クマはいて、当たり前
先日まで北海道の真ん中にいました
先週、友人に誘われて、北海道上川町という、北海道の真ん中あたりに位置する人口3000人の小さな町に行った。
上川町役場の人たちは「役場をベンチャー化する」と宣言して、役所らしからぬ面白い取り組みをし続けている。
庁舎の中にテントを張ったり、ゲーミングチェアを置いたりしていて、そこに色んな人たちがやってくる。
上川町、東京、それ以外の地域…と多拠点生活をしている連続起業家。
M1に出たり、コミュニティマネージャーをしたりしながら、日本中を動き回っている人。
有名コンサルティングファームからやってきている超優秀な若い人。
それ以外にもなんだかよくわからない面白い人たち。
そんな動きに惹きつけられて、また新たに人がやってくる。
夜に、上川町の人たちと、来訪している人たちが混じって、みんなで飲んだり食べたりする会が開かれた。
そこで仲良くなった人は、ぼくが住んでいる大阪の町の、隣町の人だった。
大阪から北海道の真ん中まで来て、隣町の人と意気投合する。
なんだかもったいないような、よくわからないことが起きている。
しかし、最近ぼくが経験的に学んでいることは、そうやってあちこち動き回って出会った人とのほうが、長い付き合いになりがちだということだ。
あるいは、自分で足を運んで出かけた先で触れたできごとのいくつかのほうが、脳の中の記憶を司る部分に深く刻まれがちだということだ。
クマについてあまり考えていなかった
色んな地方でクマが人を襲い続けているという記事は読んでいたが、大阪に住んでいる自分にも関係あるとはまったく思っていなかった。
上川町に行くことが決まったあとも何も考えていなくて、日々バタバタしているうちに出発の日が近づき、さすがにちょっとクマに関する心配が頭をよぎった。
ただ、出発直前に仕事でちょっとしたトラブルというか考え直さないといけないことが出てきたり、家庭でも色々と対応することがあったりして、とにかく忙しかったせいでまた忘れてしまっていた。
出発前日の夜中にあわてて荷物を詰めているときですら、クマのことを考える余裕はなかった。
現地に着いてからも、空港から上川町役場まで車で向かったし、その後もほとんど車での移動だった。
徒歩での散策もしたけど、山に囲まれたまちの中心地は道路も広く、おしゃれなカフェや年季の入ったスナック、うまそうなラーメン屋などのお店がいくつもあり、案内してくれる人も合わせて十名ほどでうろうろしていたので、この時もクマのことを少なくとも脅威の対象として思い出すことはなかった。
ひょっとすると雑貨とかお土産のモチーフにクマが使われていたような気もするが、まあ北海道だし、山の中のまちだし、特に気にならなかったのだろう。
そしてクマのことをすっかり忘れる
翌朝、早起きして層雲峡(そううんきょう)という峡谷を訪れる。
層雲峡は石狩川の上流にある峡谷で、柱状節理(ちゅうじょうせつり)という、山を切り裂いたような断崖絶壁が続く名所で、北海道屈指の温泉街としても知られている。
紅葉シーズンは終わったと言われたけれども、絶壁の向こうの山々は赤やら黄やら茶やらの色を散らしてまだまだ鮮やかだった。
南西には大雪山という巨大な山の集合体があるそうで、その一部である黒岳(くろだけ)がこちらを見下ろしている。
上方の様子は雲に隠れて見えない。
じゃあ今からロープウェイで五合目まで行きましょう、ということで、ガイドを務めてくださっている連続起業家の方についていく。
ロープウェイが上っていくあいだじゅう、やれあっちには何があるとか、こっちにはどうのこうのと録音されたアナウンスの音声が流れていて、なんだか旅情を邪魔された気になって、ちょっとつまらない。
だけど、五合目駅に到着して、展望台に出たらそんな気持ちもすっかり晴れた。
というのも、ぼくらは雲の上にいるのである。
足もとには見渡す限り、真っ白な雲海が広がっていて、それ以外は何も見えない。
ぼくはここに来るまでの、出発直前までバタバタと仕事をしていたことも、家庭での悩みも、さっきの余計なアナウンス音声のこともすっかり忘れて、この異世界を楽しんでいた。
もちろんクマのことも。
だけどクマはいる
せっかくなので少しだけ五合目駅付近を散策してみよう、ということになった。
舗装された道をみんなで歩く。
すると大きな看板があって、環境省によるクマへの警戒を最大限にするように呼びかけが書かれている。
かなり古い看板で、ところどころ塗料がはげてしまって読みづらい。
そのリアルな感じが、最近のクマに関するニュースの記憶とあいまって、あ、やっぱりいるんだ、とぼくらの背中をひやりとさせるには十分だった。
