ラ・カロッツェリア・イタリアーナ ’77”:伊東和彦の写真帳_私的クルマ書き残し:#31
2025年3月、奈良の薬師寺を舞台に開催された『コンコルソ・デレガンツァ・ジャパン』に、『ストラトス・ゼロ』がやってきた。カロッツェリア・ベルトーネ時代のマルチェロ・ガンディーニが手掛けたコンセプトカーであり、クルマのスタイリングに大きな衝撃を与えた。ストラトス・ゼロは奈良でのお披露目から1カ月後、幕張メッセで開催されたオートモビル・カウンシルにも展示されたので、ご覧になった方も多いかと思う。
イタリアンのカロッツェリアが手掛けた、歴史的なワンオフのコンセプトカー(プロトタイプ)が、展示のために日本までやって来るとは希有なことだ。
私の過去の連載では、ビッサリーニ・マンタ、そして1970年大阪万博にやってきたフェラーリ・モデューロの目撃談を記しているので、再読をいただければ幸いだ。
過去には、重要なモデルたちが大挙してイタリアからやって来たことがあった。1977年7月16〜24日の会期で、東京・晴海の東京国際見本市会場で催された“ラ・カロッツェリア・イタリアーナ ’77”だ。
ネガ保存箱を探してみたところ、その様子を収めたネガホルターを2本みつけたので、この連載でご覧にいれることにした。実はまだ不足している出展車もあるので、まだ未発見のネガがあるはずだが……。
いつもの連載では、何枚かの写真に2000文字ほどの文字を添えている。今回は少し、想い出を書かせていただくが、次回からは写真を中心に据えることにし、複数回は続けてみたい。
ASA100のカラーネガフィルムを使い、スピードライトはなく、中学生時代から愛用していた、露出計なしのペンタックスSVに手持ちのレンズが2本だけという撮影環境だったから、毎度のことながらクオリティは低い。だが、私がその場にいた証拠でもあり、ご容赦をいただきたい。
自分でも観覧に行った記憶は鮮明に残っていたが、紙焼き写真にはしていなかったこともあり、見るのは久しぶりであり、スキャニングをしながら、大きなディスプレイに表示して見入っていた。この年から社会人1年生になったこともあり、慣れぬ環境下でのストレス解消になったことを思い出した。写真には記憶を蘇らせる効果が大きいようだ。
ラ・カロッツェリア・イタリアーナ ’77を主催したのは、『日伊デザイン交流協会』と呼ばれる団体で、イタリアのデザインを自社製品に取り入れている企業が集まっている、交友組織だと聞いた。イタリア在住のEY氏が音頭を取り、後援には外務省のほか、イタリア大使館やイタリア政府貿易省、イタリア自動車工業会などが就くという大きな規模のショーであった。
東京国際見本市会場は当時の東京モーターショー(1959年~1987年)を開催していた名の知れた大規模な施設で、ドーム型の屋根を備えた東館が象徴的であった。その内に、ピニンファリーナやベルトーネ、イタルデザイン、ミケロッティ、ザガートといったカロッツェリアが手掛けたワンオフのプロトタイプ、20数台が展示すると告知されていた。
どれも自動車専門誌の誌面(モノクロページも多々あり)でしか知らないクルマであり、間違っても仕事が休日出勤にならぬように願っていた。
入場料は土・日が2000円、平日が1500円であり、交通費やフィルム代を含めれば、社会人1年生にとっては少なからぬ出費だっただろうが、この陣容からではまったく問題ではなかった。いつもクルマの催しに同行する博学のI君もつきあってくれた。
時はまさにスーパーカーブームの絶頂期であることから、主催者側は、スーパーカー効果を得て入場者数を増やそうと考えたのは、明らかであり、ランボルギーニ・イオタやミウラ、カウンタック、フェラーリ365BB、デ・トマゾ・パンテーラ、ランチア・ストラトスなど。はたまた、アルファロメオのT33レーシングスポーツカーや、フェラーリF1なども多数も展示されていた。
こうした展示内容に対して、ショーを紹介した専門雑誌の紹介記事では、けっこう批判的な論評もされ、まったくカロッツェリアに対しての解説が不充分であり、全体像が掴みづらいなどとしていた。
主催者は、かなりの予備知識も持った観覧者の来場を想定していたのだろうか。確かにカロッツェリアの全容を語った説明文はなかった記憶がある。
だが、私はといえば、プロの目ではそうした判断なのだろうが、ひとりのクルマ好きにとっては、貴重な機会を提供してくれた主催者には感謝の気持ちしかなかった。
初めて目にするワンオフのショーカーが目前にあることに舞い上がり、手当たり次第にシャッターを切りつつ凝視し、個々のクルマの解説は後で調べればいい、そんな感じだった。開館と同時に入場して、閉館間近までいた記憶がある。
写真を見返してみると、いろいろなイタリア車を同時に観せるショーとしては面白かったと思う。これは後日談だが、音頭を取ったEY氏と親しいという友人に氏をイタリア出張の際に紹介され、「楽しませていただいた」旨を申し述べたほどだ。
詳しいことは分からないが、事前の予告では、回数を重ねるとしていたこのイベントは、1977年のこの1回だけで終わっている。私が訪れたのは休日だったが、人出は少なく、広い会場が閑散としていたように感じた。あるいはそれが1回のみで終わった理由なのかもしれない。
広いショー会場の中に居並ぶ流麗なプロトタイプの中に、日本車をベースにしたショーカーが1台あった。今回の連載では、これについて少し詳しく書き残しておきたい。
それは “ホンダ”という身近な名を冠した、ザガート・ヤングスター、“ホンディーナ(小さなホンダの意味)”だ。とてもキュートに見えた。以前に似たようなクルマを見ていた記憶があったが、その時には思い出せなかった。
果たして似たクルマと思ったのは、1969年トリノ・ショーでカロッツェリア・ザガートが発表した、フィアット・ヌォーヴァ500をベースにした超小型オープン2座スポーツカーの“ザガート・ザンザーラ”だった。“蚊”とネーミングされたこのモデルを手掛けたのは、ザガートで多くの秀作を手掛けていたエルコーレ・スパーダだ。
スパーダはこのあとザガートを去っているが、ザンザーラを見たイタリアのホンダ販売店(と言われる)からの依頼で、N360をベースに仕立て直したモデルをサガートが製作している。“ホンディーナ”は、N360がFWDであるためミドエンジンであり、細部の意匠には僅かな違いがある。ごく少数でも生産化されたら素敵だなと思ったが、どうやらワンオフの規模で終わったらしい。
ところが幸運なことに、この展示車はカロッツェリア・イタリアーナの終了後に日本に留まり、現在でも健在であるという。
話は突然に1989年へと飛ぶ。ホンダ・ビートの発売直後に試乗した私は、排気量や寸法などの制約が多い軽自動車であっても、こんなにスタイリッシュで楽しいクルマができる時代が来たなと感慨にひたりつつ、ホンディーナは、「生まれた時期が早すぎたのではなかったか」と、そう思った。
今回はザガートとミケロッティ、イタルデザインを紹介してみた。