君はどこに住んでいたのですか?~吉田拓郎「高円寺」「リンゴ」の面影をさがして【街の歌が聴こえる/高円寺編】
子供の頃に吉田拓郎の「高円寺」を聴いてから、高円寺に興味を抱くようになった。1972年に発売されたアルバム『元気です』に収録されていた曲。当時はまだ上京したことはなく、東京のことはまったく知らず。テレビや映画に映る新宿や銀座の街並みも、月や火星と同じくらいにリアリティーを感じていなかったのだけど。
上京してきたミュージシャン志望はみんな高円寺をめざす!?
1970年代の高円寺はいまよりずっとマイナーな街だった。タウン情報誌が書店に並ぶのは、もう少し後の時代になる。ネットなんてもちろんない。田舎町で暮らしている者が、山手線の外にあるマイナーな街の情報を入手するのは難しい。
だからまったく謎な街だった。それが、よけいに好奇心をくすぐる。アルバム『元気です』を聴いてからはしばらくの間、耳の奥底に「高円寺」のワードがこびりついて離れなかった。
JR高円寺駅南口を出て、線路に沿って阿佐ケ谷方向へ100mほど進み、左手の路地に入ってすぐのところ。かつてこのあたりに「ムービン」はあった。1968年に創業された中央線初のロック喫茶で、近隣に住むミュージシャンの溜まり場になっていたという。
1970年代に入ると同類の店が界隈に増えて、高円寺は“ロック喫茶やジャズ喫茶が多い街”‟ミュージシャンや音楽好きが集まる街”といったイメージが世間にも広まりだす。吉祥寺や国分寺とならんで、中央線沿線の若者文化発信地のひとつに。この3つの街を総称して「三寺」とか呼ぶようになったもこの頃からか? いまは、この呼び方もあまり聞かれなくなったけど。
上京してきたミュージシャン志望の若者たちも、同類の者が多い高円寺界隈に住み着くようになる。
吉田拓郎「高円寺」(1972年)
吉田拓郎の場合は、上京時からすでにレコードが発売されメジャーデビューを果たしていたのだが。それでも慣れない東京での一人暮らし、心細さもあったのだろう。
仲間のいる高円寺はなにかと安心。また、当時はまだ長髪に偏見が強く、それを理由で入居を断られることも多かった。しかし、「高円寺」界隈の家主たちはミュージシャンを見慣れており、他の地域よりは住まい探しがやりやすかったようである。
1971年11月に発売された『人間なんて』のジャケット写真は、拓郎が当時住んでいたアパートの階段で撮られたものだという。その場所についてラジオ番組で本人が「杉並区堀ノ内」と言っていた。
その場所まで行ってみよう。
JR高円寺駅からつづく長いアーケードを南へ。アーケードを抜けても、細い道筋には小規模な店舗がならぶ商店街が青梅街道まで延々とつづく。青梅街道を越えてさらに南下、五日市街道を過ぎたあたりでやっと「堀ノ内」という住居表示を目にする。
でも、ここってもう”高円寺”じゃないよね?
青梅街道沿いには地下鉄・新高円寺駅がある。堀ノ内に住んでいれば、最寄駅はこちらになるだろう。
この新高円寺駅には私もなじみがある。80年代にはこの駅の近くに住んでいた友人のアパートによく遊びに行っていた。それは世の中がバブル景気に浮かれていた頃だったが、この街の路地裏には古い木造の安アパートが軒をつらね、ミュージシャン志望や役者志望、貧乏学生などが小汚い服装で昼間からウロウロしていたっけ。
地上げや再開発ブームも、他国の出来事のような。そんな感じだった。90年代に出版された『中央線の呪い』(三善里沙子)では、高円寺のことを「日本のインド」と評していたけど、この新高円寺駅周辺こそが、インドの雰囲気を最も濃厚に漂わせていた場所だったと思う。
吉田拓郎「リンゴ」(1972年)
いまはこの駅前を行き交う人々もすっかり小綺麗になり、昔と比べてインド濃度はかなり薄まっているような。青梅街道に軒をつらねる店々も、当時とは違って全国展開するチェーンばかり。と、思いきや、
「えっ、あれは!!」
驚いた。昔、友人とよく入った駅前の喫茶店が、当時のままの姿で健在だった。
「高円寺」を聴くとこんな感じの古い喫茶店が頭の中に浮かぶのは、同じアルバムに収録されていた「リンゴ」のイメージが混在しているのだろう。たぶん。
この駅前の喫茶店は1968年の創業というから、拓郎が上京した当時からここにあったはず。
