沖縄のアイデンティティの指標?!琉球史研究家・上里隆史氏に学ぶ「琉球漆器と歴史」
琉球漆器を伝承する企業が、「株式会社 角萬漆器」ふくめ2社となってしまいました。沖縄の窮地を何度も救ってきたといわれる琉球漆器は沖縄らしさを表現する、守るべき伝統のひとつです。伝統を後世につなぐためには、多くの人が歴史を知り、そして愛することが必要だと考えます。 大量生産・大量消費時代を終え、ものづくりのバックグラウンドや作り手の想い、未来への影響力を考える時代がきています。琉球漆器は製作工程がサステナブルであり、未来へのインパクトは強い!加えて、長い歴史のなかでいくつもの危機をのりこえてきて、その過程に沖縄のアイデンティティの指標がいっぱい詰まっています。 沖縄の、琉球が困難にぶつかった時にのりこえた要ともなった琉球漆器の歴史を、いま振り返ってみましょう。そして伝統を絶やさず未来につなぐために、我々ができることはなにか。琉球史研究家の上里隆史氏に話を聞いてきました。
上里隆史氏プロフィール
琉球・沖縄の歴史を、楽しく・わかりやすく伝える琉球史研究家。 1976年生まれ。専門は琉球史(古琉球とアジアの交易史)。琉球大学法文学部(琉球史専攻)卒業。早稲田大学大学院文学研究科修士課程修了。 浦添市立図書館長を経て、現在、内閣府地域活性化伝道師、法政大学沖縄文化研究所国内研究員。数多くの受賞歴・著書・論文については公式サイトにて。(https://uezatotakashi.my.canva.site/)
琉球王国が栄える要となった他国との交易
島国である琉球王国は、古くから交易が盛んでした。沖縄の漆器が本格的に発展したのは琉球王国時代14〜15世紀頃、中国との交流が盛んになってからとされています。15世紀前半に首里城を拠点とした琉球王国が建国されてからは、那覇港を表玄関に東アジアの国々を結ぶ場所となりました。 そのころ、私的な海外渡航と貿易を禁止していた明との「朝貢」(ちょうこう)が許されていた琉球王国は、「万國津梁(ばんこくしんりょう)」つまり世界の架け橋と称すほどに成長していきます。 東アジア諸国から輸入したものをほかの国に再輸出することで、中継貿易の一大拠点として多くの船が出入りし、海外の人や文化で賑わう国際都市にまで発展していきました。 しかし16世紀に入ると琉球の活躍の場が失われ、中継貿易も衰退します。さらに1609年には薩摩藩が琉球王国を武力で制圧。そして薩摩藩が行った琉球侵攻を境に、徳川幕府向けの献上品製作がはじまります。 一方で中国との君臣関係も続け、日本と中国のそれぞれの文化を融合し独自の文化を確立していきました。
Q:特徴的なのが、「東南アジアの海の交差点」としていろいろなものが入ってきて琉球が繁栄していったという点ですよね 交易国家であったことが、琉球漆器を発展させた大きな要因であったことは間違いありません。 中国と盛んに交流しているので、中国での情報や技術を得られやすい状況にありました。そしてもうひとつの要因は、中継貿易をしていたという点です。 当時は、琉球の特産品で国際的に売れるものや資源がそれほどありませんでした。しかし中国との関係を築くことで、中国から大量の高価な品が届きます。それらをただ消費するだけでなく、さらに転売をしていました。 Q:転売した結果、さまざまな品物や人が集まってきたのですね 当時東南アジアのものや中国のもの、日本のものが琉球に溢れていて、それらを求めて海外から多くの人たちがやってくるわけです。そうすると必然的にいろいろな文化の集積地になり得るわけです。 国のあり方として中継貿易をやったという、交易で国を成り立たせたのが琉球が発展していく大きな要因となったと考えられます。 当時の中国はいわゆる鎖国政策をしていたので、ニーズがある中国商品を海外で手に入れにくかったという背景があります。だから琉球にある中国製品が売れるわけです。 琉球が売りにくるのを待つわけではなく、海外の人たちが進んで琉球にきて、ほしい品物を得る、という流れを作れたことで、たくさんの人が集まる場所となりました。 