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カント哲学に入門するなら決定的に大切な2つのポイントとは? 御子柴善之「カント哲学 「三批判書」を読み解く」

NHK出版デジタルマガジン

カント哲学に入門するなら決定的に大切な2つのポイントとは? 御子柴善之「カント哲学 「三批判書」を読み解く」

 哲学研究の第一人者が集結し、西洋哲学史の大きな見取り図を示す好評シリーズ『哲学史入門』。第2巻『哲学史入門Ⅱ デカルトからカント、ヘーゲルまで』より、御子柴善之さんの「カント哲学 「三批判書」を読み解く」を抜粋して公開します。

『哲学史入門Ⅱ デカルトからカント、ヘーゲルまで』

御子柴善之「カント哲学 「三批判書」を読み解く」

ヒュームとルソーからの影響

斎藤 カントというと、教科書的にはイギリス経験論と大陸合理論を統合した哲学者として解説されます。こうした理解は現在でも有効なのでしょうか。

御子柴 非常に大事な問いです。たしかに私が学生の頃には、そう習いました。しかし、いまどき研究者がそんなことを言ったら、いささか見識を疑われます。

  そういう図式は、カントの後に登場する哲学者や哲学史家によって作られた哲学史ではないでしょうか。ある哲学者にとって、自分の前で知の流れが収束しているように歴史を描いたとしたら、自分はそれを受け継げばよいことになるわけで、仕事がしやすくなりますよね。経験論と合理論の統合という物語が生まれた背景には、そうしたバイアスがあったのではないでしょうか。そして日本の研究者たちも長らく、この物語を受け継いできたのだと思います。

イマヌエル・カント( 1724–1804) ゴットリープ・ベッカー作、1768年 シラー国立博物館

御子柴 経験を重視する経験主義的な潮流と、理性重視の哲学との融合ということなら、カント以前のドイツ語圏の哲学における有力者だった、クリスチャン・ヴォルフ(1679-1754)まで遡れます。ヴォルフは「理性と経験の結婚」と言うわけですから。

 カント哲学になんらかの統合を見るとしたら、独断論と懐疑論とをふまえた批判哲学ということになるでしょう。このとき、経験論に由来する懐疑論はたんにネガティブな位置を占めるのではなく、独断論を揺り動かし、批判の重要性に気づかせる役目を果たします。

斎藤 なんと! いきなり蒙を啓かれた思いです。

御子柴 いまの質問に関連して、「カントが経験論者であったことはあるのか」という問題も重要です。私は否定的で、カントはどこまでも理性主義者です。ただ、「合理主義者」や「合理論者」と言ってしまうと、ちょっと違うんですね。理性主義も合理主義も、英語ではどちらもラショナリズム(rationalism)です。これをどう訳すかという問題ですが、合理論や合理主義と訳すと、〝ある目的を効率よく実現するための理性〟というニュアンスが強くなりますよね。

斎藤 日常でも「あいつは合理主義者だ」というと、そういうニュアンスが感じられますね。

御子柴 カントの理性主義にもそういう側面が部分的にはあります。しかし、そうではない理性を見つけたところがカント哲学の真骨頂なので、それを合理論と言ってしまうと違和感を覚えます。では、カントの理性主義はいわゆる合理論とどう違うのでしょうか。

 次の二点を押さえることが、カント哲学に入門するなら決定的に大切です。一つは「理性には放っておくと、自己矛盾を犯すような困ったところがある」とカントが指摘していること。もう一つは、「その困った性格のある理性こそが、私たちの自由な意志決定の根拠になる」と議論を進めていることです。カントの言う理性はこの二面性を持っていて、どちらも合理という言葉に収まらないものなんです。

 では経験論的な側面はないのかといったら、「経験論者ではないけれど、経験を重視している」という説明をするのが適切でしょう。そもそも何か刺激を受けるという経験がない限り物事は始まらないとカントは考えていましたし、そのことは『純粋理性批判』第二版の序論の冒頭に「私たちのすべての認識は経験をもって始まる」と書いてあるとおりです。

斎藤 経験を重視しているということは、カントはイギリス経験論に括られるロックやヒュームをよく読んでいたんですか。

御子柴 カントは、大学時代の恩師であるマルティン・クヌッツェン(1713-51)からロックの思想を学んでいたようですし、ヒュームの警告によって「独断論的なまどろみ」が破られたと自ら言っているぐらいですから、二人の著作を知っていたことは間違いありません。ただ、ロックの何を読んでいたのかという点になると、はっきりしたことはわかってないんです。ヒュームに関しては、主に読んだのは『人間知性論』だろうと言われています。なお、研究者の中には『人性論』も読んだはずだと主張する人もいます。

「独断のまどろみ」とは何か

斎藤 カントの入門書では、ヒュームによって「独断論的なまどろみ」が破られたという話はよく出てきます。具体的にはどういうことなんでしょうか。

御子柴 ここでまた哲学史的な問題が生じるんです。ヒュームは「原因と結果という観念は、人間の心の習慣に由来する主観的なものにすぎない」という議論を展開した経験論の哲学者です。この議論によってカントは、「独断論的なまどろみ」が破られた。ここで言う独断論的なまどろみとは、理性によって何を知ることができ、何を知ることができないかという批判的な吟味を怠って、たとえば原因と結果の必然的な結びつきを自明視していることを言います。

 ここまではいいでしょう。しかしその先が問題です。私が学生の頃は、次のように習いました。カントは「ヒュームの議論だと自然科学が根拠づけられなくなるから困る」と思い、ア・プリオリな(つまり、経験に依存しない)原因性の概念を確保したんだ、と。