そういえばロープウェイ山麓駅の展示スペースで「ヒグマ展」なる展示をしていて、あら、こんなにニュースになっているのに堂々とやるのね…と思ったような気がする。
クマは、いるのである。
帰り道はみんな、心なしか身を寄せ合いながら歩いて駅まで戻った。
温泉街まで戻ってくると、雲はすっかり晴れてしまって、とてもいい天気である。
さっきまでの神妙な気持ちも早々と解けてきて、ひと仕事終えたような気分になった。
付近を散策したあと、今度は車で「大雪 森のガーデン」という庭園まで少し遠出をする。
上川の森の自然を生かしながら、さまざまな花や高山植物を育てていて、ガーデンというだけあってどちらかというと洋風の庭園である。
案内してくれる館長さんのトークが軽妙で楽しい。
みんな陽気な気持ちになってきて、ふとメンバーの一人が、この辺にクマは出るんですか、と聞いた。
すると館長さんは特に表情も変えずにこう言った。
「クマは、いて当たり前」
だって、こんな山の中なんだもん、周りはクマだらけだよ。もうね、野良猫よりもクマのほうが多いから。
クマがいっぱいいるところに人間のほうが勝手に来てるだけだから。
だからクマはいて、当たり前だよ。
クマがいるところに人間が来るだけ
そりゃそうだよなあ、と思った。
こんな森だらけの大自然の中にいると、そりゃクマもいるだろうし、それ以外にも色々な危険があるだろうなと感じる。
人間のほうがイレギュラーな存在なのである。
都会にいてクマ被害に関するニュースを読むと、うわあ大変だと思うけれども、自分からクマだらけの森にやってきておいて、うわあ大変だなんてどの口が言うんだということなのだろう。
ところが人間はやってくるのである。
わざわざ東京や大阪や福岡からやってきて、みんなで集まって飲んだり食べたりするのである。
そこから何か(人間にとっては)新しいことが生まれていったりするのである。
クマからすれば、なんだかうるさいやつらがやってきたなということかもしれない。
あるいは、何かうまそうなやつらが来たぞということかもしれない。
とにかくそこにハレーションが生まれないほうがおかしい。
ぼくは別にどっちの味方でもない。
ただ、一定時間、大自然のど真ん中にいると、クマやら何やらの存在のほうが圧倒的だと感じるようになってくる。
人間のほうが断然マイノリティなのである。
となると当然のように身を守らなければという気になってくるし、一人で山道を歩く時はよっぽど警戒しなければとも思うようになる。
クマはいて当たり前だし、自然は脅威であって当たり前なのだ。
そんなことを思った。
結局、クマには遭遇しませんでした
これだけ書いておいて申し訳ないのだが、結局、今回の道中で誰もクマには遭遇しなかった。
予定していた行程はすべて順調に進み、ぼくは人間たちでごった返す新千歳空港にたどり着き、満席の飛行機に詰めこまれて帰ってきた。
大阪に帰ってきてからもクマ被害のニュースは絶えない。
そのたびにぼくは、クマはいて当たり前、と呪文のように唱えている。
よくわからない。
何が正しいのか、ぼくらはどうするべきなのか。
自然との共生とか、そういうことでもないような気がする。
とにかく圧倒的な大自然というものはいまだに存在する。
人間も自然の一部だなんていうけれども、あんなに圧倒的な存在の一部であるとはとても思えなかったりする。
そういえば上川町の人たちからも、静かな迫力のようなものを感じる気もする。
あの圧倒的な大自然に挑みにやってきた、ちょっとやそっとではなく度胸のすわった人たちの子孫だからだろうか。
あるいは、ああいう状況の中で長い時間をすごしていると、みんなそうなっていくのか。
そのあたりもよくわからない。
そして、ぼくがそうやってモヤモヤ考えていようがいなかろうが、今でもあの雄大な山々の中にはたくさんのクマがいて、せっせと食べるものを集めては、冬眠の準備をしているのだろう。
今頃、若いクマたちも長老のクマから「山の外に行けばヒトはいる。いて、当たり前だから」なんてたしなめられているのだろうか。
***
【著者プロフィール】
著者:いぬじん
プロフィールを書こうとして手が止まった。
元コピーライター、関西在住、サラリーマンをしながら、法人の運営や経営者の顧問をしたり…などと書こうと思ったのだが、そういうことにとらわれずに自由に生きるというのが、今ぼくが一番大事にしたいことなのかもしれない。
だけど「自由人」とか書くと、かなり違うような気もして。
プロフィールって、むずかしい。
ブログ:犬だって言いたいことがあるのだ。
Photo by:Federico Di Dio photography