都民を守るウルトラ団地。白鬚(しらひげ)東アパートは防火力がダンチガイ!
隅田川東岸、巨大擁壁(ようへき)のように連なる団地がある。白鬚東アパートだ。この団地、周辺で火災が起きた際、さまざまなギミックを駆使し、防火壁となり都民を守ってくれる。住居兼防火壁という不思議な使命を担う団地は、なぜ生まれたのか。
18棟が強固に手を繋(つな)ぎ、炎に立ち向かう
東向島駅から隅田川へ向かって歩く。トタンの資材置き場、モルタルの住居、看板建築など、街並みが懐かしい。
「白鬚東アパートが生まれたのも、当時隅田川の東側が木造家屋密集地帯だったからです」とは東京都住宅政策本部の井上公之さん。
大正12年(1923)の関東大震災では、同アパートより4㎞ほど南の横網町公園(当時は空地)に逃げ込んだ庶民約3万8000人が亡くなった。強風と延焼により空地も炎に包まれてしまったのだ。
同じような震災が起きたら、隅田川東岸の住民に悲劇が繰り返されてしまう——。その懸念を抱えるなか、1964年に新潟地震が発生。軟弱な地盤で、日本最大級の石油コンビナート災害が起きてしまった。
「隅田川と荒川に挟まれたこの地域も、地盤が軟弱な江東デルタ地帯。新潟地震を契機に防災対策への意識がさらに高まり、東京都は1969年に江東防災6拠点構想を決定しました」
延焼を食い止め、避難広場としても機能する6地区を整備する計画で、その一つに指定されたのが白髭東地区。都が買収した鐘淵(かねがふち)紡績東京工場跡地を中心に、再開発の計画が進められた。
その計画とは、高さ40mの住宅棟を約1.2㎞にわたってつなげて配置し、火災発生時は団地自体が巨大防火壁となる前例のないもの! 団地の西、隅田川側には約10haの公園を造り、いざとなったら住民はそこに逃げれば、団地が炎から守ってくれるという壮大なプランが描かれた。
井上さんが「いま同じ事業をやれと言われてもなかなか難しい」というほど、スケールの大きい事業のため、竣工へ向けての障壁もまた大きかった。1972年の時点で白鬚東地区の土地建物所有者は183人、借地建物所有者は101人、借家権者は403人。地区内には町工場も多かった。都と墨田区、住民で、それぞれの仕事が終わった夜に集まり、何度も話し合いが重ねられたという。この時点でもう、脳内BGMの「地上の星」が鳴り止まらない。
権利者へ新設する団地の権利床住戸の提供や、敷地内に工場棟を造ることなどで、住民の理解を獲得。ついに1975年、北側のA棟ブロックから着工がはじまる。基礎杭を地下45mまで打つなど、強固な構造で各棟の建設は続けられ、1982年に全18棟、総戸数1869戸の白鬚東アパートが完成する(民間マンション2棟分を含む)。翌年には避難所となる東白鬚公園へ中曽根総理大臣が植樹に訪れ、開園式では火消しによる梯子(はしご)乗りも披露された。
巨大地下空間にもピンチを凌(しの)ぐ貯えあり
かくして、防火壁としての宿命を背負った白鬚東アパートは、鉄壁のデフェンスシステムが構築された。各住戸のベランダには熱風や火の粉を防ぐシャッターが設けられたほか、棟と棟の間に5つの巨大ゲートを設置。近隣住民がこのゲートを潜り、園内に避難をしたら閉じる仕組みだ。ゲートがある場所だけ、各棟が階段状に低く造られており、避難路が分かりやすいのも住民ファースト。
3・8・15号棟には監視室があり、24時間体制で異常がないかチェック。有事の際はここでシャッターやスプリンクラーを遠隔操作できる。井上さんによると「13号・14号棟はまるごと防災備蓄庫になっている」そうで、医薬品や食料品の備えも憂いなし。
今回は特別に、地下空間も見学できることに。約1.2㎞の地下通路沿いには103基、計約3000t分の飲料用貯水槽が並ぶ。さらにコンクリートの内側には消火用の水約3万tを蓄える貯水槽も! ディーゼル燃料で発電する非常用発電機8基も地下に潜む。停電があっても、同アパートの防災機器を7日間稼働できる計1万5500KVA(キロボルトアンペア)を発電できるのだ。
幸いにもテスト稼働以外で、これらの防災システムが使われたことはない。話を聞く前の白鬚東アパートのイメージは「自己犠牲の宿命を背負う悲しい団地」だった。でも、万が一災害が起きたときは、シャッターガシャーン、ゲートギギーッで住民を守る巨大ヒーローだったのだ。井上さんの「ここの住民の方々は防災意識が高く、避難訓練も定期的に行っている。外部から逃げてくる避難者を自分たちが助ける、という誇りもあると思います」という言葉が印象的だった。
取材・文=鈴木健太 撮影=オカダタカオ
『散歩の達人』2025年8月号より