斎藤 えっ、違うんですか。ヒュームの経験論だと「確からしい」にとどまる知識しか得られず、それでは自然科学の客観性が担保されないから、カントは自然科学を基礎づけようとしたという説明をよく見かけるんですが。

御子柴 もちろん全面的に違うわけではありません。しかし、真面目に読むと違うんですよ。カントはそんな文脈でヒュームのことを批判してなんかいません。むしろ経験できる世界についてはヒュームの説でもある程度は「いける」と思っているようです。自然科学では、仮説を立てて実験・観察をして実証する。新たに反証例が見つかれば、認識された世界をどんどん組み替えていくことができるわけです。

 しかし、経験できない世界の事柄については、反証が見つかることもないし、世界が組み替わることもない。カントは、習慣や経験に還元されない、普遍性と必然性の哲学を実現し、それによって新しい形而上学を構想しようとしていました。だから、すべては経験に依存するんだというヒュームの説では困る。これを認めてしまうと、ア・プリオリなものがあるということじたいが否定されてしまうからです。カントは次のように述べています。

彼〔ヒューム〕は、ア・プリオリにそして概念に基づいてそのような結合〔原因と結果との結合〕を考えることは、理性にとってまったく不可能であることを、反論の余地なく証明した。

『プロレゴーメナ』アカデミー版カント全集第四巻二五七頁、御子柴善之訳

 ここでカントは「反論の余地なく証明した」と書いていますが、彼がヒュームの主張に賛成するわけではありません。この点は注意が必要です。しかし、ア・プリオリな概念や理性が否定されたら、経験に依存しない概念によって遂行される形而上学は成り立ちません。それこそがカントがヒュームから受け取った衝撃でした。つまり、カントにとってのヒューム問題とは、自然科学の根拠づけ問題ではなく、むしろ形而上学が成立するかどうかという問題だったのです。ヒュームのやり方では形而上学を構想する可能性がなくなるとカントは考えたのです。この点は、『実践理性批判』の序文で明確に表現されています。哲学史上のカントを考えるならば、この点は強調しておきたいと思います。

 ちなみに、カントは1790年の『判断力批判』で、人間の認識能力を見極める「批判哲学」の仕事を終え、今後は理説的な仕事を行うと宣言します。「理説的な仕事」とは、理性という能力の批判ではなく、ア・プリオリな原理に基づいた、体系的な哲学的思考を展開することです。それが、1797年に『道徳形而上学』として結実する形而上学だったのです。なお、カントはすでに1786年に『自然科学の形而上学的原理』という著作も発表しています。そこに含まれる「形而上学」という文字に注目してください。

特権意識からの解放

斎藤 ヒュームと並んでカントが大きな影響を受けた哲学者にルソーがいます。ルソーは具体的にどのような影響をカントに与えたのでしょうか。

御子柴 よく知られているのは『エミール』の読書体験ですよね。三〇代のカントはこの本を夢中になって読みました。その時期に、ルソー(1712-78)からの直接的な影響を物語る文章を、カントは『美と崇高の感情に関する考察』という著作の手沢本(著者自らが書き込みをした本)に書き付けています。その一節を引いておきましょう。

ルソーが私を正してくれた。この眩惑的な特権は消滅し、私は人間を尊敬することを学ぶ。そして、もし私が、このような考察は他のすべての人々に人間性の権利を回復するという価値を与えうるということを信じないならば、私は普通の労働者よりもはるかに役にたたぬ者であろう。

アカデミー版カント全集第二〇巻四四頁、尾渡達雄訳

御子柴 この文章の前でカントは、学者である自分はかつて、何も知らない大衆を軽蔑し、彼らに対して優越感を持っていたと告白しているんですね。それが「眩惑的な特権」ということです。自分の学問的能力を誇っていたカントは、ルソーの著作を読むことで、学者にありがちな特権意識から解放された。同時に、誰もが人間であることがそれじたいとして尊いと学んだのです。さらにはこうも言います。「哲学する」ことが人間の尊厳や人間性の権利の保障につながらないのだったら、哲学は何の足しにもならないのだ、と。

斎藤 感動的な一節ですね。これはのちほど詳しくお聞きしようと思っている『実践理性批判』につながっていくように聞こえます。

御子柴 たしかに『実践理性批判』に代表される、カントの倫理思想との関係が強いというのはその通りです。研究者のなかには、『純粋理性批判』にもルソーからの強い影響が読み取れると主張する人がいます。

 『純粋理性批判』という本は、認識論や形而上学批判を緻密に議論しているように見えます。しかし、カントは時折「自分には夢があって、いつかほんとうに人間の権利がそれとして認められている平等な社会を構想してみたいんだ」といったことを同書のなかにポロッと書くことがあります。こういう思想はどこから来ているのかと考えると、やはり先ほどの有名な文言に立ち返らざるをえないわけです。その意味では、ルソーから受けた影響は、カントのなかではずっと生きていたと言えると思います。

 さらに言えば、カントの倫理思想の中心に位置づく概念に「道徳性」がありますが、人間社会が文明化しても、それがただちに道徳化をもたらすわけではない、という洞察にも、ルソーからの影響を認めることができます。

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御子柴善之
1961年、長野県生まれ。早稲田大学文学学術院教授。早稲田大学第一文学部卒業、同大学院博士後期課程満期退学。1992~1993年、ボン大学に留学。専門はカント哲学を中心とした西洋近現代哲学、倫理学。2020~2024年、日本カント協会会長。

斎藤哲也(聞き手)
1971年生まれ。人文ライター。東京大学文学部哲学科卒業。著書に『試験に出る哲学』シリーズ(NHK出版新書)、監修に『哲学用語図鑑』(プレジデント社)など。

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