広島と中日で永久欠番、若手有望株揃う投手ナンバー プロ野球における背番号15の選手たち
2024年現役選手の背番号「15」
投手の番号として定着している背番号「15」。2024年各球団の背番号「15」は下記の選手が背負っている。
阪神:西純矢投手
広島:永久欠番(黒田博樹)
DeNA:徳山壮磨投手
巨人:大勢(翁田大勢)投手
ヤクルト:山下輝投手
中日:永久欠番(西沢道夫)
オリックス:椋木蓮投手
ロッテ:美馬学投手
ソフトバンク:不在
楽天:不在
西武:與座海人投手
日本ハム:不在
不在:3球団
永久欠番:2球団
投手:7球団
捕手:0球団
内野手:0球団
外野手:0球団
永久欠番となっているのは2球団。広島は2016年シーズン限りで現役を引退した黒田博樹が背負っていた。チームを25年ぶりのリーグ優勝に導きユニフォームを脱いだそのオフに、永久欠番として制定された。
中日の背番号「15」は西沢道夫がつけていたが、引退時に永久欠番となった。これが中日にとって最初の永久欠番でもある。西沢は監督、コーチ時代にも背番号「15」を着用した。
ソフトバンクの背番号「15」は、ダイエー時代に藤井将雄が病死して以降、親会社が変わった今も誰もつけていない。楽天は2020年に着用していたJ.T.シャギワが退団して以降は不在。日本ハムでは昨季までつけていた上沢直之がポスティング制度を利用して海を渡ったため、今季は空き番となっている。
その他の7球団はすべて投手が背負う。巨人では1年目から守護神として新人最多タイとなる37セーブをマークし、新人王にも輝いた大勢が着用。オリックスではトミー・ジョン手術を受け育成契約に移行していた椋木蓮が今季開幕前に支配下登録され、入団時に託された「15」を再び背負っている。
西武の與座海人も今季から「15」に変更。かつて同じアンダースローとして通算112勝をマークし、西武黄金時代を支えた松沼博久氏がつけていた番号で、その系譜を継承した格好だ。
その他にも中継ぎとして活躍しているDeNAの徳山壮磨や阪神の2019年ドラフト1位・西純矢、ヤクルトの2021年ドラフト1位・山下輝と、各球団の若手有望株たちが「15」を背負っている。
次章以降では、背番号「15」を着用していた歴代の名選手たちを紹介していく。
2016年に永久欠番になった黒田博樹の「15」
2016年シーズン限りで現役を引退した黒田博樹が、広島時代に背負っていた背番号「15」は引退後に永久欠番となった。
黒田は1996年ドラフト2位(逆指名)で専修大学から広島に入団し、背番号「15」を与えられた。広島の背番号「15」は過去に安仁屋宗八、入団当初の津田恒美らがつけていた番号でもあった。
黒田は初年度から先発として一軍で登板、4年目となる2000年に9勝をマークし、翌2001年から3年連続、2005年から再び3年連続で2ケタ勝利を挙げるなど、エースとして活躍した。また、2005年には最多勝(15勝)、2006年には最優秀防御率(防御率1.85)のタイトルも獲得している。
2008年からはメジャーリーグのロサンゼルス・ドジャース、ニューヨーク・ヤンキースでプレーし、7年間で79勝をマーク。メジャーでの背番号は「18」で、7年間にわたり着用していた。
広島は黒田が不在の間も背番号「15」を空き番として残し、最大限の誠意を表していた。これが、2015年の広島復帰に繋がった理由のひとつと言えるだろう。
初代「ミスタードラゴンズ」こと西沢道夫
中日の永久欠番で最も早く制定されたのが西沢道夫の背番号「15」である。
西沢は1リーグ時代の1937年に入団し、投手と野手の二刀流としてチームを支えた。1940年には20勝(9敗)、1950年には46本塁打をマークしており、日本プロ野球において20勝と40本塁打を達成したのは、西沢ただひとり。1952年には打率.353、98打点で首位打者、打点王に輝くなど、初代「ミスタードラゴンズ」と呼ばれた。
1958年シーズンをもって現役を引退したが、その際に背番号「15」を永久欠番とすることを条件に現役を退いたと後に杉下茂氏が語っている。この条件を出されたもうひとりが服部受弘で、服部が背負っていた「10」も翌1960年に永久欠番となっている。
西沢は1963年から1966年までのコーチ、監督時代も背番号「15」を背負っているが、監督最終年の1967年は「63」だった。1977年に野球殿堂入りを果たしたが、体調不良もあり同年12月に56歳の若さで亡くなっている。
「炎の中継ぎ」こと藤井将雄
1994年ドラフト4位で、日産自動車九州からダイエーに入団した藤井将雄。社会人出身の即戦力投手ということもあり、背番号「15」を与えられた。前身球団の南海では、日本人メジャーリーガー第1号となる「マッシー村上」こと村上雅則が着用していた背番号でもある。
藤井は期待に応え、1年目から中継ぎとして登板。4年目の1998年には48試合、翌1999年には59試合に登板し、防御率2.89と中継ぎの柱へと成長した。
しかし、1999年終了後に肺がんで入院。2000年には二軍戦で登板できるほどまでに回復したが、一軍復帰は叶わず10月13日に死去。現役選手として登録中の出来事だった。
以来、背番号「15」は準永久欠番扱いとされ、その後背負った選手はいない。また、本拠地である福岡ドームの15番ゲートは「藤井ゲート」と呼ばれており、藤井選手が入院中に残したメッセージが飾られている。
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記事:SPAIA編集部