Yahoo! JAPAN

驚くほど面白い「逆」翻訳の『源氏物語』──安田登さんと読む「ウェイリー版・源氏物語」【NHK100分de名著】

NHK出版デジタルマガジン

驚くほど面白い「逆」翻訳の『源氏物語』──安田登さんと読む「ウェイリー版・源氏物語」【NHK100分de名著】

「ウェイリー版・源氏物語」を、安田登さんがやさしく解説

「ゲンジ」は、こんなに面白い!

光る君は「シャイニング・プリンス」、天皇は「エンペラー」──。1920~30年代、イギリス人アーサー・ウェイリーによって英訳された『源氏物語』="The Tale of Genji"は、世界最古の小説として驚きをもって迎えられました。

今回、能楽師・安田登さんがNHK『100分de名著』で読み解くのは、ウェイリー訳を日本語に再翻訳した、いわば「逆輸入版」の『源氏物語』です。

安田さんは、英訳版を現代の日本語に訳し戻したとき、紫式部の描いた平安時代の情景は、誰もが読破できる、驚くほど面白い世界として立ち上がってくるといいます。

今回は本書「はじめに」より、そのイントロダクションを公開します。

「逆」翻訳の『源氏物語』(はじめに)

 皆さんは、『源氏物語』を読んだことはありますか?

 高校の古文の授業で読み、あまりの文法の複雑さに挫折した。大人になってから現代語訳で読破した。大河ドラマやマンガや舞台などアダプテーションを楽しんでいる│。人それぞれ、いろいろな『源氏物語』体験があるかと思います。

 紫式部が平安中期に書いたとされる『源氏物語』。世界最古と言われるこの長編小説を、いまの日本人が読めるのは、歌人・与謝野晶子のおかげです。与謝野晶子は、一九一二〜一三年と、三八〜三九年の二度にわたり、『源氏物語』を現代語に訳しました。

 それ以前にも、その時代における「現代語訳」があるにはありました。たとえば江戸時代の『風流源氏物語』。かなり自由で画期的な訳ですが、江戸時代ですからまだ言文一致体(げんぶんいっちたい)ではありませんし、全訳でもありません。言文一致の現代語訳を初めておこなったのは、与謝野晶子です。これにより、有名だけど読むのに苦労した『源氏物語』に、ようやく多くの日本人が親しめるようになりました。

 ところが、この与謝野晶子の一回目と二回目の現代語訳のあいだに、イギリスでも『源氏物語』の世界初の英語全訳が出版されたのです。日本人が『源氏物語』を現代語訳で読めるようになった、ほぼ同じ頃にイギリス人も『源氏物語』を現代語で読めるようになった。驚きです。

 タイトルはThe Tale of Genji(一九二五〜三三年)、訳者は、大英博物館の学芸員だったアーサー・ウェイリーです。

 ウェイリーはいわゆる語学の天才。十以上の言語ができた上、大英博物館に就職してから日本語と中国語(しかも古典語)を独学でマスターしたといいますから驚きです。『源氏物語』を翻訳する前に、中国の詩や日本の和歌の本、そして能の本なども翻訳しています。

 さて、このウェイリーが訳した『源氏物語』を、現代日本語に再翻訳したものがあります。今回は、俳人で評論家の毬矢(まりや)まりえさん、詩人で翻訳家の森山恵(もりやまめぐみ)さんの姉妹が訳したものを取り上げます。この翻訳が、目からウロコの画期的翻訳であり、しかも驚くほど面白いのです。

 正直言って、私も含めて多くの日本人にとって、与謝野晶子訳で『源氏物語』を全巻読破するのはすでに難しいことになりつつあります。しかし、毬矢さん・森山さんの訳で読むと、あら不思議、気がついたら全巻読破しているのです。どんな魔法がかけられているのでしょうか。

 毬矢さん・森山さんは、自分たちの翻訳プロジェクトを「らせん訳」と名付けています。らせん訳、これが「気がついたら全巻読破」の魔法です。このらせん訳とは、いったい何なのでしょうか。

 普通、翻訳とは、ある言語を別の言語に置き換えるということで、その作業は(比喩的に言えば)平面上でおこなわれているイメージを持ちがちです。しかしこの翻訳プロジェクトの場合、まず平安時代の日本で紫式部が書いたものを、二〇世紀のイギリスでウェイリーが英語に翻訳しています。このときウェイリーは、当時の英語読者に伝わりやすいよう、さまざまな「変換」をおこなっています。たとえば彼は、几帳(きちょう)を「curtain(カーテン)」と訳しました。「Kicho」と表記して注を付ける方法もあったと思いますが、そうはしなかったのです。

 毬矢さん・森山さんは、翻訳には二種類あると言っています。同化翻訳と異化翻訳です。同化翻訳は、「翻訳先の文化に「同化」させて受容する」という方法、異化翻訳は、「異質な文化を異質なまま翻訳する方法」(『レディ・ムラサキのティーパーティ らせん訳「源氏物語」』)です。この分類によれば、ウェイリーは数々の同化翻訳をおこなっています。イギリスの文化に同化させて、『源氏物語』を英語に訳した。

 では、イギリスの文化に同化した英訳を、現代日本語に訳すとどうなるのか。お二人は、ウェイリーの訳語のいくつかをそのまま現代の読者に伝えることで、「『源氏物語』に「異化作用」を起こせるのではないか、起こしたい、そう願ったのだ」と言っています。

