【イレズミは悪か?】日本のイレズミの歴史 ~縄文の伝統と江戸の刑罰、そして現代まで
多くの日本人にとっては、「イレズミ=不良文化」といったイメージが根強いだろう。
若年層のファッションタトゥーなどは増加傾向にあるものの、日本では未だイレズミに嫌悪感を抱く人が多数派である。
こうした背景には、江戸時代における刑罰としてのイレズミや、1960年代に流行したヤクザ映画の影響が大きいと考えられる。
しかし一方で、江戸時代の庶民の間ではイレズミは憧れの対象でもあったのだ。
職人や火消しなど、誇りを持つ人々の間では装飾的なイレズミが流行し、個人の美意識や信念を示す手段としても広まっていたのである。
本記事では、日本列島におけるイレズミの歴史を振り返ってみたい。
なお、イレズミには「刺青」「入墨」「黥」「タトゥー」「彫り物」「がまん」「倶利伽羅紋々(もんもん)」など、さまざまな呼び方が存在する。
それぞれの呼称は、地域、施術の目的、図柄によって異なる場合があるが、本記事では便宜上「イレズミ」の表現を用いる。
古代日本のイレズミ
縄文時代の土偶や弥生時代の埴輪には、ボディペインティングやイレズミ、あるいは瘢痕文身(ケロイド状の傷を残す装飾)を想起させる文様が見られる。
土偶の顔や身体には複雑な編み目模様が彫られており、時代が下るにつれて、その文様は単純化していった。また、埴輪の中でもイレズミを示唆する可能性のあるものが約60例確認されており、その多くは男性兵士の顔を表現している。
さらに、3世紀の文献である『魏志倭人伝』には、当時の倭人社会におけるイレズミの習慣について言及がある。
男子無大小 皆黥面文身(中略)
諸国文身各異 或左或右 或大或小 尊卑有差【意訳】
男子はおとな、子供の区別無く、みな顔と体に入れ墨している。(中略)
諸国の入れ墨はそれぞれに異なって、施術部位や大きさ、身分によっても違いがある。
おそらく古代のイレズミは、集団の帰属を示すほか、呪術的な意味を持ち、通過儀礼的におこなわれていたのだろう。
イレズミの文様ばかりか、施術行為自体にも何らかの象徴を織り込んでいたと推測されている。
奈良時代~平安時代のイレズミ
8世紀前半に編纂された記紀には、「黥面」や「文身」についての記述がいくつかある。
これらの記述では、天皇が与えた罰であったり、身分の低い人々、あるいは制圧した民族の間で行われていた習慣として触れられている。
この頃すでに、権力の中枢にある人々は、イレズミを遅れた習慣と捉えていたのだろう。
中世の日本人は「顔や身体を飾らず、内面的な美や控えめな美」を重視するようになったのだ。
この結果、日本では8世紀以降、17世紀に至るまで、イレズミに関する文献や絵画資料はほとんど見られなくなる。
身体に対する美意識の転換については、いくつかの説がある。
1. 仏教の影響
6世紀中期に仏教が伝来し、肉体の装飾より精神的な修行や内面の清浄さが重視されるようになった。
2. 律令制の導入
7世紀から8世紀にかけて、中国の律令制度を導入したことで、朝廷は官人の服装や身なりを厳しく規定した。この影響で、身体装飾は制度や礼節に反するものと見なされるようになった。
3. 平安貴族の生活様式
平安時代の皇族や貴族、特に女性たちは、屋内生活を中心とするようになり、暗い室内で映える色鮮やかな着物や香り、白化粧に美を見いだすようになった。こうした価値観の変化が、身体そのものを飾るイレズミを否定する流れとなった。
このように、政治的・宗教的な変化に伴って、古代の日本で見られたイレズミ文化は一時的に消滅した。
再びその痕跡が見られるのは、江戸時代に入ってからである。
江戸時代のイレズミ
江戸時代初期には、イレズミ文化が再び広がり始めた。
しかし、縄文・弥生時代に見られた通過儀礼としての普遍的な習慣とは異なり、江戸時代のイレズミは特定の職業や階層の人々によって行われる装飾として定着した。
この時代のイレズミは、鳶(とび)や火消し、飛脚といったふんどし姿になることが多い職業の人々の間で広く受け入れられ、彼らの誇りと勇気を示すシンボルとなった。
侠客(きょうかく)と呼ばれる任侠の世界では、腕に「南無阿弥陀仏」などの文字を彫ることが流行し、やがて文字から虎や龍、花などの具象的な図柄へと変化していった。
また、イレズミを背負った浮世絵や歌舞伎の登場人物が人気を得て、庶民の憧れとなった。
イレズミを取り扱った劇作本(現代でいうところの漫画に似た絵入り小説)が書かれるほど、江戸時代後期にはイレズミが流行したのだ。
刑罰としての黥刑
イレズミが庶民の間で流行する一方、1720年に幕府は中国の明律を参考に、刑罰としての黥刑(げいけい)を採用している。
なぜ黥刑を科したかといえば、再犯者の発見に役立ち、周囲の人々に警戒させるためであった。
