97HP(SAE)/7000rpmを発揮する軽合金製SOHCの4気筒エンジンだろう。97HPとは甚だ楽観的なイタリアン表記だが、1ℓクラスロードカーとしては最強クラスのひとつだ。
冒頭に掲げたのはジョルジェット・ジウジアーロのスケッチだが、生産型でもその意図はよくいかされているといえよう。

ASA1000GTの295万円という価格を1965年のショー会場に並んでいたスポーツカーと比較すると、ポルシェ912は同価格であり、同じ東急商事が扱うロータス・エランSr.3 DhCが298万円、アルファ・ロメオ・ジュリア・スプリントGTが234万円、MGBなら159万円で手に入ったことが分かる。

これを考えれば、日本での知名度が無きに等しく、1000cc級のASA1000GTに顧客が集まらなかったのは充分に想像できる。また、当時を知るベテラン・エンスージアストは、「ショールームに飾られていたASAを見に行って、ほしくてたまらなくなったが、高価すぎて断念した」といい、英国製スポーツカーを入手したという。

イタリア国内でも1ℓ級としてはかなりの高額であることには変わりはなかった。だが、エンゾ・フェラーリ自身が計画を推進し、同社の技術陣が開発に関与したフェラーリ流の典型的な特徴を備えた、97HP(SAE)/7000rpmを発揮するSOHC1032cc 4気筒エンジンや、楕円鋼管を使ったシャシー。さらに4輪ディスクブレーキなどを備え、公称最高速度が190km/hに達するという高い性能だけでなく、車全体の品質を考えると約240万リラは妥当な価格であると考えられたという。また、その優れたロードホールディングは専門誌から高い評価を得た。それゆえに当初の楽観的な計画では、1年間に3000〜5000台の生産が予想されたという。だが、イタリア国内での販売は大苦戦であった。人々は安価なフィアットやアルファ・ロメオを選んだのである。

1990年代(?)になってから、知人のクラシックカー・ディーラーが海外から持ってきたスパイダー。入荷したばかりの時に見学に行った。
スパイダーは部分的にFRPをボディに使用していると、この時に聞いた。クーペをベースにしたスパイダーとしては格好がまとまっていると思う。
この時代のイタリアンGTやスポーツカーが好きなエンスージアストにとっては、お手本のようなレイアウトと完璧な“色気”を備えた計器盤とステアリングだ。これだけでほしくなったが、当時は手も足も出せず。
1ℓ級としてはコストがかかったエンジン。SOHCのカムシャフトカバーの意匠はフェラーリのそれに似ている。

富める国アメリカではフェラーリの販売網を担うルイジ・キネッティが扱い、1964年9月に発売された。だが、V8の大排気量が一般な北米市場では、たった1ℓと小さいながら約6000ドルと高価であり、知名度が低いASA1000GTには、フェラーリ・ユーザーでも振り向くことは希有だったという。427(7ℓ)エンジン搭載のシボレー・コルベットなら4500ドルで買えたから、よほどの奇特なフェラーリ・エンスージアストが、ガレージピースに買う程度だっただろう。
 
こうして、ASAの名の元でエンゾ・フェラーリの基本構想が実現したフェラリーナ計画は商業的に失敗に終わった。実際の生産台数は不明だが1000GTは最大でも75台程度、これにコンバーチブルと競技用車両を加えても3桁には達していないのではと言われている。ASA工場は1967年に閉鎖されたが、その後に予備部品で組立てられた車両もあり、70年代初頭まで新車として販売されたとする説もある。

だが、エンゾ・フェラーリが提唱したという輝かしい背景を持つことから、現在ではヒストリックカーとして人気が高いモデルとなっている。

実は、この稿を書き終えたころ、ASA1000GTが好きだという方、2名とお会いした。あの時、薄暗い中古車展示場で、幼い私が見初めた小さなイタリアンGTは、交友の輪をどんどん広げてくれている。

生まれが生まれだから、レースへの参加は前提であったのだろう。FIAのホモロゲーション取得も早々に実施している。

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