Q:つまり、琉球は買い付けに来る場所だったということでしょうか? そういうところでもありますね。交易の中継地というのは、わざわざどこかに出向かなくてもいいわけです。たくさんの人が集う場所になった結果、情報や技術がさらに集まったということになります。 Q:そもそもなぜ琉球だったのでしょうか? ここは大きな謎なんですけどね(笑)。中国と公的な関係を築いたのが、琉球の国家として大きな出来事でした。 当時の中国は朝貢というスタイルを取らないと貿易を許可してもらえず、日本とは優遇の度合いが全然違いました。日本は10年に一度しか朝貢できないのに、琉球は14世紀後半くらいまで無制限に許されていました。その結果たくさんの品物がどんどん来るわけです。 なぜ琉球に対してそういう許可を出したのか。よくいわれているのが、当時の中国の政策で民間の貿易取引を停止したため、それまで貿易で生活していた人たちが生活できなくなりました。その結果非合法に貿易をするようになり、いわゆる海賊化して治安が悪化する要因となりました。それを解決するための手段として、琉球を受け皿にと考えたようです。 琉球が中国と貿易してよいとなったら、中国界隈の商人たちが琉球に貿易をしにきますよね。国策を守りながらも治安を悪化させないひとつの策として、琉球を優遇したのではないかという説があります。 Q:規模的にも琉球がちょうどよかったのでしょうか? サイズ的なメリットもあるでしょうし、地理的にもちょうどよかったと思われます。また、当時の琉球は新興国で、できはじめの小さな国だったので、あわせて育てていこうという考えがあり、中国側としても扱いやすかったという側面もあります。 Q:タイミングもよかったのですね だと思います。 もうひとつは、琉球も積極的に交易の話にのったという点もあります。この関係は中国から強制されたものではなく、提案されたものでした。断ることもできたのですが、積極的に中国の思惑にのって国を大きくしようとした、という点もあります。 Q:その当時交易とかを決めていた人はとても頭のいい人だったのですね 浦添の王「察度(さっと)」なんですよ。交易をスタートさせたのが、沖縄の歴史の大転換期といえるでしょう。 琉球が一気に国家形成したのは、中国との関係性があったからです。外との関係を積極的にやろうとしたことが、琉球文化がいまの形になった原点といえます。ただ、歴史上あまり注目されていないのですが(笑)。
Q:他国の文化を取り入れてオリジナリティを確立して行ったのは、沖縄のチャンプルー精神ならではですね 海外の交流が前提となった社会なので、文化のあり方が規定されていくわけですよね。海外のいろいろな要素を琉球が取り入れていって、それをチャンプルー、つまり取捨選択をしていろいろなパーツを組み合わせて琉球の形にしていきました。 オリジナルのものをイチから作るのではなく、外のものを積極的に取り入れてきました。 Q:すごく柔軟性のある国民性ですよね そうですね。柔軟性がないと海外とのおつきあいができなかったんじゃないですかね。 自分たちの形をかたくなに主張していくのは、おそらく交易をするのにはあまりメリットがありません。 交易はビジネスです。ビジネスをする際に自分たちの主張だけをして、強硬な態度をとるのではうまくいきません。外交文書があることで外交のやりとりの経過がわかる外交文書によると、琉球の場合は結構柔軟にやっていたようですね。 Q:同じ時代に日本人同士で戦っていたことを思うと、かなり進んでいるように感じます 外交文書に「四海一家(しかいいっか)」というフレーズが出てきます。四方の海はみな家族という意味です。もうひとつ「両平」というフレーズも出てきます。これは利益を互いに分かち合うウィンウィンの関係性という意味です。 これらはビジネスの基本ですが、琉球は交渉に長けていたのでしょう。
もともと琉球は特産品が馬と硫黄しかなかった?!