この刑罰では、罪人の顔や腕に墨で文様を入れ、奉行所や藩ごとに異なるデザインが用いられた。
例えば、初犯者には額に「一」の文字、再犯者には「ノ」を追加し、最終的には「犬」という文字を彫り込むことで、罪状と回数を可視化した。
しかし、黥刑を受けた人々の中には、放免されても自暴自棄になって罪を重ねたり、入墨を見せて恐喝したりする者もいた。
江戸中期からイレズミをする者が増加したのは、黥刑によるイレズミを隠すため、との指摘もある。
結果として、一般の人がイレズミ者を敬遠する原因にもなったのである。
明治時代のイレズミ
明治維新後まもなく、政府は彫師による施術と、それを受けることの両方を禁じた。
これは、日本の開国後に来日した外国人たちの反応を気にした明治政府の判断である。
鎖国中の日本は「神秘の国」として海外の注目を集めていた。開港後、外国人たちが日本を訪れるようになると、彼らの見聞記が続々と海外で出版され、新聞や雑誌に取り上げられた。
こうした記事には、「日本の混浴文化、ふんどし姿で歩く男性、庭先での湯あみ、人前での授乳」といった習慣が興味本位で描かれ、しばしば「野蛮な風習」として紹介された。
文明国に仲間入りすることで「不平等条約」を一日も早く改正したい政府にとっては、国内の猥雑な習慣が妨げとなったのだ。
こうして、平安時代以降に一度途絶えたあと、江戸時代に復活したイレズミ文化は、明治時代に入って再び影を潜めることとなった。
一方で、19世紀末の外国人居留地では、イレズミ文化が意外な形で支持を集めていた。
当時、人力車夫や馬丁などの労働者が背負うイレズミは、外国人たちにとって珍しく興味を引くものだったとされる。彼らはイレズミを面白がって鑑賞するだけでなく、自らもその施術を受けて帰国する者もいた。
特に、王族や貴族の子弟たちにとって、世界を旅して見聞を広めることは一種の帝王学として重要視されていた。彼らは世界漫遊旅行の途中で日本を訪れ、その文化の一部としてイレズミを土産として彫り込んだのだ。
英国王ジョージ5世、ロシア皇帝ニコライ2世、オーストリア皇太子フランツ・フェルディナンドも、日本滞在中にイレズミを施していたことが記録に残されている。
彼らの日記や周囲の証言によると、日本のイレズミ文化を異国の体験として楽しみ、誇りを持ってその図柄を身に着けていたようだ。
こうしたエピソードは、イレズミが当時の日本社会で否定的に扱われる一方、異文化理解のシンボルとして一部の外国人の間で高く評価されていたことを示している。
沖縄や北海道アイヌのイレズミ
沖縄や、北海道のアイヌ民族の間では、女性たちにとってイレズミが重要な通過儀礼とされていた。
沖縄やアイヌの女性たちは、初潮や結婚を迎える頃からイレズミの施術を始め、年齢を重ねるごとに文様を徐々に拡大していった。
単なる装飾としての価値だけでなく、女性の成長と社会的な役割を示すシンボルとしての意味が込められていたのだ。
特に南西諸島の宮古諸島では、イレズミを持たない女性は「あの世」に行けないと信じられていた。
こうした信仰から、イレズミは死後の世界での身分や存在を保証する重要な要素とされていたのである。
明治政府は日本本土への統合と近代化を推し進める中で、沖縄や北海道における独自の文化や習俗を排除しようとした。
特に女性のイレズミに対しては、本州以上に厳しい取り締まりが行われた。沖縄では多くの女性がイレズミを理由に逮捕され、社会的圧力も相まって、伝統的なイレズミ文化は急速に衰退していった。
こうした政策と価値観の変化により、沖縄やアイヌ民族におけるイレズミの習慣は、20世紀初頭までにほぼ消滅することになる。
文化的な多様性は失われ、イレズミという象徴的な通過儀礼もまた、歴史の中に埋もれていったのである。
昭和期から現代においてのイレズミ
終戦後の1948年、イレズミは再び合法化されることとなった。
しかし、明治以降に非合法化された印象は払拭されず、広く浸透はしなかった。
さらに1960年代には、ヤクザ映画の大流行によってイレズミが暴力団の象徴として描かれ、その結果、イレズミと反社会的勢力との結びつきが強化されてしまった。
このイメージは現在に至るまで完全には払拭されず、今も多くの入浴施設やレジャープールでは「入れ墨・タトゥーお断り」の看板が掲げられている。これは、暴力団関係者を排除するためだけでなく、イレズミに対する一般的な恐怖感や不安感が根強く残っているためでもある。
しかし、イレズミは歴史を振り返ると、さまざまな役割や意味を持ってきたことがわかる。その一面だけでなく、多様な背景を理解することで、より広い視点から捉えることができるだろう。
参考 :
『イレズミと日本人』著/山本芳美
文 / 小森涼子