 毬矢さん・森山さんは、ウェイリーが「curtain」と訳したところを「几帳」に戻してはいません。カタカナ表記で「カーテン」と訳しています。こうなると、日本の読者である私たちにも、いままでに見たことのない新たな『源氏物語』の世界が立ち上がってきます。

「元の日本の古典(A)をウェイリーが英語訳(B)したものを、さらにわたしたちが現代日本語(A´)に翻訳する」。この(A)→(B)→(A´)を結ぶ線は、上から見ると閉じた円のように見えるかもしれない。でも横から見ると、(A´)は(A)に戻ったわけでは決してない。そこでねじれながら、らせんを描くようにどんどん別の次元へと上がっている。これが「らせん訳」というネーミングの由来です。

 私は、らせん訳『源氏物語』を初めて読んだとき、訳文の素晴らしさに感動し、すごく読みやすいことに驚きました。読みやすいと言っても、スラスラ読める読みやすさではありません。むしろ「立ち止まる」読みやすさがあると感じました。どういうことか。

 たとえば「紅葉賀(もみじのが)」の帖(じょう)で、光源氏が親友の頭中将(とうのちゅうじょう)と舞う「青海波(せいがいは)」という踊りは「Blue Waves(ブルー・ウェイブス)」と訳されています。この場面は第3回で詳しく取り上げますが、これはすごい翻訳です。

「青海波」という言葉を目にしたとき、日本人のクセとして、ただ「せいがいは」と読み、「あの青海波ね」と流してしまう。でも「ブルー・ウェイブス」と言われると一瞬立ち止まり、「そうか、青海波の舞いにはブルーの波のイメージがあるのか」と気づく。脳の違う部分が刺激され、いままで見えてこなかったものが見えてくるおもしろさがあるのです。

 また、私は能楽師なので、能のフィルターを通して『源氏物語』を読んでいた部分があることに、らせん訳を読んで初めて気づきました。

 能には『源氏物語』を題材にした作品が十以上もあります。たとえば六条御息所(ろくじょうのみやすどころ)が主人公(シテ)の能「葵上(あおいのうえ)」。六条御息所は怖いというイメージを持っている人が多いと思いますが、私も同じでした。ところが、らせん訳ではあまり怖くないのです。私が彼女を怖いと感じたのは、能で使われる般若(はんにゃ)の面から来たイメージだったようです。ほかにもらせん訳を読んで初めて気づかされることはたくさんありました。

 今回は、このらせん訳を中心に、紫式部の原文やウェイリーの英訳にも触れながら『源氏物語』を読んでいきたいと思います。

『源氏物語』は全部で五十四帖あります。大長編ですので、今回はそのうち、第十三帖の「明石(あかし)」までを詳述します。第1回は、アーサー・ウェイリーの英訳の特徴、『源氏物語』全体のあらすじと構成を紹介します。第2回は主人公・光源氏に焦点を当て、「シャイニング・プリンス」としての光源氏とは何者かを考えてみます。第3回は、原文・ウェイリー訳・らせん訳を比較しながら、『源氏物語』と「もののあはれ」について考えます。第4回は、世界文学と『源氏物語』という視点で、ウェイリーが英訳したからこそ見えてくる、『源氏物語』と世界文学とのつながりを見ていきたいと思います。

 最後に呼称について整理しておきます。このテキストでは、紫式部による原文を「原文」、ウェイリーによる英訳を「ウェイリー訳」、毬矢さん・森山さんによる再翻訳を「らせん訳」と呼ぶことにします。

 時をかける『源氏物語』の世界へ、ようこそ。

NHK「100分de名著」テキストでは、
第1回 翻訳という魔法
第2回 「シャイニング・プリンス」としてのゲンジ
第3回 『源氏物語』と「もののあはれ」
第4回 世界文学としての『源氏物語』
もう一冊の名著 『紫式部日記』
という構成で、ウェイリー版・源氏物語を味わいます。

あわせて読みたい

講師

安田 登(やすだ・のぼる)
能楽師
一九五六年千葉県生まれ。下掛宝生流ワキ方能楽師。ワキ方の重鎮、鏑木岑男師の謡に衝撃を受け二十七歳で入門、国内外を問わず活躍。おもな著書に『能650年続いた仕掛けとは』(新潮新書)、『学びのきほん 役に立つ古典』『学びのきほん 使える儒教』『別冊NHK100分de名著 集中講義 平家物語』『別冊NHK100分de名著 集中講義 太平記』(NHK出版)など。
※刊行時の情報です

◆「NHK100分de名著 『ウェイリー版・源氏物語』2024年9月」より
◆テキストに掲載の脚注、図版、写真、ルビ、凡例などは記事から割愛している場合があります。
※本書における現代語訳の引用は『源氏物語 A・ウェイリー版 』(全4巻、毬矢まりえ・森山恵訳、左右社)に、原文は『源氏物語』(全9巻、柳井滋ほか校注、岩波文庫)に、英訳はThe Tale of Genji translated by Arthur Waley Tuttle Publishingに拠ります。また、読みやすさを鑑み、引用の一部にルビの加除をしています。

◆TOP画像:『源氏物語絵巻』住吉具慶筆 東京国立博物館所蔵
出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/)を加工
※テキストへの掲載はございません。

【関連記事】

おすすめの記事