ここまで上里さんに琉球が交易で栄えていった話をうかがいましたが、そもそも沖縄には特産品と呼べるものが馬と硫黄しかありませんでした。しかし交易を重ねることにより特産品をどんどん生み出し、琉球という小さな島国を守り抜く一手となっていきます。引き続き話を聞いてみました! Q:もともと琉球には特産品が馬と硫黄しかなかったのですよね? 当時は硫黄鳥島で取れる硫黄が貴重品ではあったのですが、それだけでは成り立たないので、中継貿易の転売で結構な利益を出していました。たとえば、日本刀を中国に売ると仕入れ値の10倍で売れたらしいです。 Q:現代風にいうと「転売ヤー」ですね 当時はとても重要なポジションだったんですよ。民間の商人が中国に行って直接買い付けができなかったので、商人たちが活躍できる場がなくなったなかで、琉球が代わって供給しているので。 地理的な位置と中国との付き合いが相まっているので、ほかの国が琉球に代わってやれることではありません。 Q:唯一無二の存在だったのですね 当時はそれにばっちりはまりました。 しかし16世紀になると民間商人によるライバルが出現し、中国の国力が低下し、琉球の活躍の場がどんどん失われていきます。加えて江戸時代になると薩摩藩の支配を受けますよね。 そこで国内で高付加価値の商品を作って、日本市場に持っていくという別の政策をとるようになりました。それが黒糖やウコンです。黒糖は中継貿易が下火になった後に、基幹産業として開発していったものなのです。 Q:黒糖の生産技術はどこから入ってきたのでしょうか サトウキビは原生していたようなのですが、それを商品化する発想はなかったようです。江戸時代になり、サトウキビを栽培し黒糖として販売するようになりました。中国からサーターグルマ(砂糖車・サトウキビをしぼる圧搾機のこと)を導入したり、生産システムを取り入れたりしたようです。 当時甘いものは高級品だったので、大阪市場で高値で取引されるようになりました。ウコンも同じく、漢方薬の原料として作られたので、利益になったようです。 中継貿易時代は海外のものを転売していましたが、江戸時代になると国内でなにか作って販売していく形で繁栄していきました。ただ、海外との交流が大前提になっている国だということは変わりません。それが大前提にあって、いろいろなものや文化に反映されるような形で成り立っていきました。漆器はまさにそのひとつです。
琉球漆器は実は昔から一般的に使われていた?
Q:琉球漆器のはじまりについて教えてください 漆器については、中継貿易が盛んになる前からたくさん作られていて、かなり古いものだと考えられています。中国との朝貢をはじめた直後ぐらいから、琉球漆器を中国へ献上していたという記録があります。浦添の王様のお墓の調査で漆片が見つかったことで、漆器の起源は古いといわれています。 中継貿易がはじまる前から沖縄では漆器作りをしていて、貿易で海外からの情報が入ってきたことにより爆発的にレベルが上がったと考えられます。 Q:漆の技術が琉球にはあったということでしょうか そういわれています。ただ技術革新・技術的に向上したのは、中国との関係があったからです。献上品として多く使われていますし、身近な暮らしでも利用していたようです。ノロ(村落の神事祭祀を司る神女)の勾玉(まがたま)を入れる器も漆ですし、薩摩の殿さまが日常的に使っていたお椀も琉球漆器でした。琉球の人々の日常の生活に根付いていたと考えられています。
Q:漆器は一般的に使われていたものだったのでしょうか 身近にあるものだったといえます。記録をみると漆に関する記述は、ちょこちょこありますよ。 Q:身近にあった漆器が献上品になるほど発展したのですね 江戸時代に入ると徳川将軍とも交流しなければならなくなったので、徳川幕府に対しての献上品の代表として漆器がどんどん作られていきました。琉球は国家が管理していろいろなものを作っていたのです。それが貝摺奉行所(かいずりぶぎょうしょ)といわれる部門です。 貝摺奉行所(かいずりぶぎょうしょ)とは、琉球王国時代に漆器製作を監督した部署です。外交のために漆器を使うという明確な目的に沿って、貝摺奉行所(かいずりぶぎょうしょ)が仕様を決めて職人さんが作っていました。当時の琉球は江戸幕府に組み込まれていたので、潰されないように、存続させていくために外交で自分たちの国・地位を保とうとしていました。そのなかで琉球が特にめざしたのが、文化の力を高めていくことです。それによって江戸幕府から認められました。 高い技術力の漆器を作って献上するということは、幕府から認められるほどの価値があるということです。
琉球は、さまざまな技術を取り入れ独自の文化とチャンプルーすることで発展していった