いま私が座る窓際の席で、拓郎も座ってコーヒー飲みながら仲間と談笑したり、歌詞や曲を書いていたりしたのだろうか。とか、懐かしい椅子の感触を尻に感じながら、いろいろと想像をめぐらせた。
ちなみに「リンゴ」の歌詞は、拓郎の名曲を多く手がけた作詞家・岡本おさみが書いたもの。彼の歌詞には他にも「君が好き」など、喫茶店の情景を描いたものが多い。そして歌詞にでてくる喫茶店は、必ず椅子のバネが軋(きし)んでいたり壊れている。
バネが軋む椅子……これも、現在ではめったにお目にかかれない。高円寺駅周辺商店街の喫茶店・カフェ数は1978年に76軒、2015年には69軒と数はさほど減ってはない。が、その大半が大手のカフェ・チェーン。店内の備え付けられた椅子はどれも薄くて硬く、長く座っていると尻が痛くなる。
バネ入り古い椅子はギシギシと軋んで煩いのだけど、尻には優しく何時間座っていても痛くならない。あの感触を味わえる店も、いまでは少なくなってしまった。
店頭にならぶ中古楽器から、夢破れた者たちの挽歌が聴こえてくる
バネの軋む椅子を置いた喫茶店と同様に、ジャズ喫茶やロック喫茶もまた消えてなくなった。1975年に「ムービン」が閉店したあたりからブームは下火となり、同類の店も次々に閉店。90年代にはもう見かけることはなくなった。
しかし、それでこの街から音楽が消滅したわけではない。
この頃から高円寺界隈の商店街や路地に古着店をよく見かけるようなった。2000年代にはその数が100軒を越え、下北沢とならぶ‟古着の街”となる。
古着とロック音楽の関連は深い。昔からロックミュージャンには、ビンテージ物の古着をステージ衣装として愛用する者は多かった。ファンもそれを真似て古着を物色するようになり、その需要を当て込んだ古着店ができたという。
商店街には中古CDやレコードを売る店も増えて、貴重な廃盤を物色するマニアたちが徘徊するようになる。ジャズ喫茶やロック喫茶が消滅しても、高円寺は‟音楽の街”といった雰囲気が濃厚に漂っていた。
また、高円寺には昔から数軒の貸スタジオや楽器店があったのだが、そちらも数は減っていない。スタジオの予約が取れず、カラオケ店で練習するアマチュアバンドもよく見かけた。
界隈にはあいかわらずミュージシャンやミュージシャン志望が多く住んでいたようだ。90年代初頭のバンドブームもあり、むしろ、数を増やしていったのだろう。
筋肉少女帯「高円寺心中」(1994年)
中古楽器を売る店には、いつもギターとかドラムがいっぱい並んでいた。しかし、大切な楽器を売るというのは……メジャーデビューできるのは限られたひと握り。大半は夢を諦め、不要になった楽器は売り払って高円寺を去ってゆく。そういうことなんだろう。
「高円寺には質屋が多くて、春になると質流れの楽器やC Dが店頭に並ぶんです。高円寺を出た人の遺産ですね」
と、杉並区ウェブサイト「杉並区の著名人に聞く」のインタビューで大槻ケンヂも語っている。
1994年にリリースされた筋肉少女帯のアルバム『UFOと少女』に収録された「高円寺心中」も、夢を諦めるバンドマンと彼女の悲しい話だった。
大槻ケンヂは杉並区野方の出身、自宅から高円寺駅まで2km圏内で地元の感覚。幼い頃は父に連れられ、いまは高円寺純情商店街を名乗っている駅北口の商店街にもよく通ったという。
高円寺駅北口にはかつて、日活ロマンポルノを上映する「高円寺平和劇場」という映画館があった。
1989年に閉館していまは自転車駐輪場となっているのだが、この映画館が健在だった頃、付近には数軒のライブハウスというか音楽酒場みたいな店があり、バンドマンがたむろする場所になっていたという。
大槻も小中学生になりチャリに乗るようになると、さらに頻繁に高円寺界隈をウロつくようになる。この街にはびこる夢や挫折を、いっぱい目にしてきたことだろう。
取材・文・撮影=青山 誠
青山 誠
ライター
歴史、紀行(とくにアジアの辺境)、人物伝などが得意分野。大阪芸術大学卒業。著書に『三淵嘉子 日本法曹界に女性活躍の道を拓いた「トラママ」』『首都圏「街」格差』 『江戸三〇〇藩城下町をゆく』『戦艦大和の収支決算報告』ほか多数。ウェブサイト『BizAiAi!』で「カフェから見るアジア」、雑誌『Shi-Ba』で「日本地犬紀行」を連載中。