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教科書に載らない大奥のスキャンダル ~禁断の「智泉院事件」とは

草の実堂

教科書に載らない大奥のスキャンダル ~禁断の「智泉院事件」とは
画像:延命院の僧・日潤と奥女中(豊原国周)public domain

慶長8年(1603)初代将軍・徳川家康から、慶応4年(1868)第15代将軍・徳川慶喜まで続いた徳川幕府。

この約260年の間に、さまざまな歴史的な出来事がありましたが、実は教科書には載らない「スキャンダル」も数々あったのです。

大奥のトップ・御年寄の絵島と、人気役者・生島新五郎の密通事件「絵島生島事件」や、奥女中たちがイケメン僧侶に惚れ込み、狂宴を繰り広げた「延命院事件」などが有名なところでしょう。

今回は延命寺事件と同様に、11代将軍・徳川家斉(いえなり)の治世下で起きた、大奥女中と僧侶たちの密会スキャンダル「智泉院事件(ちせんいんじけん)」についてご紹介いたします。

絶倫将軍と美しい側室の出会い

画像:徳川家斉像(徳川記念財団蔵)public domain

11代将軍・徳川家斉と聞くと、少し影が薄いイメージがあります。

ところが家斉は、知る人ぞ知る女好きで「オットセイ将軍」とあだ名がつくほど絶倫将軍でした。

判明しているだけでも16人の側室を持ち、53人もの子どもをもうけています。

そんな絶倫を誇る家斉が、美しすぎる女性「お美代の方」と出会ったことにより、大奥の女中たちと若いイケメン僧侶たちの間で、狂宴スキャンダルが引き起こされることになるのです。

娘を利用した父親の僧侶の企み

絶世の美女と伝えられるお美代の方の父親については諸説ありますが、日蓮宗の中山法華経寺智泉院の住職である日啓(日純とも)という説が有力です。

お美代の方は、徳川家斉の側近中の側近だった旗本・中野清茂の養女となって大奥に送り込まれました。

彼女は、すぐに女性好きの家斉の目に留まり、側室になります。

これは、出世と権力への強い欲望を抱いていた日啓が、お美代の方を中野清茂の養女として大奥に送り込めば「家斉は、必ず娘を側室に迎えるだろう」と目論んだとされています。

その後、美しいお美代の方は家斉から一身に寵愛を受け、三人の姫をもうけました。

そして、次第に大奥の中でも権力を握るようになり、それに伴って実父の日啓や養父の清茂も、その権力基盤を固めていったのです。

画像:お美代の方の娘・溶姫 月岡芳年画『近世人物誌 徳川溶姫君』public domain

日啓が狙った「将軍家の御祈祷所」の座

お美代の方は、おねだり上手だったそうで、実父・日啓が住職を務める智泉院を、「将軍家の御祈祷所」にするよう家斉に頼みました。

しかしながら、将軍家の菩提寺は芝の増上寺(浄土宗)と上野寛永寺(天台宗)であり、当時、日蓮宗の影響力は幕府内において低かったのです。
つまり、日蓮宗の支院でしかない智泉院が、御祈祷所になることは到底考えられないことでした。

そこで家斉は、日蓮宗の大本山である法華経寺を祈祷所に加え、智泉院を「御用取次」とする妥協案を提示し、日啓とお美代の方はこれを受け入れました。

また、大奥の女中たちは、普段は外出が許されていませんでした。
お美代の方は、そんな彼女たちのストレスを解消するために、お参りを口実として、息抜きに智泉院を訪れるよう勧めたといいます。

これもおそらくは、日啓が自分の意図を実現するために、お美代の方を使って仕向けたことだったのでしょう。

若いイケメン僧侶が大奥の女中たちを接待

画像:仏教寺院で欲に溺れる大奥の女中「延命院日当話」(月岡芳年)public domain

その後、智泉院は、一度訪れた女中たちが何度も通いたくなるように、ある策略を講じました。

智泉院は江戸城から約28km、7里ほど離れた下総国中山(現在の千葉県市川市)にあり、当時の交通事情では簡単に行ける場所ではなかったのです。

その策略とは、「若くて魅力的な僧侶たちを揃えて、接待役にする」というものでした。

列をなして女中たちが押し寄せる

画像:大奥の女中に奉仕をする若い僧「延命院日当話」(月岡芳年)public domain

この策略は見事に成功します。

御祈祷や代参といった名目で、大奥の御年寄や御中臈(おちゅうろう)、御客会釈(おきゃくあしらい)などの上級女中たちが、若くて魅力的な僧侶に会うために、次々と智泉院に通い詰めるようになりました。

大奥は男子禁制の厳格な女の園であり、自由な外出はおろか、面会も制限され、女中同士の夜更かしさえも禁止されるなど、厳しい規則に縛られた息苦しい場所でした。

しかし、厳しい規律ほど、それに対する反発は強まるものです。
また、多くの女中が押しかけることで、女性同士の競争心も刺激されたのかもしれません。

その結果、女中たちはイケメン僧侶との愛欲に溺れてしまったのです。

御法度ゆえに燃え上がる、大奥の女中たち

画像:船遊びをする大奥の女中たち(豊原周延)public domain

大奥の女中である以上、「将軍のお手が付こうが付くまいが、他の男性と接触するなどもってのほか」という厳しいルールがありました。

このため、多くの女中たちは「一生男性と縁のないまま、過ごさなければならないのか」と、恋愛への渇望を押し殺しながら生活していたのでしょう。

智泉院での僧侶と女中たちの狂宴は、どんどんエスカレートしていったそうです。

若く魅力的な僧侶を使い、大奥の女中たちを虜にする策略は、日啓が強い権力を手に入れるために仕組んだものだと考えられています。

家斉の死去後、欲望の園は廃寺に

徳川家斉は天保12年(1841年)に69歳でこの世を去りました。

12代将軍・徳川家慶が政権を握ると、老中首座の水野忠邦天保の改革を開始します。

画像:水野忠邦像 public domain

その第一歩として、寺社奉行の阿部正弘に命じて、悪名が高くなっていた智泉院の摘発を行ったのです。

この摘発で、日啓ら数名が逮捕され、遠島の刑に処せられました。
彼らは厳しい獄中生活を強いられ、江戸を離れる前に獄死したと伝えられています。

一方、大奥の上級女中らは30人ほどが関与していたものの、処罰された者はいませんでした。
これは、幕府が事件の拡大を恐れたのか、あるいは日啓を厳粛することで事態は収束する、と判断したためではないかと推測されます。

家斉の死後、髪を下ろして専行院を名乗っていたお美代の方は、押込(座敷牢への幽閉)にされたと伝えられています。
別の説では、江戸城二の丸で家斉の菩提を弔いながら、静かに余生を過ごしたとも言われています。

終わりに

画像:豊原周延「千代田の大奥」

この「智泉院事件」は「延命院事件」と同様に、小説や映画、ドラマなど、さまざまな作品で取り上げられています。

絶倫将軍を虜にした美貌の側室、権力欲に燃える僧侶の父、そして若く美しい僧侶に心を奪われた女中たち。

これらの人間の欲望や葛藤は、時代を超えて現代にも通じるものであり、長く人々の興味を引き続けているのでしょう。

参考:
『遊王 徳川家斉』岡崎守恭 / 文春新書
『図説 大奥の世界』山本博文 / 河出書房新社
『池上本門寺と徳川の夫人たち』小村究/氷川書房
文 / 桃配伝子

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