琉球王国は小さな島々から成り立つ場所でした。しかし東アジアの中継貿易一大拠点となったことで、琉球漆器や 泡盛・織物・陶磁器などの特産品が増えていきました。 その結果さらに交易が広がり、徳川幕府への献上品を用意でき、日本に統治されても独自の文化を守り続け、世界大戦後に売るものがあったから戦後の危機をのりこえられたのではないでしょうか。 それはひとえに、他文化を取り入れながら独自の文化を確立していく「チャンプルー精神」があったからではないでしょうか。 Q:琉球の人たちの発展への努力が素晴らしいですね 当時の人々はさまざまな技術を海外から導入しようとしていました。小さい国なので、海外の高いレベルを導入する努力を、継続的にやっています。いろいろなルーツを持つ人が琉球にいた、ということがポイントです。技術や文化は人が持ってくるものなので、人がたくさんいるということは必然的に文化が集まります。琉球側が積極的に取り入れる姿勢も相まって、たくさんの技術や情報が沖縄に集まる環境だったのが大きなポイントです。 Q:琉球漆器をつないでいく理由はなんだと思いますか? 文化は歴史の積み重ねです。漆器は沖縄のなかで身近なものであり、ものづくりのなかで長い歴史があります。沖縄に馴染んだものづくりのひとつが、漆器といえるでしょう。 いまは便利なものも多くなったので漆器が身近ではなくなっていますが、琉球漆器は長い歴史のなかで琉球の人たちの個性がとても反映されたものだと思います。 自分たちの個性は守っていかないと、自分たちが何者であるかわからなくなってしまうという点があると思います。そういう意味においても文化はたいせつですし、沖縄のなかで風土に馴染んで使われていたもののひとつが漆器ということを、しっかり知ってほしいと思います。 Q:沖縄の人の誇りでもありますよね? こんな小さな国で高い品質を保持し、海外の人たちに認められるくらいのものを作ったという事実は、実はすごいことです。その辺りをもっとみんなに知ってもらいたいなと思います。あたり前にあるものではないのでね。 Q:琉球漆器をつなぐために、一個人でできることはなんでしょうか 使うことですよね。なんでもいいと思うんですよ。お箸からでも、漆器を生活のなかに取り入れるところからはじめるのがいいですよね。使ってみて使いやすいと思ったものをまず取り入れてみたり、技術的な観点から興味を持ったりしてもいいですし。まず身近においてみることがスタートかなと思います。 作る側としても、使いたいと思ってもらえるものを作るという姿勢も大事ですよね。気軽にまずは、という入り口が必要ですね。 Q:琉球漆器を現代の生活に取り入れるためのアイデアがあれば教えてください 沖縄には、みんなで集まってワイワイ食事するオードブル文化があります。みんなで集まる特別なときに、「東道盆(とぅんだーぶん)」のような伝統的な琉球漆器を、オードブルに使ったら素敵だと思います。 「東道盆(とぅんだーぶん)」は宮廷料理で来賓をもてなすために使われた器なので、贅沢なイベントで映えると思います。常識にとらわれずに使ってみるといいかもしれないですね。
これからの時代に残していきたいもの・文化を改めて考えてみよう
限りある原料を循環させる「サーキュラーエコノミー」が主流となる今後は、いかに廃棄物が発生しないようにものづくりを行い、物質的回復率を高めて、資源を循環させる取り組みができるかにかかっています。そういった意味では、漆器はとても適しているといえるのではないでしょうか。漆器に使用される材料は天然素材である漆・木地・顔料などで自然に分解され、製作過程はエネルギーを大量に使わないため、環境負荷が少ないのが特徴です。紫外線に弱いという漆器のデメリットは、つまり最終的には分解されるという環境的メリットでもあります。 東アジアとの交易が盛んだった時代に、他文化を取り入れながら独自の文化を確立していき、特産品を輩出していけたのは、琉球の「チャンプルー精神」があったからこそ。琉球時代の歴史的背景と同じようなことがこれから起こるかと考えたら、起こらないかもしれません。しかし特産品が馬と硫黄しかなかった時代に、うまく外交政策をとり独自の文化を確立していった事実は、今後起こり得る危機に直面した際の参考事例となるのではないでしょうか。 沖縄のアイデンティティをふと思い出すために、身近にひとつ琉球漆器をおいてみるという選択もありなのかもしれませんね。 今回取材した場所は浦添市美術館です。常設展示室では、16世紀から現代までの琉球漆器をとおして琉球・沖縄の歴史や文化を紹介しています。ぜひ一度訪れて漆器の歴史を学んでみてくださいね。 (写真:Tomoko PHOTO)
浦添市美術館住所
〒901-2103 沖縄県浦添市仲間1丁目9番2号
電話番号
098-879-3219
営業時間
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定休日
月曜・年末年始(12月29日〜1月3日)
駐車場
あり
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